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2017年7月23日 (日)

夏期講習の予定

夏期講習の予定は以下のとおり。

● 高2・・・・・8/13(日)~8/19(土) 7回 19:30~21:30 費用:15,000円
● 高1・・・・・8/13(日)~8/19(土) 7回 17:30~19:30 費用:15,000円
● 中学・・・・7/31(火) 8/4(金) 8/7(火) 8/11(金)
        8/21(火) 8/25(金) 8/28(火)  7回  14:00~15:45 費用:15,000円

学期末ということもあり、高1の生徒が立て続けに模試の結果を持ってきた。そこまで悪い生徒はいなかったので良かったが、私が肌で感じている本人の実力と模試の偏差値とにはギャップがあるし、まだまだ中学の貯金でやりくりしている感も否めない。もちろんもっと悲惨な生徒もいて、中学での貯金など毛頭なく、むしろ借金をしこたま抱えて高校に上がってくる者もいる。そういう生徒こそきちんと模試の結果を持ってきて助言を仰ぐべきなのだが、「記憶にございません」と文科省のように隠蔽してしまうのである。

高1はこの夏、「脱中学」と「受験の意識付け」をしてほしい。また、小手先のテクニックで要領よく解いたりすることも大事なのだが、今はがっぷり四つに組んで勝負する力をつけてほしい。夏休み中に大学巡り(オープンキャンパス)をする高1生もいるらしい。巡りあわせによってはモチベーションが上がるので、受験にピンとこない生徒や全く危機感のない生徒は参加してみるのがよいだろう。

高3では英検1級をいくつか解いてみたが、ここまで来ると「英語力+国語力」である。英語力だけでは対応できない。むしろ国語力が大きなカギを握っている気さえする。また基礎知識(常識)が欠けているのも大きな妨げになる。たとえば、「パナマ運河」がどこにあるのか知らない、irrigation「灌漑」の漢字が読めない、またその意味を知らない、天気図を読み解く問題で、どちらが東で西なのか分からないという生徒もいた。

一朝一夕では難しいことだが、国語力(と常識)はしっかり身につけておきたい。漫画でもゲームでも良いのだが、せっかく自室に本棚があるのなら、そこに文庫やハードカバーを並べていく喜びを感じてほしい。「ポケモン」やら「ムシキング」やらで、モンスターや昆虫のコンプリートを目指したように、「三島由紀夫の作品をコンプリートしました!」や「スタインベック全集の第7巻Getだぜ!」というのもあってよいかもしれない。得られるものの大きさを考えればやって損はない。

通学時の電車の中でも、就寝前の10分でも、トイレできばっているときでもいい。あるいは喫茶店に行って2時間くらい腰を据えて本
の世界に耽り、またそんな自分はカッコいいとナルシズムに耽るのもよい。とにかく、手持ちぶさたにスマホをいじくる時間があるのなら、サイズも重さも似ているので、代替品として文庫を手に取ってみてはどうだろうか。

2017年6月20日 (火)

夏期講習のお知らせ

夏休みがすぐそこまで来ている。「平常授業」の夏期休暇は8/13(日)~8/19(土)になる(だろう)
ただし「夏期講習」は例外で、むしろこの週に集中する。

※ 夏期講習の有無は以下の通りだ。


 ● 高1は普段週1しか授業していないので、この際にまとめて行いたい。

 ● 高2はまだまだ力不足なのでする。どの学年よりも必要だと思っている。

 ● 高3は必要ないと思うのでしない。(※平常授業はある)
 
 ● 中学は、センター後身の試験などを見据えて「Speaking(会話)」の講習を行う。


※ 日程、時間、講習費等は(なるべく早く)決まり次第お知らせする。
※ 日程等、個人の都合は聞けないことをご了承願いたい。
※ 参加は強制ではない。
※ 平常授業は夏期講習の有無に関係なく淡々と行う。


2017年6月10日 (土)

英語格差

先日、奥さんによる自由英作の授業を行った。もったいないので他の学年にも声をかけようと思ったが、まあ受験生が気分よく勉強してくれるならそれでいい。学校なら30~40人の授業であるが、わずか3人だった。確かに「自由英作は出題されないから採らない」というのは仕方がない。彼らの言い分もおおよそ分かるのだが、やはり腑に落ちない部分がどうしてもある。数年前、高校生向けに英会話の授業を設けたことがあった。その際も、「受験で必要ないので」と結局生徒は集まらず、社会人の英会話クラスになってしまった。

英検の3級・準2級にも自由英作が出題されるようになり、2020年からの新センター試験でもライティングとスピーキングが導入されることになった。つまり、「必要ないから」では済まない時代がやって来たのである。やっと「英語」と「英会話」とを分けて考える時代が終わるのかもしれない。ただし、100年間変わらなかったものが、今さら本当に変わるのかという疑念はなかなか拭えるものでもない。少なからず保守派の抵抗勢力がいるわけで、特に教育の現場である学校
からは悲鳴にも似た不満の声が上がる。

前回のブログで述べたように、学校の「英語格差」に世間が気づき慌てる日もそう遠くないかもしれない。そして、これまで以上に公立高校(中学)を敬遠し、私立高校(中学)に通わせようという親が増えるわけである。財政的余裕のある
私立高校の場合、観光目的ではなく、教育学部のdegree(ディグリー)やTESOLの資格保持者など、まともなネイティブ講師を吟味して必要な数だけ雇うことができる。一方、公立高校の場合、教育委員会の採用基準は目の粗いザルのようなので、資格も経験も乏しいネイティブ講師しか集まらない。しかも懐事情が厳しいので、生徒の数に対してかなり供給不足になっている。

また講師だけではなく、そもそものクラスサイズにも気を配らなければならない。30~40人単位のクラスサイズで行うのは愚かというか、あり得ない。受動的ではなく、能動的な参加を促すためには一クラスあたり10人が限界である。また、授業内容も、そこで読解や文法の説明をしたところであまり意味はない。スピーキング用の教材・内容を扱い、(教師主体ではなく)生徒主体で
どんどん喋らせることだ。日本語は厳禁で、授業に入ると同時に脳のスイッチを英語に切り替えるなど徹底する必要がある。

まずは、様々なことを英語で思考し英語で話す時間を増やすことである。英語の出力回路ができていないか、あっても糞詰まりになっているので、流れの良い伝達回路を開通させることだ。訓練当初は脳みそをフル回転するのですごく疲労する。また、慣れない発音の連続で舌が疲れる。さらには、英語を聞き漏らさないよう集中するので耳も疲れる。そして初めて気づくのである。英語は学問ではなく体育や音楽のような体得を目指す実技なのだと。

そして英語の授業だけではなく、数学も世界史も生物など全ての教科も英語、休み時間も部活も英語、家での会話も英語、電話もメールもラインも英語を使用する・・・というのは無理だろうから、なるべくそれに近い状況に追い込むことである。このようにスピーキング(英会話)とは本来、
心身ともに疲弊する辛く厳しい過程であるはずであり、月に一度程度の楽しく生ぬるい授業で到達できるものではない。

新センター試験の導入には賛否両論ある。私自身も、あれやこれや文句を垂れて揚げ足をとりたい自分もいれば、どことなく期待を寄せている自分もいる。意外とこの刷新により、生徒だけでなく教師も学校も腹をくくって重い腰を上げるかもしれない。そして、戦後以降(あるいは明治維新以降)、変わらぬまますっかり淀みきった空気の入れ替えが行われるかもしれない。それは塾も予備校も同じであり、当塾も私自身もそうである。その淀んだ空気と共に入れ替えられないようにしなければならない。

2017年6月 6日 (火)

英語の新テスト

2020年から、現行の「大学センター試験」が廃止され、新テストが実施される。特に英語は大幅な変更が予測されていて、記述方式の民間検定試験を活用するようになる。候補としては、「英検」や「TOEFL」などが挙げられている。また、2017年の11月と、18年の12月ごろにプレテストを実施するらしいので、関係する者は要チェックである。それにしても、文科省から出てくるものはスキャンダルばかりで、新テストの情報はなかなか出てこない。週刊誌のみなさんには、その辺りのスクープもぜひお願いしたい。

新たに導入される「スピーキング」や「ライティング」の評価法、採点基準、そもそも公平に評価できるのか、など議論の余地は多分にあるようだ。つまり、公平性を追求すれば、採点者の主観を排除した現行のマークシート方式に落ち着くのだが、スピーキングやライティングをきちんと試験するには、どうしても「マークシート方式=公平性」というHaven(安息地)から飛び出なければならない。作成部会はこの壁をどうクリアするのだろうか。

別に揚げ足を取りたいわけではない。採点者の主観が入り込むことで、公平性が維持できないことは仕方がないと思っている。英検の2次試験しかり、自動車免許の実技試験しかりである。むしろ、作成委員会の方々もそのことを覚悟の上で聖域に踏み込んだのだろうから、各方面からの様々なクレームや脅迫に負けずに、それなりに良いものをしっかりと作っていただきたい。

それより危惧しているのは、高校ごとの「英語格差」、つまり英語を指導する現場の公平性が維持できないのではなかろうか、ということだ。スピーキングとライティングの指導をきちんと行える学校は、公立高校ではほぼ皆無であり、私立高校のなかでも僅かである。現行のセンター試験であれば、学校で習ったことが出題されるという建て前が一応あるのだが、このままでは、学校で十分に(まったく)教わらないまま出題されるという理不尽な事態になるかもしれない。

確かに、各高校のホームページや説明会を覗けば、「グローバルな社会で活躍できる生徒を育成するため、英語を推進しています」などと調子の良いことを並べ立ててはいるが、いざ入学してみると詐欺だったのではなかろうかという学校もあるようだ。理想をうたうばかりで、それに向かう具体的な策もなければ努力もしていないのでは困る。

また、
某進学校に「英語表現」という授業があるのだが、その名前からしてスピーキングやプレゼン方法などの表現する訓練を行うのかと思いきや、イディオムや会話表現、文法、構文などをひたすら暗記することに終始するらしい。授業では、生徒も教師も一切英語を話すことはなく、ネイティブ講師の授業は月に1度あるかないかで、試験後のどうでもよいときなどにやって来ては、ゲームなどの緩い授業を行うそうだ。

「スピーキング(会話)」の授業を成功させるには、「クラスサイズの縮小(10人程度)」「まともな講師(別にネイティブでなくてもよい)」「専用のカリキュラム(文法や表現の暗記に逃げない)」「たっぷりの時間と継続(授業時間数の増加と家庭学習との連携が必要)」など、諸々の要素を揃えなければならない。詳しくはまた次回のブログで書いてみよう。

当塾でも、以上のようなことを踏まえて、中学と高校に少なくとも各1つずつ「スピーキング(会話)」のクラスを設けようと奥さんと相談している。詳細が決まり次第、ブログでお知らせしていく。

2017年5月15日 (月)

Shrug Shoulders

先日、あるうどん店の駐車場に消防車を止めて消防団員が昼食をとっていたことがニュースになり非難されていた。月並みなことは言いたくないのだが、「バカらしい」や「どうでもいい」という言葉しか出てこない。詳細は分からないにしても、むしろ「お仕事ご苦労様です」「昼食時までも万一に備えているんだな」という気さえする。この程度が不祥事ならば、カナダでは毎日謝罪会見である。

カナダはカナダで極端なのだが、たとえば警察官がパトカーを路駐してスタバでコーヒーを飲んでいたり、バスの運転手が停車中にマック(マクド)に入ったかと思えば、ハンバーガーを頬張って戻ってきたり、日本ではあり得ない光景を何度も目のあたりにした。仕事はしょせん仕事である。仕事に人生を捧げるとか、家族との時間を犠牲にしてまで働くとかいうことはないし、勤務中であれ、食いたい時には食う、飲みたい時には飲む、休みたい時には休む、というスタンスらしい。

特にバスの運転手は、コンプライアンスが緩いのか、あるいはそれを遵守する運転手のモラルが低いのか、やりたい放題だった。日本では乗客との会話は厳禁だが、カナダの運転手はお喋りで誰かれ構わずよく話しかける。また、バス停以外のところで乗客を降ろしたり、逆にバス停の客を無視したり、ルートを間違えたり、近道したり、外輪差と内輪差から右折時に縁石にのり上げたりと日本ではありえないことだらけであった。

しかしながら、裏を返せば短所は長所である。たとえば年寄り臭いかもしれないが、バスを乗り降りする際にきちんと挨拶が交わされる。そこに学校の「あいさつ運動」のような強迫観念や不自然さはない。朝の乗車時にはお互いに"Morning"と挨拶を交わす。降車時にも"Thanks"と声をかけると、"Have a good one(良い一日を)"と返してくれる。当初はものすごく恥ずかしかったが、バスから降り立つと「よし今日も頑張ろう」と引き締まった気持ちになった。挨拶は気持ちが良いということを、30歳を目前にして知ったわけである。

毎朝、同じバス停から同じ顔触れが乗ってくる。寝坊してバス停に着くのが遅れても、運転手がその姿を視認すると待ってくれる。いつも乗ってくる小学生がバス停にいないので、運転手はバスから降りてその子の家まで行き、手を繋いで戻ってきたこともあった。一番前の席に座るとガムをくれたり、天気やら、どこから来たのやら、勉強の具合はどうだと話しかけてくれたりした。これは私にとっては大きくプラスだった。

とにかく良いことも悪いことも、様々な思い出が「バス」にはある。ウイニペグ、カルガリー、エドモントンのバス網はいまだに覚えている。何番のバスがどこを走り、その路線沿いにはどんな店があるのかなどもいまだはっきりしている。その当時の記憶力が優れていたからではなく、バスを乗りこなすには「記憶力」をはじめ「方向感覚」、「情報収集能力」、そして何より「勇気」が必要だったからだ。

カナダのバス停は日本のようにいちいち名前はなく、故に次の停車駅を告げる車内アナウンスもない。つまり外を集中して眺めていないと現在地や降りる駅が分からなくなる。住宅街などは特に特徴的な建物がないので、バスの中に居ながらにして迷子になる。さらにこれが夜になると、視界から入ってくる情報は限りなくゼロになるので完全にパニックと化す。幼稚園児のように(違う意味で)ドキドキしながら窓にかぶりついていなければならない。

カナダに渡って間もなく、学校からの帰宅途中、それこそ降りるバス停を乗り過ごしてしまったことがある。理由は上述の通りである。気付いた段階で降りれば良さそうだが、すっかり陽は落ちていて車外は真っ暗である。バスのヘッドライトが闇を切り裂きながら、「嵐が丘」の冒頭にあるような殺風景な荒野を走っていた。分かる人には分かると思うが、こうなると怖くて降りるに降りられないのである。

そうこうしているうちに、やがてバスは地の果てのようなターミナルにたどり着いた。私は積荷のごとく運ばれるがままである。重く疲れた身体を引きずるようにして後方のドアから降りようとした。そのとき、低く唸るエンジン音に混じって運転席から逞しい声が届いた。 "Hey!.Are you OK?"

 運:「家はどこだ?」
 私:「ジャパン!」
 運:「ノー、カナダのどこに住んでいるんだ?」
 私:「ウイニペグ!」
 運:「分かっている。ここもウイニペグだ。ウイニペグのどこかって聞いているんだ!」
 私:「アイ・ドント・リメンバー!」
 運:「・・・(絶句)」
 私:「バット・アイ・ハブ・メモ!」
 運:「よし、それを見せて見ろ」
 (慌ててリュックからメモを取り出す)
  私:「ショー・ミー、ショー・ミー!(「見て、見て」のつもりだが、実際は「見せて、見せて」)」
  運:「違う、お前が俺に見せるんだ!」
 
という情けないやり取りの最中、運転手が幾度となく"shrug"のジェスチャー(手のひらを上に向けて肩をすくめる所作)をした。これがカナダで見た初めてのリアル"shrug"だった。その後、彼は哀れな異国のおっさんに同情してか、親切にもホームステイ先の近くまで送ってくれたのだった。
 
 

2017年5月 3日 (水)

たかが単語

引き続き単語について。極論を言えば、覚えてくれれば(=記憶に定着して使いたい時に使えるという状態であれば)どんな方法でも構わない。これも言い古したことだが、暗記とは才能やセンスのない人間でも努力で太刀打ちできるものである。私に言わせればそれは数少ない絶好のチャンスなのだが、その機会さえもサボろうとする人間がいる。

暗記とは己自身との精神的な戦いにほかならないのだが、最近では暗記することを避けて通ってきたのか覚え方が分からないと漏らす生徒が多い。私の学生時代、英語に関しては暗記を極めることが英語ができることであり、暗記を制すことが受験を制すことであった。英作文に至るまで例文暗記で対処しようとしていたのだから首を傾げたくもなるのだが、とにかく暗記することが正攻法というか受験英語の王道であった。そのおかげで暗記することには慣れたし、その後の人生でもそこまで暗記が苦ではなくなった。その当時の日本人の英語は今と変わらずからっきしダメだったが、その代わりに世界で最も暗記が得意な民族であった気がする。

前回のブログでも書いたように、1時間以上かけてそれぞれの単語の説明をする。語源や、語呂合わせや、些末な話や豆知識などは、無機質なアルファベットの羅列である単語に、なんとかして「個性」を見出してもらおうという意図がある。単語に個性を与えてやれば、定着しやすいのである。それを「この先生雑談が好きなんだな」とボケッーと聞いているようでは困る。

それでは具体的な覚え方についてだが、紙を眺めるだけは厳禁である。必ず紙に書くこと。ちらしの裏でも構わないが、大学ノートを使って冊数を積み上げていく方が達成感があってよい。また発音を確認しながら読む練習を数回重ねることも忘れないでほしい。発音のできない英語はもはや英語ではない。20年前ならいざ知らず、電子辞書やパソコン、スマホのアプリでも実際の音声で容易に確認することができる。特に高価な電子辞書を購入してもらった者はここで使わずしていつ使うのか。面倒くさがらず、一つ一つ調べること。

試験まで1週間の猶予があるとして、当日までどのように勉強を進めればよいかであるが、ずっと放置した挙句、授業の1時間前になってようやく手をつけるというのは最悪である。その場しのぎも甚だしい。それでも「切羽詰まらなければできない」、つまりは「切羽詰まったらできる」と言うのならまだわからなくもないのだが、毎度「
切羽詰まり、かつできない」ということを繰り返すのはギャンブル中毒のようで重症である。

当塾の(高校の)単語試験は13回で終わる。高2ならば一か月半、高1ならば3か月で一周するようになっている。1年間で高2なら8周し、高1なら4周する計算だ。高校の間延びした単語試験よりもはるかに回転率はよいのだが、これでもまだまだ足りない。塾のペースとはまた別に自分のペースを設けてやっていくことが望まれる。つまり
本人の意欲次第では、一か月もあれば当塾のプリントであれ市販の単語集であれ1周することは可能である。そもそも受験に範囲というものはないわけで、直前には全てのものが頭の中に入っていなければならない。とすれば、ちまちまやり続けている場合ではなく、徐々にペースを上げていかなければならないのは自明である。そこで、以下のやり方をぜひ参考にしてほしい。

1日目・・・100語をチェック。
2日目・・・昨日の100語の復習+新しい100語
3日目・・・過去2日間の200語を復習+新しい100語
4日目・・・過去2日間の200語を復習+新しい100語
以下同じ要領で1日に300個ずつチェックする。

進学校の生徒はこれくらいのことを平然とこなしている。学校の「やらない方がましな超スローペース」や周りの友人の「勉強するのはイケてない」や「勉強よりも大事なことがある」みたいな雰囲気に流されないようにしてほしい。この手の連中は、入学時には「勉強よりも大事なことがある」と部活や行事を優先し、受験が間近に迫って「勉強に勝るものはない」と態度を改めるのである。

このやり方で点数が取れないのなら私は何も言わない。おそらく合格点を取れない生徒はこの5分の1の量(努力)もやれてないのではなかろうか。また「中学生だから少なくてもいいよね」ということにはならない。人生において最も記憶力の良い時期に、それを使わないのは宝の持ち腐れである。変に「中学生らしさ」を装う必要はない。行けるときに行ける限り、どんどん先へと行けばよい。

とにかく、まず自分の意志でやることである。やらされているという感覚では効果は半減する。先生に怒られるからや、ノルマや義務としての勉強になってはならない。また、暗記の効率を上げる方法はあっても暗記を回避する方法はないのである。下手な考え休むに似たりで、あれこれ考えるよりは一歩一歩着実に歩を進めることである。

人間怖いと思えば平地に一歩踏み出すのだって怖い。生徒によってはこの程度の単語の暗記が絶望のように感ずるかもしれない。しかし、実際には千尋の谷を背にして絶壁をよじ上っているわけではなく、平地に転がる小石に躓いてよろめいただけである。よって、多少ぐらついても体勢を立て直してまた足を踏み出せばよいのだ。歩く意志のある者には、私は喜んで手を差し伸べる。

2017年4月25日 (火)

高1、春の風景

先日、高1の授業があった。4月、5月は単語の説明に多くの時間を割かねばならず、単語100個の説明をするのに1時間以上もかかってしまった。具体的には、アクセント・発音の注意点、語法やら文法事項、語源、語呂合わせ、意味やら使用場面の違い、どうでもよい些末な話など、思いつく限りのことを話す。

この際、生徒たちは重要だと思うことや、覚えておいた方が得だと思うことを各々に書き留める。よほどでない限り重要だからという前置きも板書もしないので、本人の嗅覚次第ということになる。私の方も興奮のあまり話が脱線しすぎないよう注意しなければならない。皮肉なことなのだが、些末でどうでもよいことほど話すのに熱が入るし面白いのである。

単語テストそのものは、皆合格点を超えたので良かったが、満点者が1人も出なかったのは不満だった。合格点をとることと満点を採り続けることは、点数に現れる以上にその志と定着率において雲泥の差がある。皆が後者であってほしいのは言うまでもない。
次の試験範囲には、"effect" "affect" "affection"が並んで登場する。それぞれ「影響」「影響を与える」「愛情」という意味だが区別できるだろうか?ちなみに、"affection"は「ア、フェクション!とくしゃみする」と教えた。

単語の説明を終えると、1人の生徒が"influence
"(影響)と"effect"(影響)の違いについて尋ねてきた。共に「影響」という意味ではある。何でも=(イコール)で結ぶことに疑問を抱かない生徒が多い中、違いを知ろうとするのはよい心がけだ。まずは自分で「英英辞典」を調べてみればさらによいのだが、そこまで期待するのは高望みというものか。

その問いに対する回答として、おそらくは次のようなことを言った。両者の違いは"influence"の語源から考えてみるのがよい。 "
influence"は、in[中に]+flu[流れる]+nce[名詞語尾]で、「中に流れるもの」→「影響」である。よって思想や生き様のような人の心の中に流れる影響のことである。つまり、「イチローの影響で野球を始めた」や「竹岡先生の影響で英語教師になった」のような文での使用はよいのだが、「海面の上昇は温暖化の影響による」のような文では使えない。この場合は一般的に"effect"(または他の表現法)を使う。

巷に溢れている多くの単語集では、上述したようなことが「effect=influence」のように書いてあるので最悪だと言い続けている。数式でもない限りイコールというのはなかなかあり得ないはずなのだが、暗記の要領を求めるあまり必要以上に多用している感がある。受験に重きをおくから英語の本質を忘れていいということにはならない。
英語とは言語の習得であり、言語の習得とは使うことを前提にすべきものである。それを忘れず真摯に取り組むことが、実は受験への一番の近道であり、英語を学ぶ際の要領(コツ)である。

前回の高1の授業に話は戻るが、語彙の説明をしたあと読解をする時間はなかったので、英作文に取り組んだ。それぞれの答えを一枚の紙にコピーして、皆でそれぞれの解答を見ていく。よもやの珍回答連発である。お互いに笑い合って和やかな雰囲気になるのはよいのだが、「これが段々と笑えない状況になってくるからね」「ライティングを見れば一番英語力がはっきりする」と釘を刺しておく。時計を見ると授業終了の時間である。

とにかく私から見れば、高1Aも高1Bも多少実力の差はあれど目くそ鼻くそである。奥さんに言わせれば私も鼻くそらしいのだが(「でも、大きな鼻くそよ」というフォローは戴いた)、とにかく1週間で授業内容をしっかりと消化し吸収してきてほしい。塾に来ている時間は週に2時間弱であり、その時間で得たことを活かすも殺すも塾外の時間でどれだけ復習したかである。来週の授業でどれだけ成長したかをぜひ楽しみにしたい。

2017年4月10日 (月)

英語の恥はかき捨て

「『シャーペンの芯』は何て言うの?」と聞くと、たとえ駿台の京大クラスの生徒であってもほとんど答えられない。およそ20年前、竹岡広信先生がそのように嘆いていらっしゃったのを思い出した。それから私自身が曲がりなりにも指導者となり、同様の質問をする機会に幾度となく巡り合わせるのだが、やはり誰1人として答えられない。英語教育の改革やら刷新やら声高に叫ばれ続けてきたわりには、20年という年月を経ても何も変わっていないようで悲惨である。

たとえば、"religion"(宗教)や"anthropology"( 人類学)のような難単語につまづく受験生はいない 。しかしながら、机の上にある文房具を手に取って「これ何て言うの?」と聞くだけで、難関大志望の受験生であれ一考してはみるもののもはや苦笑いするしかない。なので、私の方も苦笑いするしかなく、その場は気まずい空気に包まれる。

ちなみに「シャーペンや鉛筆の芯」は"lead"という。読み方は「✕リード」ではなく「〇レッド」である。leadとはそもそも『鉛』のことだと言うと、「そうか鉛筆の芯は鉛でできてますもんね!」となるのだが、そう世の中はうまくできていない。現在、鉛筆の芯は鉛ではできてないのである。黒鉛(炭素結合によるものであり鉛とは別物)と粘土を混ぜてできている。鉛が人体に有毒であるという事実を鑑みれば至極当然だろう。

ところで今年は中1のクラスを設けないことにした。とりあえずは学校の授業にしっかり遅れずについていけば大丈夫という楽観的観測によるものである。もちろん呑み込みの遅い早いはあるだろうが、そこまで大きく差が出るほどの内容ではない。仮についていけないという事態になればそれは努力かやる気が足りないのである。問い合わせもいただいていて申し訳ないのだが、中2からの参加をお待ちしている。厚かましいが、できれば英検の4級~3級を取得してくれていると指導が楽で助かる。

一方で、中3のクラスは人数が増えてきたので2つ設けることにした。中学対象(高校受験)の塾は供給過多のようで私の出る幕はなかろうと思いきや、意外と先見の明というか大学入試を見据えての問い合わせがある。もちろん本人自身が不安を感じて応募してくるということはまずないから、その親の必死な叫びが生徒のやる気と直結しかつ代弁しているとは限らない。むしろ逆で、どれだけ病状が深刻であることを繰り返し宣告しても当の本人は馬耳東風であることが多い。

中3クラスを2つ設けるのは、現通塾者と途中入塾者との間に力の差があるからである。現クラスの数人が次回の英検で2級を受験するらしい。そのうち一人は早朝の「NHKラジオ英会話」を毎日欠かさず聞く猛者(もさ)であり、リスニング・セクションでは点を落とさない。私自身、学生の時分にチャレンジしたことはあるのだが、テキストを購入した時点で満足してしまい、実際の放送を一度も聞かぬままチャレンジは終了してしまった。

とにかく、入塾希望者が体験授業を受けに来てくれるのは有難いのだが、その度に肩を落として帰っていく姿をみるのは忍びない。最初に電話口で、「うちの生徒たちはよくできるものでして」ともなかなか言えるものではない(実際には、彼らができるのではなく他ができないのだから)。
わざと難しい問題を避けて基本問題ばかりを当てるようにしたこともあるが、その接待のごとき不正があまりにも露骨すぎたり、それさえ答えられないときにもはやフォローのしようがなくなったりと、ただただ気まずい空気が流れてしまった。

ちなみに、
この「気まずい空気」を英語では"pregnant silence"という。直訳は「妊娠した沈黙」で、ズバリ気まずさを「孕んでいる」からである。カナダでこの表現を知り得たのは、多国籍の人々を前にしょうもない冗談を披露してはpregnant silenceを量産してしまった自らの苦い実体験による。こういう身を削って得られた表現は決して忘れることはない。なので当塾の生徒諸君も、「シャーペンの芯」が英語で分からないことを堂々と恥じればよい。そして私になじられたりボロクソ言われることにより、一生忘れることはないだろう。

2017年3月19日 (日)

入試結果2017

後期試験の結果・補欠待ちもあるが、とりあえず現状の進学先は以下の通りである。
 

  ● 筑波大(生命環境)
  ● 首都大(都市教養)
  ● 千葉大(教育)
  ● 電通大(情報理工) 
  ● 上智大(総合人間)
  ● 上智大(法学)
  ● 立教大(観光学)
  ● 中央大(総合政策)
  ● 成蹊大(経済)
  ● 成城大(文学)
  ● 武蔵大(人間科学)
 ● 専修大(商学)
  ● 東京女子大(現代教養)
  ● 町田高
  ● 永山高


前年と比べると見劣りする結果かもしれないが、入塾時からの成長の幅は前年の生徒以上だった。本当によく頑張ったと思う。足りなかったのは私の指導力である。また、本人(と学校)任せであった受験科目の選択や、受験大学の選定にもう少し口を挟めばよかったと思っている。受け方によってはもう一伸びできたのではなかろうか。

結果を見ればわかるように、MARCHに「あと一歩届かず」という生徒を多く出してしまった。MARCHや早慶上智などのヒエラルキーを信奉するわけではないが、彼らが志している以上は行かせてあげたかった。後輩たちの今後の参考になりそうなことは、本人の許可を得てから報告していこうと思う。

※追記:浪人生が千葉大と電通大(後期)合格。成蹊大の生徒が補欠待ちより上智合格。高校入試の結果も追加。

2017年3月 6日 (月)

No News Good News?

「便りのないのは良い便り」というのは、受験に限って当てはまらない。便りがないのは基本悪い知らせである。もちろん面倒くさいやら気まずいやらもあるだろうがたいていはそうである。逆説的に言うなら、良いニュースは喜びを分かち合おうとして真っ先に伝えられる。

今年の受験戦争も終息に向かっているが、戦況が芳しくなくても、あるいは既に白旗を掲げ戦線を離脱していても、とにかく息災ならばメールで良いので連絡を入れてほしい。医学部を目指して浪人しているM君も、一段落したら
ぜひ連絡してほしい。このまま音信不通で行方知れずというのは、縁が切れてしまった感じがしてなんか涙が出そうである。知る人ぞ知るというか(知らなくてよいことだが)、私はこう見えてけっこうセンチメンタリストなのである。

いずれ結果の分かった分はブログ等でお知らせする。
他の塾や予備校では大きく壁に貼り出したり、顔写真付きのチラシを撒いたりするところもあるようだが、どうも節操なく映ったり、デリカシーに欠ける気がして私にはできない。結果に満足している生徒は問題ないだろうが、そうではない生徒を同様に扱うのは、京都三条河原のさらし首のようでどうも気が引けてしまう。

もちろん塾や予備校がまったくの慈善事業ではなく、限られた(というか縮小しつつある)市場の奪い合いだという側面を考えれば、誇大広告というか過度なアピールは仕方ないのかもしれない。けれども、そのスポットライトの陰には少なからず悔し涙を流した生徒がいるわけで、良い成果を誇るのなら、悪い成果に対しての自覚と責任をも省みるべきであろう。

私自身、合格に対して嬉しい気持ちはあれど、そこまで
心は揺さぶられない。本人の努力が実を結んだだけで私の力によるものだとは到底思えないからである。これは謙遜ではなくて、他人の功績を自分のもののように誇るのは、まるで自らが寄生虫か何かにでも成り下がった気がして情けなく、いずれ天罰が下りそうな気さえする。一方でうまくいかなかった受験に関しては、自分でも驚くほど自責の念に駆られてしまう。一生引きずってしまうのではなかろうかと思うほどである。この時期、寝つきが悪かったり、寝つけても夢の多い浅い眠りになってしまうのもそのせいではないだろうか

数日前、都立高校の合格発表があった。数年後、彼らが大学入試を間近に控えたときに、高校受験の英語がいかに中途半端で程度の低いものであったかを理解するだろうし、そんなものによくもまあ一喜一憂していたものだと馬鹿らしくなる(かもしれない)。それくらいに大学受験とは高く険しい山であり、高校3年間という限られた月日の中で劇的な成長を遂げなければならないのである。

3月4日から新学年、新体制で授業が始まる。新高1生の入塾希望者も連絡をいただいている。1年生に関しては3月中が移行期間だと考えていて、これと定まった開講日は設けていない。一応15日から現中3生が高1Aのクラスに移る。体験授業を希望する方もいるのだが、一回の授業で1人しか受け入れられないので、場合によっては待ってもらわなければならない。また、定員のような大げさなものはないが、空席が無くなれば自然と受け入れることはできない。

当塾は能力よりも努力を重視する。よって単語試験などにはうるさい。脳に障害があるなら話は別だが、できない者(サボる者)には容赦なく退塾勧告するので気をつけていただきたい。これも言い古したことだが、英語を学ぶことに際して悦びや楽しさはもちろんある。ただしそれは歌やゲームという一過性のまやかしであってはいけない。努力を継続したその先に、できなかったことができるようになり、腑に落ちなかったものが腑に落ちたりしたときに得られるものであって、当塾の生徒にはその悦びや楽しさこそぜひ味わってほしいのである。

2017年2月11日 (土)

ねじの回転

「赤本を購入した方がいいですか?」と尋ねてくる生徒や、「赤本を買うのはもったいないです!」と言う生徒がいる。そして学校や予備校から借りたりすることをまるで得したかのように自慢するのである。そうやって買い渋った挙げ句に浪人したり、やたらと滑り止めを受験する羽目になる方がよっぽど愚かだと思うのだが。

ただし、「やる意味はありますか?」と言われると目的に応じて答えは異なる。受験する大学に限って言えば、傾向に慣れるためにやる意味はある。しかし、純粋に英語の教材として考えた場合には「ちょっと待て」となる。高校入試を含め入試英語には、たまに粗悪品が混じっている。世間が思っているほどまともなものばかりではない。

センター試験でさえ、かなり厳重にネイティブチェックが入っているにもかかわらず、数年に一度出題ミスが見つかり新聞などに取りだたされる。いわんや他大学の入試においてをや、なのであるが、チェックする人(できる人)がいないので、汚水は垂れ流されているというのが現状のようだ

話は戻るが、受験することを決めたなら、赤本は新しいものを買うほうがよい。兄や姉が使っていたものが家にあるからとか、尊敬する先輩に譲ってもらったからとかではなく、受験の覚悟と共にきちんと新しいものを買うことである。一方で、十数年前の古い赤本まで入手する強者もいるようだが、別にコレクションしているわけではないのでその必要はない。

よくあるのが、早い段階から赤本を手に入れたにもかかわらず、ほぼやらぬまま本棚のオブジェと化してしまうケースである。また最新の問題を今解くのはもったいないからと、古いものからちまちま解く貧乏性な受験生もいる。「手に入れたのなら、さっさと最新の問題から解かんかい!」と後ろから蹴とばしたくなる(のだがそんなことは絶対しません)。何を悠長に構えているのか、赤本は早くやったもん勝ちである。

すると、「過去問を5年分解きました。次はどうしたらいいですか?」と尋ねてくる生徒がいる。「何周目?」と聞くと「1周目です」と答える。「じゃあ2周目をやりなさい」となる。しばらくして「2周目を終わりました」と持って来る。すると「じゃあ3周目をやりなさい」となる。つまりは、5年間分の過去問を最低5周はしてほしいのだが、学校の宿題じゃあるまいし、1周(適当に)やってやった気になっている場合ではなかろう。本当に受かりたい大学の過去問なら、問題文の一語一句が染み込むくらいまでやり込むことだ。

文法の問題集でも単語集でも、もっと言えば趣味の読書であれ、2周するだけで内容の理解がかなり深まったり、新しい発見があったりする。「2周もやるのは時間の無駄だ」という愚かな意見もあるだろうが、私に言わせれば、むしろ1回だけやって満足するくらいならやらない方がましなのである。繰り返すことで得られるものの大きさを考えれば、1周でやめてしまう方がよっぽど効率が悪く無駄である。効果が出始めるのは2周目以降であり、さらに回数を重ねることでやっと脳に定着していく。

英文の長文読解でも、「読んだけど分からない」と言う生徒は、正確には「1回しか読んでいないから分からない」のである。特に高1などは、単語を逐一日本語に変換するのに精いっぱいで、肝心の話の流れはズタズタに分断され、内容など完全に上の空になっている。もちろん最終的には1回で早く正確に読めるようになる必要はあるが、始めからは無理である。まずは根気よく何度も何度も読むことだ。家で復習しろというのは、なにも社交辞令で言っているのではない。2周目が必要だからである。

英語は言語であり、言語とは「習得」というよりは体育や音楽のように「体得」すべきものである。なので、読解力の向上は量や回数、費やした時間に比例するものであり、日々の努力と研鑽なしには身につくものではない。ヘンリー・ジェームズの「ねじの回転」のように、スターバックスの「シナモン・ロール」のように、何度も何度もぐるぐると回ることである。

2017年1月22日 (日)

壁は己自身

今年のセンター試験も終わった。塾生の自己採点による英語の平均点は174/200点だった。そこまで進学校でもない高校の生徒達が9割(180点)を越える点数をとってきたのは誇らしく気持ちがいいのだが、全員が8割(160点)を越えたわけではなく、また全ての教科を揃えきれなかった者がいたのは残念である。

それにしても本当にあっという間である。
「センターまで100日きったね!」などと言っていたのに、いつの間にやら過去へと流れ去ってしまった。などと表現すると、映画「カサブランカ」の"A lot of water under the bridge”という台詞を思い出す。文字通りには「たくさんの水が橋の下を流れた」ということだが、つまりは「あなたに会わない間いろんなことがあった」という意味である。字幕も確かそんな感じだったと思う。

ただし、この台詞には元になっているイディオム"water under the bridge"があって、それは流れる「時間」を「橋の下を流れる水」に喩えたものであり、悲観的に「過ぎ去った過去は
決して元には戻らない」ことを意味したものである。だから映画の「いろんなことがあったね」という言葉の裏には「もう元の関係には戻れないんだよ」という諦めの情が窺えるのである。

受験生の中には時が止まったかのようにショックを受けて固まり、センター試験と共に過去へと流されてしまう者がいるようだが、それではいけない。センター試験は流れ去ったのである。後悔しても二度とは戻るまい。
受験生は未来へ(次の試験へ)と、流れに逆らって泳ぎ進まなければならない。

このように"water under the bridge"は本来「覆水盆に返らず」のような悲観的なイディオムなのだが、以前ある生徒に意味を聞いたところ
「過ぎたことは水に流してやる」と言われて、「それはありがとうございます。・・・なんでやねん」とノリ突っ込みをして(恥ずかしくなって)しまったことがある。クラスが爆笑に包まれたかどうかはさておき、心の中で妙に納得してしまった記憶がある。確かに視点を変えればそのようにポジティブな解釈もできなくはない。

センター試験後、分かってはいてもモチベーションが下がってしまったり、勉強のペースが乱れたりする。思うような点数を採れなかった者はなおさらで、後悔や自責の念に駆られたり、焦燥や不安に襲われたりして勉強が手につかない。そんなこんなで日々の勉強の質量が落ちてしまうと、さらに合格の可能性を下げてしまうことになる。そのような負のスパイラルに陥らないためにも、一度すっぱりと「水に流す」ことが重要だ。

世の多くの受験生たちが、センター試験の結果に一喜一憂し、先ほど述べたような不安定な状況に陥っていればこそ、見方を変えればそれはチャンスでもある。後方から末脚を伸ばしてきて鼻の差で勝利するのは何も競馬だけの話ではない。受験は負けたら終わりではない。走るのをやめたら終わりなのである。まだ足に余力は残っている。最後まで諦めずに走り続けることだ。自由英作が必要なものは個人的に指導していくし、持ってきてくれればいくらでも添削する。ゴールラインを切るまでは老骨(?)にムチ打って頑張るので、とことん私をこき使ってくれればいい。

2017年1月15日 (日)

神様の愚痴

センター試験の初日が終わった。日本全国あれだけ大勢の受験生が神社に参拝したにもかかわらず、ピンポイントでの大雪とこの寒さはいったいどういうことだろうか?神様とはなんてきまぐれな存在なのだろう。

確かに思い当たる節はある。初詣で「受験でミスをしませんように」と言うのならまだわかるが、自分の実力を棚に上げて「(努力は間に合いませんでしたが)受かりますように」と拝まれるのでは、神様といえどもふてくされたくもなる。「都合の良いときにだけやってきやがって!」とか「5円やそこらでは割に合わん!」  「参拝するときは帽子とらんかい!」などのようにかなり憤懣が鬱積してそうである。

去年の正月は、バックパックに破魔矢を刺して歩いている外国人を見てたまげた記憶がある。「お守り」や「お札」などは控え目な日本人に向いているが、外国人にはどこか物足りなく、見た目に攻撃的でカッコいい「破魔矢」の方がウケがよいのかもしれない。あれから1年経つが、彼がどのような年を送ったのか非常に気になる。神のご加護があったのか、あるいはその逆か。

とはいえ、受験生が本当に神のご加護を賜らんとするならば、破魔矢を鞄に差して受験会場に向かうのは意外とアリなのかもしれない。こんなことを言うと神社からも受験生からもクレームを受けそうだが、お守りや絵馬のご利益を授かれないまま撃沈する受験生が毎年大勢いることを考えると、一か八かで試してみる価値はあるかもしれないし、もし仮に運命というものがあるとして、それくらい思い切ったことをしなければ覆るどころか微動だにさえしてくれまい。

またまた受験生から「ふざけるな!」「不謹慎だ!」「それでも教師か!」という声が聞こえてきそうなので、そろそろこの辺でやめておく。

センター初日の夜。土曜21時。ミスドでコーヒーを傾けながら仕事をしているが、受験生たちの顔が浮かぶたびにソワソワして手が止まる。全てが全て思い通りにいくはずがあるまいと分かってはいるが、彼らの実力がありのまま点数に反映され、正当に評価されるだけでよいのである。万馬券や3連単を狙おうというわけでは決してない。

当塾の(ほとんどの)受験生には実力がある。「強運」や「ご利益」をくださいとは言わない。むしろ逆に、そのような要素が受験に絡んでしまう可能性を排除していただきたい。受験が純粋に実力だけの勝負になりますように。そう神様に祈ってしばらく後、やっぱり「強運」と「ご利益」の方も授けてください。できれば私にもお願いします、とかなんとか付け足してしまった。神様の愚痴が溜息に乗って今にも聞こえてきそうである。

 

2017年1月 7日 (土)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

「誰が興味あるんだ、こんなブログ!」と思いながらも、気息奄々と続けてきました。これからも時間を見つけては更新していきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

さて、受験シーズン到来です。受験生はセンター試験後、(結果がどうであれ)一息つかないように。センターは駆け抜けるが基本です。次に向けてすぐさま調整を始めてください。一息つくのは進路が決まったときです。0,001%でも確率を上げるよう最後までもがいてください。

高2生は、学校や東進で行う「センター同日模試」を受けて自分の実力を確認してください。今年は他の科目(国立大志望なら7科目必要)に時間を割かねばなりませんから、英語は否が応にもペースダウンします。なので現状であってもセンター試験程度は通用してほしいところです。170/200点は欲しいでしょうか。

高1生は受験に対する危機感がかなり薄いです。対岸の火事ではありますが、対岸の火事に向かって舟を漕いでいることに早く気づかなければなりません。高1クラスでもセンターの過去問を本番さながら行ってみようかと思います。高1のこの時期なら
140/200点はとれます。120点を下回るようなら、かなり焦らなければなりません。

私自身、受験は毎年のことですが、やはりソワソワ(時にイライラ)します。受験生の皆が皆というわけではないのですが、「ほら見たことか」「全てにおいて遅い」「受験を舐めすぎ」などと突っ込みたい言葉をぐっと呑んでいます。(八つ当たり気味ですが)それらをまだ間に合う一年生や二年生にぶつけようと思います。

多くは望みません。
まずは、きちんと授業に参加し、(予習は結構ですので)授業の復習と単語テストの勉強をしっかりと行ってください。今年入塾を希望される方も、早くというか、手の施せるうちにいらしてくれると助かります。


2016年12月19日 (月)

アリとキリギリス

ほとんどの昔話には道徳的教訓があり、登場人物には悪者というか、そうなりたくない方がいる。「花咲か爺」や「舌切り雀」、「おむすびころりん」などの悪い爺(婆)さんしかり、「三匹の仔豚」や「七匹の子ヤギ」の愚かな兄弟たちしかり、そして「ウサギとカメ」や「アリとキリギリス」のような人間の道徳の犠牲となった哀れな悪役たちもまたしかりである。このように例を挙げると、洋の東西を問わず枚挙に暇がない。

その中でも、冬になると「アリとキリギリス」の話が頭をよぎる。受験の迫ったこの時期にキリギリスにはなりたくないものであるが、どう見ても「最近までバイオリン弾いていたよね」という受験生が必死に越冬(受験)の準備に追われている。正直、始めからアリという生徒はまず存在しない。というか現実の世界においては、おそらく皆キリギリスなのであり、肝心なのはいかに早く自分がキリギリスであることに気がついて、心を入れ替え冬に備えるかである。

一番たちが悪いのは自分はアリだと信じ込んでいるキリギリスであるが、これはさすがに受験生の中には少なく、主に高1高2生の中に多く分布している。当塾生においても、塾に通っていることで自分はアリだと安堵し、キリギリスの日々を謳歌している者も残念ながらいるようだ。

なろうと思えば、本気になれば、いつでもアリになれると思うのは勘違いである。高2生は受験まであと一年。特に上位の大学を受験しようと考えているならば、雪辱に燃える浪人生たち相手に「1年間」というハンディキャップを背負って戦わねばならない。新学期が始まる前に英語と数学は完成に近づけたいし、社会と理科はテキストや問題集を揃えて本格的にスタートを切る時期だ。そして夏休みには完成させて、9月の模試で結果が出るようにしてほしい。

高1生はあと2年。あと2年もあると考えるのは自由だが、今年1年が尋常ではない速度で過ぎ去ったのを痛感したはずだ。これからの2年はさらに加速度を上げるのは言うまでもない。またこの1年で自分がどれだけ成長したかを振り返ってほしい。この1年×3倍の成長や頑張りで、はたして希望の大学に受かるだろうか?「このままなわけではない」と反論を買うかもしれないが、意外と「このまま」で終わることが多いというのも人の性である。

先日も知らぬ受験生の親から(本人ではなく)電話があって、今さらながら受験のことで困っている、相談にのってくれないかというものだった。棺桶に片足を突っこんだ状態で「急患です」と駆けこまれても、もはや治療の施しようがない。アドバイスにしても、「来世があればもう少し早く病院にかかるようにしてください」としか言えないのである。

(口ではブーブー文句を言いながらも)結局そのお母さんと本人に会うことになったのだが、自分自身の進路のことなのだから自分で電話をしてくるとか、せめてマニキュアくらい落としてくるとか、正しく敬語を使って話すとか、自分の立場どころか最低限の礼儀作法も知らないのは、もはや同情の余地なしであった。

その生徒は(受験も済んでいないのに)「どこでもいいから留学したい」と言っていた。「日本の恥になるからやめてくれ。というか、せめて、時間を割いていただきありがとうございました、と言えるようになるまでは日本から出るな!」と心の中で叫んで、本人には「まあ頑張ってね」と大人な対応をした。日本では多くの権利が与えられ、また保障されている。彼女には海外に留学する「権利」はあるのだが、その権利を行使する「資格」がない、そんなことを強く思わされた。

物語のキリギリスは働き者になることをアリに約束し、食料を分けて貰ってめでたく冬を越すことができた。現実の世のキリギリスたちはどうだろうか。物語のキリギリスのように、タイミングよく慈悲の手が差し伸べられるとは決して限るまい。誰しもが望み通りにハッピーエンディングを迎えるほど、世の中はそう甘くもなければドラマチックにもできていないのである。

2016年11月17日 (木)

悲しき日本人

外国人観光客であろうか。大きなバックパックを背にした男女2人が道をふさいでいた。脇を通り過ぎようとしたときに、その2人の陰に小柄な日本人がいることに気づいた。ちょうど交差点の信号が赤になったので成り行きをチラチラと見学。外国人2人はその小柄な日本人に道を尋ねているらしかったが、納得した答えを得られなかったのだろう。あろうことか次なる獲物を物色し始めたのである。

おそらく、その場で信号待ちしていたほぼ全員がドキッとしたはずで、それぞれの心の叫びは以心伝心し声には出せぬ声となって1つの大合唱になっていた。そう、頼むから「こっちにくるな!」と。

不運にもその願い届かずその場の生贄となったのは、20代半ばの大学生と思しき青年である。その外国人観光観客も闇雲にというわけではなかったらしい。確かに私の目にも、その青年が辺りの誰よりも昨今の「実用的英語教育」の恩恵を受けているように思われたし、視線を逸らさずに堂々としているあたりも頼もしくさえあった。

しかしながら、その青年が口を開くやいなや出た言葉は"Sorry, I can't speak English."という流暢な英語だった。外国人にしてみれば納得いかないことだらけである。まず、いきなりSorryと謝られる筋合いはない。また、流ちょうな英語で「話せません」と言われても、おそらく彼らは、その意志表示ができるのなら道くらい教えられるだろうと思ったはずである。

同じ日本人なら、その青年が"Sorry"と言ってしてしまう気持ちも分からなくはない。中学高校で6年間、大卒ならそれ以上、日本人はかくも膨大な歳月を英語学習に捧げている。その結果が、「アイ、キャント、スピーク、イングリッシュ」では、あの努力の日々はまったくの徒労だったのではなかろうかと疑いたくもなる。ましてや、ネイティブに面と向かって「私は英語が喋れません」と言うのは屈辱を越えて自虐的すらあり、神父の前で信徒が懺悔をしているかのごとしである。

この情けなくも悲しい事態が、日本各地でかつ現在進行形で起きているわけである。英語教育が伝統的な読み書きの学習に偏重し会話に重きを置かないからだ、とういう説もあろう。しかし大抵の人は、会話と同様に読み書きもできないのだから、この説はいささか説得力にかける。

つまるところ、相当の時間と労力を費やして学ぶことは学ぶのだが、高校の卒業をピークとして学ぶことをピタッとやめ、あっという間に忘れてしまうところに問題がある。富士山を八合目まで登って満足し、エレベーターで一瞬にして降りていくのである。それこそまさに徒労の一言で片づけるにふさわしい。

知識のつめこみに終始し、実技や実地訓練がないまま大学生となり、あったとしてもおんぶにだっこの留学やバカンスの延長上であることも多い(それがダメだというのではなく、それだけでは足りないのである)。勘違いしないでほしいのは、実践する場は別に海外でなくても、日本の各教室でもよい。英語教師が片言だから会話の授業ができない、効果がないということもない。英語を話す場、英語を話す十分な時間、英語を話すことに臆さぬ気持ちがあれば、確実に話す回路はできあがってくる。

もちろんこのようなアメの授業だけではなく、ムチの授業が必要であり、その為には前回のブログで述べたロージーのようなムチの教師の存在が不可欠になる。アメとムチの割合は7:3でよいから、つまり正しい英語を指摘できる教師が10人中3人いればよい。というのは簡単だが、ロージーのような教師は英米人の中にも少数だろうから、日本人の教師の中で見つけるのはなおさら難しいだろう。また、その辺の教育学部のdegreeも保有していない観光半分のネイティブを引っ張ってこればよいというものでもない。

このようなことを言いながらも、実のところ日本人が英語が話せないというのは誇張であって、話せないのではなく英語を使用することに臆しているだけなのではと思うこともある。長い歳月を割いてきた英語が、そう易々と根こそぎ頭の中から失われてしまうはずはあるまい。どこかに英語を使う外国人に対する気臆れがあって、喋れないのではなくただ口をつぐんでしまっているだけなのではなかろうか。そう思うと、英語の指導法についてあれやこれやと議論が重ねられ不満が噴出するのはどこか的外れのような気がする。

"I cannot speak English"と言った青年も、ネイティブに言わせればきちんと英語で意思表示ができているわけで、何を矛盾したことを言っているんだとなる。彼らも無知ではない。日本人の公用語が英語でないことは百も承知であり、英語が流暢に話せることなど期待してはいない。たかだか、道案内である。臆するとすれば未知なる土地を冒険している彼らのほうである。それをはなからシャットダウンしてしまう気持ちの弱さこそが、
英語を話せない根本的原因なのではないだろうか。

2016年10月30日 (日)

言葉の魔女

ここ最近の冷え込みで風邪をひいてしまった。私がカルガリーにいた時に、Rosy( ロージー)というそれはもう言葉にうるさい魔女(講師)がいた。眉はつりあがり、常に不機嫌を装った感じの女性だった。雰囲気的には小公女セーラに出てくるミンチン院長のような感じだろうか。彼女には数えきれないほど英語を正されたのだが、風邪を引くたびに彼女のことを思い出すのである。

「風邪を引いた」はI caught a cold.という。いきさつは忘れたが、ロージーの前でI got a cold.と言うと、きちんとcatchを使ってI caught a cold.と言いなさいと注意された。
多少英語を話すことに慣れてくると、面倒くさがって考えながら話すことをやめてしまったり、私のように何でもgetでいけると思ってしまう。その慢心を見事につかれてしまったのであり、おかげでその後の授業は単なる風邪が重症になったかのように落ち込んでしまった。 

そのように注意されたということは、私の意図は少なからず通じたはずなので、それならいいではないかと少し腹もたった。しかしながら、スピーキングの指導にはアメとムチがいる。アメの部分ではコミュニケーションの円滑な流れを優先して細かい間違いは無視する。一方でムチの方は、時制や語法などをうるさく指摘する。それは会話の途中であったり、あるいは一定の量を喋った後にまとめて言い渡されることもある。アメとムチの割合は7:3くらいが望ましい。ロージーは明らかに後者で、両手にムチをしっかり握りしめていた。

なぜ「風邪を引く」にgetを使用しないほうがよいのか。いまだ納得する答えは持ちえていない。getは得るまでの過程に重きがあって、「(苦労の末になんとか)得る」という感じが文脈には相応しくなく、それよりはcatchの「タイミングよく掴んでしまった」といった感じの方が相応しいのかもしれない。とは言え、
言葉とはこちらの思惑通りにいくほど論理的なものではない。そもそも言葉を操る人間が感情的であり論理的でないのだから、全てを完璧に体系化して論理的に解釈しようというのは本末転倒なのだろう。

カナダに住んで10年になろうという中国人の知り合いがいたが、一切英語を学んだことがないと自負していた。確かに、雰囲気も発音もカナダ人なみだったが、聞き慣れてくると語彙が乏しい上にやたらとスラングを多用する。文の体裁をなしていなかったり、文法や時制はハチャメチャだったりで聞くに堪えなかった。彼女には悪いが、「こうはなりたくない」と強く思ったものである。

ロージーは息災だろうか? まだ教壇に立って厳しく言葉を取り締まっているのだろうか?意気揚々とやってきた私にことごとくダメ出しして自信を喪失せしめたロージー。きちんと考えて話すことを諭してくれた唯一の教師だったが、今の私の話す英語を聞いたらどう思うだろうか。あまりの酷さに卒倒するかもしれない。

当時、ランチタイムに彼女とふと会話をすることがあった。彼女の口から出た言葉は意外なものだった。「Yasuはきちんと考えて喋っているから偉い。しかも話すことにユーモアがあるところがいい」と褒められた。「シュール(dry)なんでたまに分かってもらえないことが多いんですけど」と私がこぼすと、"Your
sense of humor is dry and wry, but not so sly."(確かにシュールで捻くれてはいるが、そこまで陰険なものではないから大丈夫よ)と笑いながら答えてくれた

語彙の豊かさ、韻を踏む余裕、恐れ入った。さすが言葉の魔女である。

2016年10月19日 (水)

歳月不待人

「歳月人を待たず」である。時間は必要なときほど、残酷なまでに速度を上げる。どうも常に等しく流れているようには思われない。小学校の1年間は凪の海のように永遠に思われたが、受験生のこの時期は警察も取り締まれないほどに猛スピードである。受験生の多くはひしひしとそれを感じていることだろう。

この頃になると、受験生であろうとなかろうと、学力だけではなく性格や要領といったものまで正確に分かってくる。全てお見通しとまではいかないが、学校の教師よりは受験までの予測はつく。それはノストラダムスの大予言のように断定的なものではないのだが、かといって彼ほど大外しするものでもない。

とは言え、「手遅れになる
」と私が思っても、それを口にするのはせめて高2までで、高3生は、むしろ裏付けや根拠がなくても自信を持たせなければならないので我慢である。怖いもの知らずなところが浪人生に勝る唯一の武器であり、それを奪うわけにはいかないからだ。そもそも本当に手遅れな生徒に対して、「手遅れです」とは死刑宣告のようでなかなか言えるものではない。

ちなみに、最初の面談で、「〇〇大学に行きたいので、何とかしてください。けど、なるべく楽な方法でお願いします。ちなみに暗記は苦手です」(とまで直接的ではないが)、そのような感じのことを言われると、容赦なくその場で死刑宣告したい気に駆られる。

「まだ間に合えば何とかなる」と思うから、そのような厳しい予測を包み隠さずに言う。信じる信じないは本人次第なのだが、台風の進路予測なみには正確だろうと自負している。要はそうならないようにもっと緊張感を持って頑張ってほしいのであるが、声を荒げるだけの単なる脅しであってはいけない。どこか信憑性があり、まさに「予言」のようにある程度のショックを伴って言い渡さなければならないのである。それでこそ緊張感は長持ちする。

ノストラダムスにしたところで、予言が的中しなかったことで詐欺呼ばわりされたが、少なからず2000年までの間、世界中の人々に緊張感を与え続けたことは彼の大きな功績ではないだろうか。彼の予言を鵜呑みにしていなくても、ひょっとしたらという気持ちがどこかにあって、世の中にはうっすらとではあるが緊張感があった気がする。

一方東洋では、中国の詩人である陶淵明が、「歳月は人を待たず、なのかも・・・」とボソッと言ってみた。ノストラダムスの予言は、いかにも西洋らしくお騒がせな感じがするのだが、陶淵明の方はいかにも儒教的で控えめな感じである。両極端な二人ではあるが、彼らの言いたかったことは実は同じで、世の若者たちに「緊張感を持たんかい!」と言いたかったのではなかろうか。
 

2016年9月18日 (日)

読書の秋

慌ただしい夏が過ぎて、ゆったりとした秋がやってきた。格好をつけるわけではないが、読書の秋を存分に嗜みたい。日頃、英語の本ばかり読んでは知識欲を満たしてきたのだが、もっと様々なジャンルのものにも手を出して己の内面を磨かねばと思うようになった(外見は手遅れだとして)。それは品性や教養を身につけたいといったものではなく、歳を重ねるごとに乾いていく感受性に潤いを与えねばといった感じのものである。

開塾当初は、3段のカラーボックスでこと足りていた私の蔵書も、次第に数が増えてさすがに窮屈になった。そこでヤドカリが宿を移るように、大きくてまともな本棚を用意してやらねばいけないと、奮発して巨大な本棚を購入した。広々とした宿を与えられた蔵書たちは、始めこそ人形やぬいぐるみなどにスペースを貸し与える余裕があったものの、とどまることのない私の知識欲と購買欲のせいで、あっという間に空きスペースはなくなってしまった。エッケコ人形とマトリョーシカ人形に、立ち退きを宣告する日もそう遠くないだろう。

「すごいですね、全部読んだんですか?」と聞かれるたびに、「読んだけど内容は覚えてない」と答えている。もう二度三度読みたいものもあるのだが、未読の本が平積みになっていて、早く読んでくれと言わんばかりに口を開けて待っている。しかしながら、先ほど述べたように、こうも英語の本ばかりでは、ビタミンCの過剰摂取のようで、脳みそにとって良いわけがなかろうと思うようになった。

昔を振り返ってみれば、高校1年の夏休みに、「芥川賞」なら間違いはあるまいと、過去の受賞作品を読みあさったことがあった。一日一冊を目標に掲げて、辻仁成の「海峡の光」を皮切りに歴代の受賞作を遡っていったのだが、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んで、こっちもブルーになってしまい頓挫してしまった。


大学生のときは、文学部に所属していたこともあり、新潮文庫の海外作品を多く読んだ。「ライムギ畑で捕まえて」や「偉大なるギャッツビー」を読んでは、翻訳家の良しあしが大きく左右するのだと痛感したり、
ヘッセの「春の嵐」やシュトルムの「湖」を読んでは、思考の流れが繊細というか陰鬱で(私のような)日本人向きだなと思ったりした。

最近はどうだろうか。しつこいが、本棚を見渡せば一目瞭然で、英語にまつわる本ばかりである。確かに趣味と実益をかねた読書と言えば聞こえは良いのだが、裏を返せば、あの学生時代に胸をときめかせてページをめくった読書の快楽というものを忘れてしまったのだ。読後にやってくる恍惚感に包まれながら、自分が少しばかり大人になったような感覚はもはや遠い過去の遺物である。

実際に、私の心の成熟、人間的成長における読書の貢献度は大きかったと思う。なので、ぜひ若いうちの読書をお薦めしたい。一冊を読んだだけでどこがどう変わったということは説明できないのだが、漠然と言うならば、女性がジムやエステに通うことの数倍も変わった感じ、といったところだろうか。



2016年8月29日 (月)

夏の終わり

研ナオコの「夏をあきらめて」がラジオから流れてきた。

いい曲だなーと思ったものの、受験生には決して口にできない言葉である。バブル期の余裕からだろうか、こんなネガティブな曲が流行ったのは。英語の発音は危なっかしいが、かすれた声がいい。昔の歌を懐かしんでしまうのは、時代の流れに乗れていないからかもしれない。新しいテクノロジーやサブカルチャーが次から次に出てくるのに、こうも昔を懐かしんでしまうのは、皮肉というか、単純に歳だからだろうか。

自分の大学受験も、いまや遠い昔となってしまった。自分は大器晩成だと信じていて、全然努力をしなかったが、高2くらいから冷静に自分の才能や力量を理解し始めて、むしろ人の2倍も3倍も努力をしなければいけないということに気がついた。そこからはひたすら努力である。才能ある人間と同じ土俵で闘うにはそれしかなかったし、世界史や漢文などの暗記科目は、むしろ努力で太刀打ちできるのでありがたくさえあった。そもそも晩成する大器などは私にはなかったのだが、努力によって受験に必要最低限度の晩成には到ることができた気がする。

英語に関しては竹岡塾のおかげで、なんとか手遅れにならずに済んだ。それでも、通塾することだけで安心してしまっていたり、やれと言われたことを機械的にこなしている感じで、せっかくの先生のありがたい授業が(馬の耳に)念仏だった。このままではやばいと気付いてからは、塾のテストでもましな点数が取れるようになってきたのだが、ただその頃はもう塾内のランク付けが済んでいて、難しい問題はできる生徒しかあててもらえず、悲しいかな私は蚊帳の外だった。

家で勉強できないタイプだったので、夏休みや休日は自転車で市民図書館に通った。机の真ん中に「学習禁止」の貼り紙がされてすごく肩身が狭かったが、背に腹は代えられず無視してやり続けた。「飲食禁止」の貼り紙もあって、「こんな蔵書も少なくて、不自由な図書館閉めてまえ!」と(心の中で)叫んだし、年寄りが新聞を広げているのを見ては、「喫茶店に行くか、家で新聞とれ!」と(心の中で)怒鳴ったりしたものである(すいません)。

高3にとっては重要な一年であり、夏休みが重要な時期なのは当然のことながら、高1も高2もサボっていいということはない。夏が過ぎて、手遅れと思しき受験生から電話がかかってくることもあり、一応体験授業を受けてもらったりはするのだが、ショックを受けて帰っていくのを見ることになる。
高3Aの生徒も始めからできたわけではない。通っている高校も正直ピンとこないところばかりだが、私の授業に曲がりなりにもついてきた彼らである。この時期から入塾してついてこられるほどやわな鍛え方はしていない。

高1高2生がむしろ心配である。井の中の蛙になっていないだろうか、クラスや学校の雰囲気に流されていないだろうか、高校受験時と同じノリで大丈夫だと思っていないだろうか、対岸の火事に自分は舟をこいでいることを理解しているのだろうか、臭いものに蓋をしていく毎日になっていないだろうか、文武両道のつもりが二足のわらじになっていないだろうか、自分は大器晩成だから大丈夫と(私のように)過信してはいないだろうか。

2016年8月 9日 (火)

クーラーの怪

真夏日やら酷暑日やらが続くと、大嫌いだった冬でも恋しくなる。小学生の時、夏になって皆がクーラーをつけるから、やがて室外の空気も冷えて冬になるのだと思っていた。この前、松本人志が「夏になって皆が冷蔵庫を頻繁に開けるから、やがて冬になると思っていた」と言うのを聞いて、同じ感覚を共有している感じがして妙に嬉しかった。

私も松本人志も子どもの頃には、すでにクーラーという存在はあったのだが、今のように暑いからといって、毎日使用する
わけにも、一日中つけっ放しにするわけにもいかなかった。ほぼ一年中ホコリを被っていて、本当に真夏日の数時間だけ、「贅沢やわ」「電気代がかさむわ」という母親の小言つきで使用していた気がする。

「クーラー」は和製英語であり、正しくは「エア・コンディショナー」という。中学生に、「エアコン」は略称だけど元は何?ときくと、「エア・コントロール」「エア・コンピュータ」など様々な答えが返ってきたが、「エア・コンビニ」というさらに略称を含んだ答えが返ってきたのには驚いた。

ところで、エアコンの「暖房」「冷房」は分かるのだが、「除湿(ドライ)」とはいったいなんなのか。言葉通り本当に除湿を行っているのだろうか。それならそうで、60%→20%のような湿度設定があるべきなのに、うちのリモコン(リモート・コントロール)の画面には冷房と変わらぬ温度設定が出る。「除湿」とは名ばかりで、ただの「弱冷房」のような気がするのは私だけだろうか。

dry(ドライ)のdr(ドラ)は、語源的に「引く」という意味だ。たとえば、drag[引きずる]に[巨大]を表すonをつけると、dragon「ドラゴン(巨体を引きずる)」になるし、dramaが「劇・ドラマ」なのも、観ている人の気持ちを「引きつける」からだ。そして、dryも「水分を引き抜く」という意味である。なので、私としては吸い込んでほしいのだが、「ハー」と吐き出すばかりで、どうもドライな感じがしない。

とにかく、子どもの頃の私は、皆がクーラーをつけて次第に地球が冷やされ、冬が来ると単純に考えていたわけだが、いまや、エアコンのフロンガスやら電力の使用過多やらで、逆に地球の温暖化は促進されているというではないか。私も松本人志も、子どもの頃に解き明かしてみせた(と思っていた)自然の摂理は、ロマンチックではあったが、事実とは真逆だったわけである。

2016年8月 3日 (水)

どうでもいい話

"ponder"は「熟考する」という意味の語だ。常々「発音がパンダみたい」と思っていたくらいだが、今日ミスタードーナツで新たな発見をした。"ponder"を進行形にすると、"pondering"となる。これに2つの区切りを加えると、"pon-de-ring"(ポンデリング)になるではないか。

なぜ、今まで気づかなかったのか。これまでに何度も食しては、いろんなことを熟考してきたはずなのに。ponは「パン」で、deは「~の」、ringは「輪」であるから、(後ろから見て)「輪のパン」となる。最初はしょうもないネーミングだと思っていたが、今回、新たに「ポンデリングを食して人生を熟考しよう、人間は考える葦なのだから!」のような、隠れたテーマを発見したことにより、評価は一変した。なんて哲学的なネーミングなのだろう。


これに気
づいて、すぐさまその日の授業でこの世紀の大発見を発表した。秘密のおすそ分けのつもりで教えてあげたのだが、悲しいかなリアクションは薄く、何ならむしろ苦笑いである。誰一人感心してくれない。みなの頭の中は、それ程までに「ポケモンGO」で一杯なのだろうか。ちなみに、塾内にはポケモンはいなかったそうだ。

"pon-de-ring"と"don-de-lion"は音的(リズム的)に似ている。後者の語は、以前にブログでも紹介したことがあるが、don[歯]+de[の]+lion[ライオン]→「ライオンの歯」、つまり「タンポポ」のことだ。両者ともに(おそらく)フランス語起源である。

「ミスタードーナツ」は、英語で"Mister Donut"と綴るらしい。「ドーナツ」は本来、"doughnut"と綴るが、アメリカ英語では省略形の"donut"が使われるようになった。よって、店名はアメリカを意識したものなのだろう。しかしながら、イギリス人や言葉にうるさい年寄りに聞くと、"doughnut"と綴るほうが正しいと言い張る。

もう一つ気になるのは、店名のロゴには"Mister Donut"とあり、"Donuts"とはなっていない(複数形のsがない)。そうなると、読み方は「ドーナッ」ではなく、(少し間抜けな感じがするが)「ドーナッ」となるべきだ。"
T-shirt"が本来「Tシャツ」ではなく、「Tシャト」であるべきなのと同じ間違いである。

私のよく行くミスドには、お年寄りも多く、ママ会ならぬババ会(すいません)をよく見かける。電話で待ち合わせの確認をしているのだろうか、なかなか店名の「ミスタードーナツ」が出てこないことがある。「あれよあれ、ドーナツ屋さん」ならいい方で、「ミスターにいるから、ミスターね」と長嶋茂雄になっていたり、「駅の下のマクドナルドよ」と、絶対に会えないのではなかろうか、
こちらを不安にさせるようなことを言うお年寄りもいた。

2016年7月22日 (金)

リフォームの夏

セミの大合唱を除けば、乞田川沿いの道は日陰に覆われていて快適である。そこからニュータウン通りに出ると、一変して夏の日差しが容赦なく照りつける。電柱や電線は地中に埋められてしまったので、わずかな日陰すらない。オリンピックに向けて景観をよくしようと、地下に隠したのだそうだ。急に来客があって、床に散らばるものを、慌てて押し入れに隠す心理と似ている。

横断歩道で信号待ちをしていると、改装中なのか、渡った先のビルに白いビニールがかけられていた。そこに施工会社である「ダイワハ〇ス」の文字と並んで、大きく英語で「
Reform」と書いてあった。白い幕の中で、いったい何をこそこそ「改革」しようというのか?

日本語で「家をリフォームした」というが、reformは「改」であって「改」ではない。これも間違った英語、Japanglishの1つである。このように、大企業が率先して間違えるのは、NHKが「7時のニュースです」というのと同じくらいにたちが悪
い。newsの発音は「ニュー」ではなく「ニュー」であり、教育テレビで多くの英語番組を抱えているがゆえに、その責任と罪はいっそう重い。

オリンピックで日本の心象をよくしたいなら、電線や電柱を地中に隠そうとするよりも、まずはそういう誤った英語表記を何とかした方がよい。この幕にある「reform」は、命令文に見えるから、(ストのプラカードに書かれて掲げられるような)、「改革しろ!」といった
政治的メッセージにとられる。現在の政治に不満があるので、道行く人に改革を訴えているといった感じだろうか。なんとなく、今月末に迫った都知事選の選挙事務所に見えなくもない。

reは[再び]でformは[形]を意味するから、reformは「再び形作る」→「改革」になる。uniform「ユニフォーム」は、uni [1] + form[形]だから、「一つの形」が原義だ。ちなみに、unicorn「ユニコーン(角が一本)」、unique「唯一の」も、同じuniの語源を持っている。英単語を話題に上げると
、どうしても語源の話をしたくなってしまう。

話が逸れてしまったが、結局、
「改築」を英語で言いたいときに何を使えば良いかというと、"renovation"か"remodeling"、あるいは"home improvement"などが一般的とされる。きちんとこれらの語を使っている施工会社を、私は見たことがない。

ところで、高2のクラスでも夏期講習(7日連続)をやることになった
。本来やらないつもりでいたが、「やりたい」という嬉しい声?が上がったからだ。基本的に学校の半強制的な講習が嫌いだし、やるならやるで参加する価値のある授業をやってくれればよいのだが、大抵、期待外れに終わることが多い。

そもそも、講習を取るかとらないかの選択権を生徒に与えないのは最悪だし、講習に真面目に参加したり、朝から晩まで長時間束縛されることで、「私は頑張ってる」という誤った満足感を与えてしまうのもよくない
。夏休みの朝のラジオ体操に毎日参加したから、「俺は偉い」「健康なんだ」というのと同じ発想である。

なので、生徒の意志の伴わない講習はしたくないし、講習の多忙さを言い訳にして、家で自主的に勉強しないのなら、講習などやらないほうがましだと思っている。自らの意志で自主的に勉強すること以上に、効率よく身に着く方法は他にはない。何が足りなくて、何をしなければいけないかが分かっているのも自分自身である。真に成長を望むのなら、他人ではなく、自らの手でreformしなければならない。夏休みを挟んで、ビフォーアフターがどう変わっているのかぜひ楽しみにしたい。

2016年7月 6日 (水)

空(くう)になる

条件反射的に手を挙げてしまい、「またやってしまった」と恥ずかしくなった。そんな私をよそに他の国の生徒達は遠慮なくどんどん発言していく。勘違いなことを言う者、堂々と「分かりません」という者、そもそも考えなど何も浮かんでないのに喋り始める者など、秩序を重んじる者(私)にとってはイライラすることこの上ない。おかげで、私は「それなら言わんでええやん」 「まとめてから喋れよ」 「いつまで喋ってんねん」 「なら、黙っとけ」と(心の中で)突っ込む達人になってしまった。

大概の日本人はその雰囲気に圧倒され、講師に当てられるのを待っている。しかも、それまでに言う内容を吟味しているので、いざ発言するときには即興性もなく感情ものらない無味乾燥としたスピーチになってしまう。他の国の生徒に比べて、用心深くて引っ込み思案であるのはもはや仕方がないが、慎重なあまり石橋を叩いて叩いて叩きまくって破壊してしまい、挙げくに渡れなくなってしまうのは避けたいものである。もちろん、美徳として歓迎されることもあるが、わずか数ヶ月や半年の留学で、控え目でお淑やかな日本人を演じている場合ではないのである。

私も、例にもれずシャイな日本人で、しかも発言時には律儀に手を挙げてしまう古風な(?)性格だった。「郷に入っては郷に従えだ」と頭では分かっていても、どうしても言葉が出てこない。100%な答えを準備して「いっせのーせ!」 「さん、はい!」とタイミングを見計らっても何度も足踏みしてしまう。25歳を過ぎ、少なくとも他の日本人留学生よりは覚悟を決めてやってきたつもりだったが、どうしても言葉が出ないのである

人によっては、難なくチャンネルを捻って新しい環境に馴染める者もいるが、私は根っからの引っ込み思案だったので、錆びついたチャンネルを強制的に回さなければならなかった。喩えて言うなら、吉本芸人の藤井隆のようになりたかった。普段はおとなしく人見知りなのに、芸や演技をするときは何かが乗り移ったかのように豹変する。あそこまで振り切るのは無理だが、テンションを多少無理やり挙げて、積極的で陽気な人間を演じようとした。

そもそも間違えをとことん嫌う日本人、「間違えるくらいなら黙りこくってしまえ」みたいな反応をする日本人をカナダでも多く見てきた。日本なら、「沈黙」=「分からないので、次の人にいってください」という暗黙の了解があるが、
カナダにそんなものはないので、逆に徹底的に突きまわされたり、「どうしたんだ?」と体調を気遣われたりするのが落ちである。思惑とは裏腹に、余計に注目を集めてしまい針の筵と化してしまう。一方、他国の生徒は「分からない」ことも1つの意見として堂々と発言する。それはそれで見習うべき姿勢だった。

言葉が通じない。こんなはずではない。よい考えはあるのに伝えられない。低く評価されたくはない。でも注目されるのは恥ずかしい。間違えるのはもっと恥ずかしい。できれば「へー」と感心されたい。言語の才能がないのだろうか。日本なら英語なんて話せなくても生きていけるのに。やっぱり日本がいい。よし、日本に帰ろう。このように、メンタルが弱い人間やプライドの高すぎる人間の場合、思考が悪い方へ、卑屈な方へと膨らんでいく。

このような思考が、春先のタケノコのように、モグラたたきのモグラのように、切れど叩けど次から次に顔を出すわけである。このような雑念というか、このように考えてしまう悪癖を留学中は捨てねばならない。私の場合、
ホームステイ先のベッドの上で半座禅を組み、しばし目を閉じる。宗教のことはあまり分からないが、「色即是空」であり「空即是色」である。雑念を捨て「空(くう)」にならねばと思った。

頭を丸坊主にしていたので、寺の修行僧の気分になった。ドラゴンボール好きのメキシコ人に、クリリンと呼ばれて腹が立ったが、その生徒はミスターポポにそっくりだった。主人公の「悟空」
は、名前の通り「空」を「悟」った人物なのかもしれない。確かに物欲も色欲もない感じがする。なるほど、だから筋斗雲にのれるのか。確か欲深いクリリンは、筋斗雲に乗れなかったよな・・・。自分は頭だけでなく、結局中身までもクリリンと一緒なのか。はあ、ドラゴンボールがあれば、一瞬で英語が話せるようになるのになー、と半座禅をしている私の頭の中はもはや雑念だらけだった。

2016年6月14日 (火)

最近のあれこれ

最近ブログが滞っている。「忙しいから」と言ってしまいたいが、生徒に「忙しいことを言い訳にするな」 「忙しいのはみんな一緒」と普段から言っているので、悔しいが"zip my mouth"(お口チャック)するしかない。

夏休みが迫ってきていて、3年生の夏期講習の日程を考えなければならない。1年生2年生もやりたいのだが、まず日程や時間で都合がつく気がしない(
のでやらないつもりだ)。部活やら合宿やら学校の意味ない講習やらを優先されるだけで、「他を休んででも行きます」という生徒はまずいない。本来なら、受験生より1、2年生のほうこそ夏期講習で徹底的にやりこむ必要があるのだが、なかなか難しい。需要と供給のズレというか、被災地への支援のように、なかなか必要としている所に必要なものを届けることができない歯がゆさがある。

最近、昼食はコンビニの「ざる蕎麦」ばかりである。正確には
ざるではないし、どれだけ蕎麦粉をつかっているのかも怪しい(ほぼ小麦粉のような気がする)。もう「ざる」でもなく「蕎麦」でもなく、ただの細いうどんでしかないのだが、それでもセブンイレブンの蕎麦は喉越しがよくて美味しい。蕎麦はカロリーが低いらしいから、このまま食べ続ければ「ダイエット」になるかもしれない。

日本人は「ダイエット」と聞くと「
痩せること」を考えるが、英語の"diet"にその意味はあまりない。"on a diet"の形で使えば「ダイエット中」にはなるが、本来は「(栄養面から見た)食事」を意味する。なので、「腹筋ダイエット」や「呼吸法ダイエット」などは、食事が絡んでないのでダイエットではない。また、私の「蕎麦ダイエット」を含め、世間で行われているダイエットの多くは不健康なので、最悪なダイエットであることが多い。

健康(ダイエット)も勉強も早くから気にかけておくにこしたことはない。悪化して手遅れになるのは避けたいのだが、どちらもどうも億劫になったり、他の誘惑に負けて後回しになって行動に移せない。「高3の夏からでも間に合う!」とうたう塾があるが、受験生(や保護者)が勘違いするのでやめてほしい。可能性はゼロではないが、万人には当てはまらないことである。せめて「高3の夏からでも諦めるな!」や「高3の夏からでも足掻きまくれ!」なら、まだ現実味や切迫感があっていい。

2016年5月27日 (金)

苦言を呈する

「スカウター」というものを知っているだろうか。ドラゴンボールに登場する相手の戦闘力を測る装置である。子どもの頃、あれが欲しくてたまらなかった。いいおっさんになった今、あれをどうにか改良して英語仕様にできないものかと考えている。それを生徒に向けると、「読む・書く・聞く・話す・文法」の能力が五角形のグラフで表示される仕組みである。その横に保有している語彙数が「ピピッ1200」みたいに出ればなおベターだ。犬の気持ちのわかる玩具(バウリンガル)が開発されたほどだから、希望は捨てずにいたいと思う。

新高1生のクラスは現在6人である。毎年のことではあるが、高1では英語力の底上げが急務となる。特に語彙不足はかなり深刻で、読解や英作の指導において大きな妨げになるほどである。教育指導要綱によると、中学3年間で身につけるべき英単語の総数は最低900なのだそうだ。つまり、取りこぼしなく覚えたとしても、900~1200程度にしかならない。もちろん実際は取りこぼしだらけであり、ましてや知っていると自負する語の中にも、「読めない」「書けない」「使えない」語が混じっているわけで、それらを省けば500くらいになってしまう。この数値は、もはや餃子(チャオズ)の戦闘力である。

難関大学の入試には、およそ5000~6000語が必要であり、将来仕事で英語をそれなりに活かすには1万語が必要だと言われている。中学3年間かけて1000も覚えられていないのに、その5倍以上の数をこれから習得しなければならない。しかも
それは、高校3年生終了時に到達すればよいものでもなく、なるべく早く(遅くとも高2の夏)到達しなければならない。語彙が増えていなければ、読解や英作文も高いレベルのものにも取り組めないのである。

その語彙不足をもたらしたものが、本人の努力不足であるのは言うまでもないのだが、そもそも中学で学ぶ単語数が、900~1200語というのはかなり少ない。騒がれている耐震基準と同じく、見積もりが甘過ぎなので見直す必要がある。中学の3年間は記憶力の最もよい時期なのだから、遠慮なく現状の2~3倍覚えさせてもよいのである。
学校の英語の授業に多くのことは期待しないが、せめて単語試験を徹底するなりして、最低限の語彙力を身につけさせて高校に送り出してほしい。

高校1年生の授業では、毎回約30分かけて
語彙の試験と次の範囲の語の説明をしている。発音アクセントの確認、各語の使用法などの重要事項、暗記をスムーズにするために語源の話などをする。(自分で言うのもなんだが)他所では教わらない貴重なことも結構言っている。それにもかかわらず、メモをとらずにボケーっとしていたり、ペンを握ったかと思えばくるくる回し始めたり、どういうことだろう。私は雑談をしているわけではないのだが。

都心に、「鉄緑会」という塾がある。毎年多くの東大生を輩出している名門塾である。指定校制度を設けていて、筑駒、桜蔭、開成、筑大付、雙葉、白百合、海城、麻布、豊島岡、駒東、女子学院、栄光、聖光学院など進学校から多くの生徒が集ま
る。それ以外の高校からも通えなくはないが、試験を受けて遜色ない実力があることを証明しなければいけない。 なかなか「高校から頑張ろう」では入塾できないのである。

当塾には、もちろん指定校制度もなければ、選抜テストもない。通っている高校を尋ねはするけれど、それによって顔色や対応を変えることもない。「高校から頑張ろう」という者であれば、現在の学力には目を瞑る。その「高校から頑張ろう」という言葉を私は信じるのである。

現状、「読解」や「英作」ができないのは仕方がない。また、高2や高3生との温度差というか、やらされている感があるのもまだ当面仕方がない。自分の足で走りだすにはもう少し時間がかかるだろうし、こちらも忍耐強く手を変え品を変え訴えていくしかない。しかしながら、当塾において「単語の試験」を覚えてこない、つまり最低限の努力を怠るのは御法度である。

一度や二度の過ちは誰でもあり、新年度の始まったこの時期何やかと多忙であることもわかる。しかしながら、もう5月も終わろうとしている。同範囲の再試験を何回繰り返せばよいのか。いまだに半分も点数がとれないのはどういうことか。言い訳ばかりで約束を履行しない者は、個別指導の塾に行って、気持ちよく接待してくれる学生講師を探せばよい。
 

2016年5月 5日 (木)

高校勢力図 京都編

京都にはお寺が多い。お寺が多いと仏教系の私立高校が多くなる。花園高、洛南高、東山高などはそうである。昔は、京都大学に受かるには公立高校ではダメで、私立高校に通うしかないとされていた。私は「厳しそう」「電車通いは面倒くさい」「学費が高い」など、(消極的な理由で)私立を敬遠していたので、学区制により選択肢のないまま地元の亀岡高校に通うことになった。最近では学区制は緩和され、学区を飛び越えて一部の優秀な公立高校に通えるようになっている。羨ましい時代になった。

かつて、京都は、「洛南高校」をはじめとする私立高校の天下だった。いまだ洛南の天下は変わらないのだが、かつてほど私立高校に勢いはない。
2000年頃から「嵯峨野高校」を皮切りに、徐々に優秀な公立高校が台頭しはじめて、やがて私立 vs 公立高校の対立構造ができあがった。さらに、市立の「堀川高校」が進学校へと刷新され、これにより以前から犬猿の仲であった市立 vs 府立高校の(教育委員会の)対立が表面化した。このようにして、現在の京都は、私立 vs 府立 vs 市立の三国時代になっている。


  <3大勢力+1>

 ※( )は、2015京大合格者数
  
  A, 私立・・・洛南高(69)、洛星高(59)  ※洛星の生徒数は洛南の約半分なので一概には言えない。
  B, 府立・・・洛北高(17)、嵯峨野高(12)  ※最近は市立に押され気味。
  C, 市立・・・堀川高(61)、西京高(28)  ※堀川は洛星を抜き、洛南に迫る。
  D, 国立・・・教育大付属高(14)  ※国立は一校しかないが、安定した人気と実績はある。


この対立構造(公立高校の台頭)は、成章高や花園高、京都女子高など、一部の私立高校の没落を招きはしたが、結果的には良い影響を及ぼし合っているようで、競争が働くことにより教育環境、教育内容、教師の質も改善され、京都全体としての合格実績は上がっている。

高校を受験する中学生からすれば、選択肢が増えるだけではなく、全体の層が厚くなったことによって、たとえランキング上位の高校に入れなくても、また授業料の安くて済む公立高校からでも、京大を狙えるようになった。私立に通う経済的余裕のない者でさえも、京大を狙えるようになったのは良いことである。

都道府県のなかには、京都のように複数の勢力が乱立するのではなく、特定の一校が強大な力を持ち、帝政のようにその地域を牛耳るところもある。全ての都道府県を調べたわけではないが、かつて私が英語を指導していた「熊本」などはその典型である。熊本では、「熊本高校」、通称「熊高(クマタカ)」が圧倒的に受験に強く、対抗できる高校はない。また、漫画「ワンピース」に登場する「四皇」のように、その熊高を筆頭にした上位4つの高校を「四高」と呼ぶ。(ワンピースの作者は熊本出身なので、もしかしたら四高からヒントを得たのかもしれない・・・)


  <四皇(四高)>

  1, 熊本高校
  2, 濟々黌(せいせいこう)高校
  3, 熊本第二高校
  4, 熊本第一高校


熊本の高校の勢力図、教育環境は、とても興味深いので、次回以降のブログで改めて紹介してみようと思う。また、東京についても、いずれ見解を書いてみたい。

2016年4月19日 (火)

恐怖の電話

今ほど便利でない時代、カナダに留学して間もなく、現地の公衆電話から国際テレホンカードを使って、初めて両親に繋がったときは心底ホッとした。公衆電話こそが日本とカナダを結ぶ唯一の連絡手段であり、異国にいることで生じる様々なストレスを和らげてくれるものであった。当時の私にとって、電話はまさにライフラインだったのである。

留学をして一年を迎えようという頃、アパートを借りて一人暮らしを始めた。その際、
大家さんとの契約交渉に始まり、電気、水道、ガス、インターネット、テレビなど、全て「電話」による申し込みの手続きを踏まなければならず、それはもう筆舌に尽くしがたいほどの地獄だった。経験者ならわかるかもしれないが、聞き慣れない専門用語による複雑なコースの説明が、日本のように決して丁寧な対応ではなく、リスニング教材のおよそ2倍の速度でまくしたてるように話される。

1時間近く押し問答したり、「またかけ直してください」と逃げられたり、男性の声はくぐもって聴き取りにくいので女性のオペレーターに代わってもらったり、雑音に煩わされぬよう人気のない公衆電話までわざわざ赴いたり、全てはリスニング力のなさが原因なのだが、日本で積み上げてきたプライドや自信といったものは吹き飛んでしまった。電話でピザを注文して、いい気になっていた自分が恥ずかしい。

正直、「もう一度言ってください」と言おうものなら、沈黙されたり溜息をつかれたりすることもある。しかし、こちらは生きていくうえで、なんとか契約にこぎつけなければならない。英検のように「2回聞き返してダメなら諦める」ことなどできないのである。何度も心が折れそうになるのだが、「生活がかかっている」、「異国の地で野垂れ死にたくない」と言い聞かせて奮い立つしかなかった。このまま尻尾を巻いて日本に帰るわけにはいかないという意地もあり、必死に受話器を握り続けていた。

一方で、同じ手続きでも「銀行口座の開設」や「大学の履修」手続きなどははるかに楽だった。電話ではなく対面して行われるからである。電話なら全ての情報は音声だけでやりとりされるが、対面しての会話は、身振り手振り、表情や唇の動きなどを視覚によって理解することができる。自分の拙いリスニングをその視覚からの情報によって補うことができるのである。この差はとても大きい。

一連の電話地獄を教訓にして、それからの授業や講義は可能な限り前列の席に座るようにした。講師の唇の動きや表情が読めるからである。もはやモジモジして下を向いている場合ではなかった。また、ネイティブにも早口な人や滑舌の悪い人はいるのだが、そういう人と話すときほど
、おどおどせずにしっかりと「見る」必要がある。リスニング教材も、ただ聞くだけのものよりも、話す人の表情や口元が分かるドラマや映画を利用するようになった。

また、このことは英検の2次試験にも当てはまる。たとえば、英検の面接に限っ
ては「相手の目を見て」というよりは、「相手の唇の動きをしっかり見る」ことが重要になる。また、こちらが話すときも、相手の表情を観察することを忘れないようにする。理解してくれていない表情をしていたら、すぐさま第2第3の矢を放たなければならない。リスニングだからと言って、耳にばかり頼る必要はないわけで、可能な限り「視覚」を働かせることを意識してほしい。

「英語」を単なる学問や受験の道具という範疇から、実生活レベルに落としこんで考えてみること。「起こるはずがない」と半笑いで行う避難訓練のようではだめであって、実際に使用する機会がくることを前提にきちんと備えるべきである。そうすれば本当に目指すべき英語やそのために為すべきことが自ずと見えてくる。「必要は発明の母」と言われるが、
「必要」は英語にとっても母である。「必要」という感覚が英語の習得には少なからず必要なのである。

2016年4月 7日 (木)

名は体を

乞田川沿いの桜が満開だ。桜の花で枝がたわわになり、川面に向かって大きくしなっている。その両岸の枝が重なりあう姿はとても綺麗なのだが、その下を流れる乞田川が汚いのは、なんとも残念で仕方がない。とはいえ、そこを歩く私自身も決して綺麗ではないので、なにか申し訳ない気持ちもあり複雑である。

「桜の花」がcherry flowersではなく、cherry blossomsというのは、「食用果樹の花」にはflowerではなく、blossomを用いるからである。リンゴやカリンの花などもそうである。確かに桜は果樹であり、
葉桜が満開の頃に、同じ乞田川沿いの桜の木の下を歩くと、真っ赤なサクランボがなっていることに気づく。毎年、人目をはばかって手を伸ばして食べてみるのだが、まずいことを確認しては、そそくさと立ち去ることになる。

「八重桜」は、double cherry blossomsという。直訳すると「2倍
桜」で、花弁が8枚あり通常のダブルだからこのように呼ばれるわけである。トイレットペーパーのシングルとダブルの関係みたいな感じだろうか。そう考えるとお得な感じのする名前だが、個人的には、トイレットペーパーはダブルがよくても、桜はシングルのほうがいい。などと言っていると、情緒もへったくれもなくなってしまう・・・。

「しだれ桜」はweeping cherry blossomsという。weepは「しくしく泣く」という意味で、つまり「悲しみに打ちひしがれ、頭を垂れてしくしく泣いている」姿に喩えたものだ。
こちらは「八重桜」と違って、多少頑張って趣のある名前になっている。一般的に桜は「サクラサク」のように、受験に合格したイメージがあるのだが、この桜は逆に受験に敗れた者の心情を表しているかのようで悲しくなる。

高校生の授業で、「樫の木で作られた家」を英語にしなければならなかったが、「樫」の英語が出てこない。というか、悲しいかな、それ以前に「樫」の漢字が読めない。突然きいた私も悪いのだが、「かしの家だよ」と言うと、「スナック?お菓子の家ですか」と返されてしまった。メルヘンな回答ではあるが、「樫(かし)」=oakは覚えておいてほしい。実は昨年、さらなるつわものがいて、「かつお」と読んだ生徒がいた。

魚の名前を英語で覚えろとは言わないが、植物の名前はある程度覚えておいたほうがよい。ただ、植物の英名は著名な翻訳家でも恥ずかしい誤訳をする。例えば、"
ash"は「灰」という意味なのだが、ある翻訳家は作中の"ash table"を「灰皿置きの机」と誤訳してしまった。この場合の"ash"はトネリコ材のことで「トネリコ製の机」という意味である。また"morning glory"をカッコよく「朝の栄光」と訳した翻訳家もいたのだが、正しくは「朝顔」のことだった。

また、そもそもの命名を誤った例もある。「タンポポ」はdandelionという。dan(=den)は、dentist「歯科医」にもあるように、「
歯」を意味する。よって、dan(歯)+de(~の)+lion(ライオン)→「ライオンの歯」という意味になる。語源的にはこのように解しやすくスッキリする名前なのだが、よくよく考えてみると「ライオンの歯」というよりは、どう見ても「ライオンのたてがみ」にしか見えない。誰もがそう突っ込みたくなる少し残念な名前である。

当塾はどうだろうか?命名を誤っていないか?「東輝」の「東」とは、東京のことではなく、当塾が世界の東にあるからである。つまり「世界の東で輝く塾」という意味だ。和名でありながらもグローバルな感じを出したかった。「大胆ですね」とか「よく言うね」と突っ込まれそうだが、志は高くである。中途半端に「東大予備校」とか「早稲田スクール」のように大学の名を冠する塾もあるが、虎の威を借りているだけのようで好きではない。肝心の「輝き」はまだまだ鈍く淡いものかもしれないが、名が実に相応するように精進していくつもりである

2016年3月25日 (金)

英検のマナー2

ノックして扉を開ける。「失礼します」と一礼して部屋に入り、用意されたイスの横に立ってもう一度深く一礼をする。「座ってください」と言われるのを待って腰を下ろす。私が高1で英検2級を受けたときは、確かこんな感じだった。一方で、カナダから一時帰国して準1級を受験した際は、そのマニュアル(一連の流れ)のようなものを一切無視して面接に臨んだ。

ノックをして入るまでは同じだったが、それから深々と一礼することはしなかった。"Hi"と言いながら面接官の前まで行き、手を伸ばして握手を求めた。決して礼儀を忘れたわけでも、血迷ったわけでもない。また、意図的にそうしたわけでもなく、自然と手が伸びていたのである。どうしても英語を話すことに脳のチャンネルを合わせると、振る舞いも英語式(カナダ式)になってしまう。英語を話そうというのに、振る舞いだけは日本式のままでというのはどこか不自然だったし、何よりそんな器用なことはできなかった。

また、だれが決めたのか分からないが、「『もう一度言ってください』は2回まで」という(暗黙の)ルールも守らなかった。
2回目で分からなかったら、3回目を尋ねればよいのである。私が受けた面接では、試験官が何を質問したいのか全く理解できなかったので、同じ質問に4、5回尋ねてしまった。カナダの実生活で鍛えられた神経の図太さが、顔を出してしまったのかもしれない。

とは言え、相手に敬意を払うのは、日本語に限らず英語でも当然のことなので、慎重に言葉は選んだつもりだ。
"I beg your pardon?"のような固定表現を、オウム返しのように無機質に繰り返しても、相手は腹が立つだけである。2回目、3回目となるにつれて、表現をもっと丁寧なものに変えたり、声の調子や面持ちに切迫感や「すいません」といった感じを出したりする必要がある。

それでも分からなかったら、「分かりません」と言えばいい。それもちゃんとした意思表示で、コミュニケーションの1つである。間違っても、長い沈黙に陥ってしまい、うつむきながら次の質疑に移るのを待つだけにはならないように。それこそコミュニケーションの放棄であり、最も罪の重い行為である。

また、質問が理解できなければ、答えてはいけないという決まりはない。いきなり一か八かで見当違いなことを言うからダメなのであって、「間違っているかもしれませんが、言ってみます」と前置きしておけば、見当違いなことを答えても不自然ではない。私の場合は、それに加えて「つまり、〇〇〇ということを尋ねているのですね?」と質問内容を確認してから答えることも織り交ぜたりした。

しつこいが、大事なのはコミュニケーションであって、ミスのない完璧な英語を一回で言えるかどうかではない。そもそも試験官も受験者に完璧な英語など求めていないのだから(もしそうなら英検2級など誰も受からない)、多少の文法的ミスやしどろもどろになってしまうのは開き直ってしまったほうがよい。英語ができないのは百も承知である。そのできない英語をどれだけ駆使して、コミュニケーションができるかどうかが試されているのである。(その3につづく
)

2016年3月19日 (土)

英検のマナー

中2の生徒2人が準2級、高1の1人が2級の二次試験を受けた。そのうちの一人が、面接で「花粉症」であることを伝えようと、あらかじめ辞書でpollinosis「花粉症」という単語を調べておいたらしいのだが、いざ面接官に言ってみると、まったく理解してもらえず最悪だったと嘆いていた。その生徒の発音やアクセントが正確だったかどうかはさておき、pollinisisは医学論文などで使う専門用語なので、残念ながら普段の会話では用いないし、ネイティブの中にも知らない人は大勢いる。

「花粉症」で一般的な英語はhay feverだが、hayは「枯草、干し草」のことなので、正確には「枯草病(熱)」のことを指す。カナダやアメリカでは、「花粉症」は日本のように大流行するほど深刻ではなく、歴史的にも比較的新しい病気なので、似た症状の病名で代用しておこうということなのかもしれない。さらに一般的な表現になると、pollen allergy「花粉アレルギー」という言葉もあり、これなら首をかしげるネイティブはまずいないだろう。pollen(ポルン)とだけ聞くと、チョコ菓子のようで可愛らしいのだが、その名に反して人体への被害が甚大なのは何とも皮肉である。

まとめると、「花粉症」は、A:pollinosis → B:hay fever → C:pollen allergy の順に、より一般化され多くの人に認知される表現となる。会話で使えるのはBとCのみで、Aを使うのは明らかに不自然なので避けるべきである。いつも言うように、単語を用いるときは「意味」だけに捉われるのではなく、使用場面をしっかり意識することである。そのことを身をもって分かってくれたのなら、その面接での苦い体験にはとても価値があった。

話が逸れてしまったが、英検の2次試験(面接)を受けた生徒は、手応えがないと言ってはいたが、結果的に皆合格していた。そもそもできない者ばかりが受ける級なのだから、誰しも手応えがないのは当然であり、手応えがなくても意外と受かってしまうものである。もっと言ってしまえば、準1も1級も世間が思っているほど英語が話せなくても受かってしまう。ということを言うと、これから受ける者たちのプレッシャーになるだろうか。

2次試験の試験官は誰がやっているのだろう?もし可能ならば、私も一度やってみたい。他の試験官よりも厳しく評価するので、私の担当だけ合格者が極端に少なくなるかもしれない。そして私自身が不合格(くび)になるかもしれない。しかし、合格に必要な基準項目が発表されているが、それをきちんと満たしている合格者は実のところほとんどいないと思う。実際はかなり甘く評価されている、というのは受験した者ならわかるはずだ。

面接には流れ(マニュアル)があるから、受験者は多かれ少なかれ前準備が可能になる。なので、本当に(即興的に)英語が話せなくても受かるはずなのだが、全てのパターンを暗記するあまり見事なまでに台詞口調になったり、予想を逸脱したやりとりになると途端にしどろもどろになったりしてしまう。もちろんまったく準備をしないで臨んだ者は、さらなる厳しい沈黙が続くか、「ご長寿クイズ」を彷彿させる支離滅裂なやり取りに終始することになる。

受験する者の多くは、英語を流暢に話そうと意識するあまり、コミュニケーションそのものが死んでしまっていることに気づかない。まずは、伝えようという意志をはっきりと見せること、その意志の見える限りは、試験官は受験生の応答を強制的に回収し次の質疑に移るということをしないだろう。英検の二次は、スピーキングの試験というよりは、コミュニケーションの試験である(もう少しその辺りのことを次回以降のブログで具体的に説明しようと思う)。そのことを忘れなければ、基準項目にある「日常生活において英語でやりとりすること」ができなくても合格は可能である。


2016年3月 9日 (水)

受験結果 改訂版

Sさんが「東京農工大」に受かったので、受験生の結果は以下のようになった。他の塾や予備校のように上位者だけの結果ではなく、8人全員がこの結果なのは指導者として素直に嬉しい。が、希望通りに行かなかった生徒もいるので複雑である。


<大学>
 
 ● Dさん、航空保安大(運行情報科)・・・首席合格。
 ● Sさん、東京農工大(農学部)、明治大(農学部)
 ● Iさん、 早稲田大(創造理工学部)
 ● Yさん、上智大(総合グローバル学部)
 ● Mくん、東京理大(理工学部)・・・に受かるが、医学部を目指し浪人予定。
 ● Aさん、東京医科大(看護学部)
 ● Yくん、中央大(法学部)、法政大(法学部)・・・中央大(法)は法学最高峰の1つ。
 ● Iくん、 立教大(観光学部)、学習院大(経済学部)、中央大(国際経営学部)

<高校>

 ● Yくん、立川高校(鶴牧中)
 

そのSさんは、前期試験のできに手応えがなかったので、来週の後期試験に向けて、(苦手な?)自由英作を徹底的に取り組んでいた。合格の一報をもらったときは、赤本(過去問)をやりつくしてしまっていたので、次の授業で代替となる問題を探しているところだった。すごく控え目でか細い声の生徒なのだが、電話の声がいつもより少し弾んでいたので、合格したのだとすぐ分かった。とても苦労していたのを見てきたので、この合格はとても嬉しい。

2016年3月 7日 (月)

中3の受験生

当塾の中3生が立川高校に合格した。その電話の声は弾んでいて、希望と喜びに満ちていた。「おめでとう、よかったね」と言った後、「むしろ、これからが大変なんだよ」という言葉が喉まで出かかったが、なにも今、水を差すことはあるまいとぐっと飲み込んだ。危うくKY(空気読めない)な人間になるところだった。ちなみに「空気が読めない」に相当する慣用表現は英語にはない。a party pooper(パーティーでウンコする人→楽しい場をぶち壊す人)というイディオムもあるのだが、たとえが下品すぎるのでなんかイヤである。

彼が入塾したのは受験の半年前で、「英語を何とかしたい」とお母さんに連れられてやってきた。体験授業では、語彙不足をはじめ、文法も読解も散々だったのを覚えている。ただ真面目で積極的な姿勢と、説明に対する理解の速さ、
お母さんが「頑張っているのに伸びない」と仰っていたことなどから、努力が正しい方向に向かえば英語は飛躍的に伸びると思った。中3のクラスもあったが、受験に間に合わせるために、敢えてこちらから1:1で指導することを申し出た。

別の進学塾にも通っていたが、(他の教科はともかく)英語は何をどう指導されているのか、というくらいに酷かった。彼に対してというよりは、むしろその塾の英語講師に対して腹が立った。能力のある若者が潰されていくのは、なにも貧しい発展途上国に限った話ではなかったわけである。それは他人事ではなく、私自身も生徒を潰してしまう立場にいる。そのような教師にならないように、常に気をつけていなければならない。

まずは重症な語彙不足を解消すべく、毎回100個の単語とイディオムを覚えてくることを課した。その半年間で、単語集は5、6周繰り返した。文法は宿題で解いてきてもらい、授業中に解答解説をした。通年用のテキストが3か月程で終わってしまった。読解は準2級レベルのものを毎回解いては、すぐ口頭で訳してもらうことを繰り返した。
特別な何かを施したわけでもなく、英語の筋トレみたいなものを淡々と、通常の2倍の量と速度でこなしたに過ぎない。

しばらくすると、英語に対する苦手意識は消えていった。厄介な箇所や苦手な事項は多少時間をかけ、学校や他塾で得たであろう間違った(胡散臭い)知識があれば訂正していった。やがて、英検準2級にも合格し、英語に対して確かな手ごたえと自信を獲得していった
。中学生は、内容が簡単だからというのもあるが、時機を得たときの伸長率には目を見張るものがある。もちろん彼自身の頑張りがあっての成長であり、合格の主な要因がその努力であることは言うまでもない。

世間一般の新高1生よりは、これから先の高校英語を習得するにあたって、よい土壌ができた気はする。ただ、懸念材料はある。半年という限られた期間の中で応急処置的な部分も多く、特に語彙に関してはただ詰め込んだにすぎない。1つ1つの単語をしっかりと見てこなかった。発音やアクセントも疎かにしてきた。ライティングも入試に対応する程度のことしかやっていない。

また、入学後にモチベーションが低下する不安もある。「もう勉強はイヤだ」と燃え尽き症候群に陥ってしまうかもしれない。あるいは、これまでの鬱積した日々の反動で、「高校では部活動に専念し青春を謳歌する」と言い出すかもしれない。そうなるくらいなら、高校はどこでもよいので(むしろ落ちてもよいので)、高校の3年間にこそ勉強に心血を注いでほしい。高校受験にではなく、大学受験にピークを持っていかなければならない。

もちろん、世の中を見渡せば、彼のように努力が実を結んだ受験生ばかりではない。涙をのむ結果となり、絶望のどん底にいる受験生も少なからずいるだろう。ただ、そこで腐るのではなく、次に向かって早く歩き始めることである。高校受験よりもはるかに重要なターニングポイントが、今から3年後にやってくるのだから。

2016年2月27日 (土)

受験結果①

受験シーズンも終盤。当塾の受験生たちの結果も徐々に上がってきた。受験生は全8人いるが、現状は以下の通りである。全体的には、みなよく頑張ったと思う。


 ● Dさん、航空保安大(運行情報科)・・・首席合格。
 ● Iさん、 早稲田大(創造理工学部)
 ● Yさん、上智大(総合グローバル学部)
 ● Mくん、東京理大(理工学部)・・・に受かるが、医学部を目指し浪人予定。
 ● Aさん、東京医科大(看護学部)
 ● Sさん、明治大(農学部)
 ● Yくん、中央大(法学部)、法政大(法学部)・・・中央大(法)は法学最高峰の1つ。
 ● Iくん、 立教大(観光学部)、学習院大(経済学部)、中央大(国際経営学部)
 

 ※進学先が未定な者は、合格しているものを複数挙げた。


医学部を目指していた生徒は、(センター試験のできがわるかったので)もう一年頑張ることを決意した。努力のできるすばらしい
生徒で、特に記述式英語では目をみはるものがあった。結果は残念だったが、すでに次に向かって走り始めている。できる限りのフォローアップはするつもりだ。膝をつきそうになっても、「なにくそ!」と頑張ってほしい。

希望通りの大学に受かった生徒は、本人が頑張ったからである。私の指導によるものだとは思わない。むしろ足を引っ張らなくてよかったと安堵さえしている。いずれブログ内で、(個人情報の漏えいにならない程度に)それぞれの生徒との思い出話や合格までのいきさつを振り返ってみたい。

2016年2月24日 (水)

努力持参で

「運があれば・・・」と嘆くとき、足りなかったのは運ではなく、むしろ努力であることが多い。常日頃そう思っていながらも、バレンタインデーにラッキー・チャームのチョコをもらって、運気が上がると喜んでいる自分がいる。受験シーズンも終盤、結果も少しずつ上がってきた。また近々ホームページやブログで公表しようと思う。一方で、3者面談もけっこう進み、現状や課題を報告したり、受験について確認しておきたいことなどを尋ねたりしている。重い腰を上げてもらうためにも、この面談は重要だと考えている。特に受験生は、程度の差こそあれ、「順調です」という生徒は一人もいない。

東京に来て、「最低MARCH」という言葉を生徒や保護者からよく耳にする。日本人がいかに語呂合わせの天才であるかはさておき、学歴社会に翻弄される宿命の日本人にとって、一つのボーダーラインとなるのが、この「MARCH」である。学歴至上主義といったものを肯定しようとは思わないが、残念ながら日本に生まれ育った以上は、(どれだけ不味くても)その水を飲まなくては生きていけないわけである。

カナダの場合、私立大学はなく、全て国公立大学である。よって日本のように、入学に際して過度の競争は起きない。競争が起きるのは、むしろ入学した後である。ぬるま湯につかるような怠慢な授業は少なく、積極的に参加することを否応なく迫られる授業ばかりで
あり、毎回、難易度の高い課題が膨大に課せられる。よって、放課後に友人と酒を酌み交わしている暇はなく、授業後はすぐさま図書館に向かって、次の授業の準備をしなければならない。私自身、カナダの大学の授業を舐めていて、痛い目にあった一人である。

MARCHや早慶上理の各大学に魅力があるかどうかはともかく、それらに合格することがそんなに難しいことだとは思わない。東大合格者が3000人、京大も3000人、旧帝国大学や他の難関国公立大学、それからもっと募集の多い難関私立大学、GMARCHや早慶上理、関関同立など、全てを合わせれば合格者は毎年8万人くらいにはなる。
およそ8万人が合格できる試験を難関とか狭き門とか言わない。よって、「才能がないから無理」みたいなことを、言いわけがましくぶつぶつ言うのは、非常に情けないのでやめるべきである。

オリンピックでメダルを獲ることや、明や清時代の科挙にでも受かろうというのならまだわかる。おそらく幼少期からの血の滲むような努力に加えて、才能にも恵まれていなければならず、最終的には天運のようなものにも左右されるだろう。
しかしながら、MARCHに合格するには、才能も天運もいらない。必要なのは努力である。それも血の滲まなくてもよい程度の標準的な努力である。

ある新聞に幼児英語教室の特集記事があったのだが、その中で「将来、苦労せずに英語を身につけられるようにしてあげたい」という保護者の言葉があった。その親の気持ちを理解できなくもないが、努力や苦労なくして英語は身につかない。それはピアノも野球も同じことである。それを回避する術を子どもに授けることばかりに捉われるのではなくて、どんな苦労にも臆せず、打開しようと努力のできる人間へと育むべきである。

努力をやめたら、英語は伸びなくなるどころか死んでしまう
。カナダで5年暮らした後、日本に戻ってから私の英語力はみるみる落ちていった。よく勘違いされるのだが、一度英語が話せるようになったら、その後も同じようにずっと話せるということは決してない。おそらく10年海外で暮らそうが、第二言語として習得した以上は、英語力の低下は避けられないのである。

私自身、英語力を維持しようと毎日必死である。日本語を話したがる奥さんを説得して、日常会話は英語だけを使うようにしたり、授業前に1時間一人ぶつぶつとシャード―イングをしたりしている。多摩中央公園の鴨のように、涼しい顔をしていても、水面下では足をバタつかせて必死にもがいているのである。高校の
英語教師であろうが、英検1級やTOEICで満点を獲っていようが、留学経験があろうが関係ない。しばらく放置すると、ほぼ例外なく英語力は落ちていく。それはもう見事なまでに落ちていくのである。

この時期、新入生を募集しているが、現在通っている高校や中学の名前はどうでもよい。むしろ、その名前に(良い意味でも、悪い意味でも)裏切られることのほうが多い気さえする。現状の学力は低くても全然かまわない、それよりも、これから努力ができるという生徒にぜひきてほしい。持参物は「努力」、それだけで十分である。

2016年2月14日 (日)

鼻をほじる

「鼻をほじる」はpick my noseと言う。カナダの冬は乾燥するので、(人に見られぬように)鼻をほじくる人が多い。赤信号で停車すると、運転手はハンドルから手を離して手持ちぶさたに鼻をほじる。そして、ふと隣や後方の車に目をやると、他の運転手たちもみな鼻をほじっている(という笑い話がある)。

"pick"を"stick"に替えて、stick my noseとすると「首を突っこむ」という熟語になる。日本語の場合は「首」から突っこむので厚かましく響いてしまうのだが、かと言って英語のように「鼻を突っこむ」とするには、日本人の鼻では低すぎるのかもしれない。カナダで、この表現stick my noseと、上述のpick my nose「鼻をほじる」とを混同して使ってしまった苦い思い出がある。友人に、「口を出してくるな」と言おうとして、あろうことか「鼻をほじるな」と言ってしまい、その場にいる大勢の失笑をかってしまった。

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tick my noseの"stick"は「突く」という意味だが、stickには、もう一つ「くっつく」という意味もある。stickyとすれば「ベトベトした」という形容詞だ。昔、"STICK"という商品名の糊(のり)があったのだが(今もあるかもしれない)、「棒」という意味のstickと、「くっつく」という意味のstickをかけた素晴らしいネーミングだと高校生のときに気づいて感動した思い出がある。が、今改めて思えばただの駄じゃれでしかない。

"stick"が、リンゴをつま楊枝で刺したりするような比較的ソフトなイメージなら、"stab"は「グサッと突き刺す」という意味で、勢いも殺意も桁違いの恐ろしい語である。不意に包丁でグサッというイメージだ。back stabberは「後ろから不意にグサッと刺す人」→「陰口をたたく人」という熟語である。これを知って以来、starbucks「スターバックス」が、stab backs「背中を刺す」に見えてしまい、ちょっと恐ろしい。
ちなみに、coffee shopは「コーヒー豆を売る店」と解釈されるので、日本でいう「喫茶店」の意味での使用は避けたほうがよい。通常はcafeと呼ぶか、単に個々の店名を使う。

最近、鼻風邪か花粉症なのか鼻詰まりがひどい。鼻水が止まらないのはrunning noseで、鼻づまりはstuffy noseと言う。ほじくり出せるものならほじくり出したいのだが、鼻の奥のほうが詰まっているので、pick my noseしても何ともならない。かといってstab my noseでは危険すぎる。このstuffy nose「鼻詰まり」
のstuffyも、上述のstickやstabと同じく"st-"で始まっていて、これは語源的には「突く」を表す。つまりstuffyは「何かを突っ込まれた後の状態」→「詰まっている」となる。たとえば、stuffed animalは「詰めものをされた動物」で「ぬいぐるみ」だ。

このように思考を膨らませたり、知識をあれこれと連鎖させていくのは楽しい。辞書やインターネットで調べたり、以前本で得た知識であったり、ネイティブの友人から聞いたものであったり、単体のそれらの知識が時と場所をこえて繋がっていくのは感動すら覚える。生徒にこのような話をして、興味を持ってくれてうなずいたり、メモを取ったりしてくれる生徒がいるのは嬉しいが、ただの知識のひけらかしや自己満足にならないようにくれぐれも注意したい。

現在、時間割を組むことをはじめ、新年度に向けて様々な準備をしている。また、少しずつではあるが、高校生から順に3者面談を行っている。「高校生にもなって、親が勉強にstick one's nose(口出し)する必要はない、よって3者面談など必要なし」と、20代の私はそう思っていた。しかし30台の半ばを過ぎると、最終的に子供の手を最後まで離さず握り続けるのは学校でも塾でもない親なのだから、進捗状況を含め、良いことも悪いことも伝えたほうがよいと思うようになった。

親が隣に座ると、ほとんどの生徒は無口になり気まずそうにする。まるで注射を打たれる前の幼児のような表情だ。「痛くないからね」と明らかな嘘を言うつもりはない。痛みの伴わない注射は(今のところ)ないわけで、さらなる激痛を予防するためには、今の痛みに我慢する必要がある。まだ、刺激がstickであるうちはよいが、stabになったらもはや我慢するどころではない。致命傷でおしまいである。


2016年2月 5日 (金)

来年度の展望

2月に入ると受験生は連日のように入試がある。自校作の都立を受ける中3の受験生もいる。彼らのことを最優先にしながらも、来年度についても考えていかなければならない。来年度は、「大学受験に向けて」というスタンスを維持しながらも、「実用的英語を身につける」というスタンスをより明確にして実践していく。「英検」「大学受験」「就職(~その後)」の3つの場面で、成果を発揮できる英語を身につけることを目指す。

大学受験という目標は、あまりにも先のことなので、現実味を欠いたり、動機が不十分でやる気が持続できないという生徒もいる。その中間的なステップとして英検の取得を積極的に促していこうと思う。もちろん強制ではいので、最終的に受けるかどうかは本人の自由意思に任せる。ただ「受験料が高いから」と、(親が言うならまだしも)自分の学力を棚に上げて言う生徒がいるのは情けないことである。すすんで自分に投資できる人間になってもらいたい。最終的には、高2で準1級が取得できることを目指す。

また、センター試験が数年後に廃止されるが、その後継となる試験は、これまでの暗記や読解中心のものから、「四技能」(読む、書く、聞く、話す)をバランスよくみるものになるらしい。私がずっと訴えてきた「英語は言語→言語は使えてなんぼ」と同じベクトルを向いてくれそうで、大腕をふってこれまで以上に指導できそうである。その新しい試験がどこまで
期待を寄せてよいものかは分からぬものの、この試験にも十分対応できる「四技能」を身につけるように取り組んでいく。

3つ目には、大学入学後、あるいは社会人になって後にも、きちんと活かせる英語を身につける。東京オリンピックや訪日客の増加など、日本を取り巻く環境は幸か不幸か国際化の一途で、本人が望む望まずにかかわらず英語への需要は高まる一方である。英語が話せることは国民の義務ではないが、使いこなせればチャンスの選択肢は大きく広がる。また、様々な国の人間と直に言葉を交わすことは、島国ならではの閉鎖的で偏見に満ちた世界観を大きく変えてくれ、ひと回りもふた回りも人間的成長を促してくれる。

文科省調べによると、全国の高校3年生の英語力は、その7~9割が中卒レベル以下なのだそうだ。四技能別のグラフを見ても、どれか1つでも長けているならまだしも、見事なまでに総じて低い。日本人でも頑張れば何とかなるはずの読解はましかと思いきや、その読解もまったく目標値に達していなかった。また
一方で、日本人が世界的にトップレベルである「文法」が、グラフの項目になかったのは皮肉以外のなにものでもない。

世の英語教育が四技能に重心を移すのなら、旧来の単熟語の暗記や構文・文法に取り組む必要はもはやない、と言うつもりはない。それらのものは四技能を回す歯車であり、第二言語として学ぶ以上(自然に学ぶ環境がない以上)むしろ必要不可欠である。ただし、不必要なものまで網羅的に覚えることをせず、それよりは必要なものに絞って何度も反復して覚えること、使用場面や使用する目的、役割などと必ず結びつけること、発音のできない英語は論外なので、発音・アクセントの確認を怠らないなど、ただの詰め込みにならないことに十分留意しなければならない。
 
四技能の習得は、長期的な見通しに基づくべきものあって、短期的にはまず不可能である。このブログでもしつこく繰り返しているが、英語という教科は、1つの言語を体得する過程を意味する。その過程は、高3の4月から始めて習得できるほど甘くはない。そんな勉強法が実際にあるのならノーベル賞ものであり、(そうでなくても)とっくに世の中に浸透して共有されているはずである。

学校の定期試験のような暗記偏重の努力試験ならまだしも、言語として認識されればされるほど、これまでの定期試験に臨むかのような、その場しのぎの表面的な勉強では何ともならなくなる。センター試験の後継の試験をはじめ、TOEIC、TOEFL、来年から英検2級にもWriting(自由英作)の試験が加わるなど、その傾向は強くなるばかりだ。これまで以上に「手遅れ」になる者が続出するはずで、それが嫌なら長期的な見通しで、「言語としての英語」とまともに向き合うことである。

2016年1月29日 (金)

インフルエンツァ

12月半ばの日曜日、突如、授業中に吐き気に襲われて、授業の途中で奥さんに代講してもらった。結果的にはインフルエンザではなく、薬を飲んで一晩ぐっすり寝たらよくなった。その時の生徒には申し訳なかったが、その後「奥さんの授業は楽しかった」と言われると、何となく複雑な気分になった。皆さんも寒さの厳しいこの時期、体調を崩さぬよう気をつけて欲しい。
 
その時の風邪で気づいたことがある。これまでは、少しぐらい苦くても、早く効くように吸収の早い細粒タイプの薬を飲んでいた。しかしながら、じわじわ溶ける錠剤とは違って、細粒は一気に吸収するので胃への負担が大きいということである。そのために、ただでさえ弱っていた胃に極度の負担がかかり、その後は嘔吐の連続だった。英語の習得においては、繰り返しは大切なのだが、さすがにここまで嘔吐を繰り返しても(出るものはあっても)得るものはなかった。ただひたすら苦しいだけである。

嘔吐は英語で"vomit"と言う。"vo"は「口」のことで、たとえば"vocal" "voice"などを考えてくれればよい。"mit"は「送る」という意味である。なので"vomit"の語源はすぐに理解できるはずだ。ちなみに、
「吐き気」は"nausea(ノーズィア)"という。よく見ると後方に"sea"「海」とあるように、もともとは「船酔い」を指していた。 

口語では"vomit"「嘔吐」を"throw-up"とも言うのだが、カナダでインフルエンザにかかり、クリニックで"throw-up"を使うと、こういう場では"vomit"を使いなさいと医師に訂正された恥ずかしい思い出がある。後に"throw-up"はインフォーマルな表現で「嘔吐」というよりは「ゲロ」に近いということが分かった。

英語の"influenza"は、普段の生活では略して"flu"という。この語の発音は、「フと後ろにアクセントを置いて、語尾を少し伸ばすように言うのだが、カナダで過ごす初めての冬、まだまだ知らないことだらけの私は、前方にアクセントを置いて「ル」と言っていた。その結果、"full"「満腹です」になってしまい、悲痛な面持ちで、かなりシュールなジョークを言っていたわけである。

カナダのインフルエンザは日本のものとはニュアンスが異なって、単純に「きつめの風邪」「高熱を伴う風邪」の意味で使われる。日本のように検査を受けて陽性ならばというものではなく、医者にかからずとも本人の主観で「風邪と表現するには苦し過ぎる」というときには「インフルエンザ」となる。その線引きはかなり曖昧で、酷くいいかげんだった。

よって、インフルエンザに罹っても仕事や学校を休まなければならないという決まりはない。
日本のように予防のためにマスクを着用する習慣もなければ、メディアで頻繁に流行の有無を取り上げるほど過敏でもない。一つには満員電車など人と人との距離が極めて近い日本とは違い、広い国土に象徴されるように、カナダではパーソナル・スペースに余裕があるので、そこまで感染の恐れを感じない。また、(真偽のほどは不明だが)そもそもマイナス40℃を越える過酷な冬場にあっては、ウイルスや菌は生きていられないらしい。

去年も今年も、インフルエンザは流行していない。眠れる獅子はこのまま眠ったままなのだろうか。influenzaは元々イタリア語であり、発音は「インフルエンツァ」だったらしい
。そういえば、どことなく語尾がpizza(ピッツア)みたいで美味しそうである。あんなに嘔吐を繰り返していたのに、今や頭の中はpizzaのことでいっぱいである。人間というのは、かく卑しくもあり逞しくもあるものだろうか。

2016年1月24日 (日)

センター試験

実は、センター試験のあった今月16, 17日、妹の結婚式で京都にいた。なにもセンター試験の当日に結婚式を挙げなくてもいいだろうと思ったが、まさかそれを理由に式を延期してくれとも、欠席するとも言うわけにもいくまい。いっそ、このめでたさに便乗して皆がうまくいってくれるかもしれないと考えるようにしていた。どちらにしても、今さら心配すること以外に何もできないわけであり、それは東京にいようが京都にいようが変わらないことだった。

京都駅付近には駿台予備校があり、その辺りを歩くと受験生と思しき姿をあちこちに見かけた。寒さからなのか緊張からなのか分からないが、身を震わせて試験のできについて語らっていた。お互いの傷を舐めあうことで、自らの不安を薄めることができると信じているかのようだった。
その姿が、当塾の受験生と重なり、足を止めて「試験どうだった?」と尋ねてみたい衝動に駆られたが、新年早々、(妹の晴れの日に)不審者にはなりたくなかったのでやめておいた。

その夜、ベッドに横になってうとうとしていると、おもむろに電話が鳴った。画面には当塾の受験生の名前がある。この時間の電話ということは「(大きなミスを)やってしまったか」と思って心臓が高鳴った。平静を装って「どうした?」と声をかけると、「思った以上にできました!」という内容だった。予想に反して嬉しい一報だったわけだが、ぬくぬくとした眠気は吹き飛んでしまった。

東京に戻ってさっそく結果を聞くと、英語に関してはほとんどの生徒は8割を超えてきたが、「頭が真っ白になった」と思うような点数が取れなかった者もいた。センター試験で全力が出せることを期待してはいけないのかもしれない。たとえ7~8割の力しか出せなくても(頭が真っ白になっても)、満点近く採れる力を普段からしっかりと身につけさせねばならないのだろう。受験生の最高点は198点、高2では172点だった。

受験生はグズグズせずに、次の試験に向けてすぐに走り出さなければならない。センター試験が終わって、「ちょっと一息してから…」や「久しぶりにテレビでも…」は要らない。また、意外とそんなことは分かっている生徒でも、センター試験が終わると一段落した気がして気持ちが途切れてしまう。試験の余韻も休息の誘惑も振り切って、走り続けなければならない。「センター試験は駆け抜ける」が鉄則である。

高1, 2年生は、きちんと今回のセンター試験を解いてみただろうか。まだ対岸の火事のように思ってはいないだろうか。「やればできる」や「そろそろ本気になろうかな」のような自信過剰や自惚れ、楽観的観測に陥っていないだろうか。今の時期、英語に関しては、高1で140点、高2で160点を超えていたいところである。
受験までに残された日数で自分の学力をどれだけ上げなければならないか、ぜひ客観的に考えてみてほしい。いかに遅れをとっているか、いかにさぼってきたか痛感するはずである。

受験生は
雰囲気に呑まれずに頑張ってほしいが、高1, 2生はぜひ雰囲気に呑まれてほしいし、いっそ受験というプレッシャーの波で(今のうちに)溺れてしまえばいい。荒療治だが、手遅れになる前にまずは現状の危うさに気づくこと、そしてそれを杞憂だと振り払おうとしたり、部活動の多忙さでごまかしたりせずに、きちんと向き合って行動に移すことが大事なのである。

2016年1月11日 (月)

年末年始あれこれ

年末年始は京都の実家でのんびりさせてもらったが、受験生のことが脳裏をよぎるたびに何か罪の意識のようなものを感じずにはいられなかった。彼らにしてみれば、まだ何も「明けまして」でもなければ、「おめでとう」でもないはずで、もしかしたら暗闇のどん底にいるかもしれない。もちろん光明が差していることを信じてはいるが、年明け最初の授業で彼らの顔つきを見るまでは気もそぞろである。

年末年始の「クリスマス」、「正月」、「成人式(のバカ騒ぎ)」は、受験生をいらだたせる日本三大行事(?)である。世間がお祭りムードになればなるほど、受験生は不機嫌になり、ストレスのカタマリと化していく。少し先の「バレンタイン」を含めることもできるが、その頃は受験シーズン真っ只中で愚痴をこぼす余裕さえなくなっている(かもしれない)。お門違いや八つ当たりと言われればそれまでなのだが、かくも受験生とは繊細で心が狭くなるものである

大晦日、そんなことを考えながら、コタツに潜って紅白歌合戦を見ながら悠長に年越しそばをすする自分がいた。紅白の内容はともかくとして、たっぷりとネギの入った「にしんそば」は絶品である。民放の
「笑ってはいけない」にチャンネルを回そうかとも思ったが、「笑ってはいけない」と言われるまでもなく、「笑えない、笑ってる場合ではない」受験生への配慮と願懸けの意味を込めてやめておいた。 

正月3日、京都から東京に戻る新幹線、乗車率150%らしく指定席車両も鮨詰め状態だった。通路に立つ外国人観光客の赤いバックパックが私の目の前で揺れているのが気になった。結構なサイズの「破魔矢」が4本、斜めに差し込んである。以前、神社に訪れる外国人観光客は、破魔矢が"cool(カッコいい)"からとお土産に購入するというのを聞いたことがあった。トイレに行こうと席を立った際に、連れの仲間だろうか、同じように破魔矢の刺さったリュックをいくつも見かけた。

4本もの破魔矢を突き刺しているのは、さすがに異様な光景だった。
彼自身に刺さっているように見えて、まるで落ち武者のようである。このままでは魔を破るはずの矢が、逆に彼自身の身を亡ぼすのではなかろうかと思ったが、むしろその方が体内から魔が払われてよいかもしれないなど、あれこれ考えては混乱していた。ただ、どうよく捉えようとしても、リュックに捻り込まれている雑な扱われようが、ランドセルの縦笛や買い物袋の長ネギのようでかわいそうだった。

「光陰矢の如し」である。無情に行き過ぎる時を矢に喩えるなんて、昔の人はなんて詩人だったのだろうか。それに比べて英語の"Time flies."は、ターキー(七面鳥の肉)のようにパサついて味気がない。とにかく、この言葉の意味を最も痛感しているのは世の受験生たちかもしれない。

センター試験まで1週間をきった。受験生たちの矢は現在どこにあるのだろう。見当違いの方向に飛んではいまいか。もしかしたら、躊躇して手に握られたままかもしれない。はなから神風が吹くことを期待する受験生も中にはいるが、期待を寄せて都合よく吹くものを普通「神風」
とは言わない。そんな暇があるなら、一分一秒を惜しんで勉強してほしい。

2016年1月 6日 (水)

新年の挨拶

新年あけましておめでとうございます。

今年は
、とにかくブログの更新頻度を上げて、「英語のあれこれ」「受験の話」「授業の様子」「カナダでの体験談」「どうでもいい話」など、多岐に渡ってご報告していこうと思います。

更新が多少滞ることがあるかもしれませんが、どうかお見捨てになることなく、箸休め程度にでも訪れてくだされば幸いです。

それでは、今年一年よろしくお願いいたします。


最寄りのミスタードーナツより   
東輝英語塾 園山泰堂

2015年12月18日 (金)

顎をさすって"Interesting."

”Interesting.”という表現が私は好きではない。というか正確には恐ろしい。誰もが知っているように、この語は「面白い」とか「興味深い」というポジティブな意味であり、"Your idea is interesting."と言われるものなら、大喜びする人もいるだろう。

しかしながら、私はこの語が嫌いなのである。そこまで忌み嫌うのは、カナダでのトラウマ的な体験に起因するところが大きいのだ
が、それを抜きにしても、この語の使用場面や使用状況をある程度調べれば、そこまで素直に心を許せる表現ではないことが分かる。つまり、ネイティブが"It's interesting."と言うとき、果たしてその言葉通りに受け取ってもよいのだろうか、ということである。

カナダのアルバータ大学に入ろうと付属のESLに通っていた頃、工場の生産ラインのように「エッセイ」→「ディベート」→「プレゼンテーション」を何度も繰り返し課せられていた。カナダは日本に負けず劣らずの評価主義社会なので、その全ての課題に細かく厳しい評価が与えられる。そして、低い評価に並んで、コメント欄に
"Interesting."とあるのを見たときには、酷くがっかりしたものである

また、ある時、ディベートで「捕鯨」について議論をしたことがあった。(捕鯨賛成の立場で)必死
に食文化は保護していくべきだと主張しても、オーストラリアではカンガルーを、韓国では犬を、中国では猿を食べると言っても無駄だった。何を言っても、「かわいそうとは思わないのか?」と感情論で返されてしまうのである。正直、大勢を相手に議論を挑まなければならない私の方がよっぽどかわいそうだった。議長をしていた教師が、私が何を意見しても、顎をさすりながら"Interesting"としか返してくれなくなったときに、もうこれは完全に負け戦だと確信した。 

このように、"interesting"は文字通りの意味で使われることは少なく、遠回しの「否定」や「拒絶」、「マイナスの評価」となることがある。
"Interesting."と一言で片づけられるときもあれば、"Sounds interesting, but..."と反論につながっていくこともある。"interesting"とは実のところ、「面白い」ではなく「ううん、いまいち」や「それは違うんじゃないかな」なのである。

抑揚をつけて"Interesting!!"と言えばポジティブに聞こえるかもしれないが、正直そんな"interesting"はあまり聞いたことがない。本当に感心している場合は、"Wonderful!" "Great!" "Awsome!" "Wow!" "Cool!"など別の表現を使う。個人の好みによって別れるが、ネイティブの友人の1人は口癖のように"Fabulous!"を使っていた。

私自身、(特に「捕鯨」の議論で・・・)精神的苦痛を負ったものの、それと引き換えに貴重なことを肌身で感じられて良かった。「語感」や「語のイメージ」というものは、やはり現地で体験しなければ得られないし、これこそ実は英語を習得するうえで最も重要な核であり、最終的に吹き込むべき魂である。ちなみに少し難しいが、このような「言語感覚」のことを"sprachgeful"(ドイツ語)と呼ぶ。

前回のブログと同様になるが、言葉というものは状況や表情、声の抑揚など、他の要素が複雑に絡み合って様々な色合いを放つものである。単語集で"interesting"=「面白い」とだけ覚えるのは何とも無機質で、馬鹿げているとさえ思ってしまうのはそのためである。第二言語として習う以上、最適化(簡略化)して要領よく暗記することは仕方がない。しかしながら、人間のように、それぞれの語にも個性や癖、相性というものが実はあって、無機質な記号として見てはいけない。先程の「捕鯨」の話ではないが、それこそ「かわいそうとは思わないのか?」なのである。

英単語の習得も、また出会いである。そう思えば、単語を覚えていくこと自体が愛おしく楽しく思えてくるはずだ。間違っても、歌ったりゲーム性のある授業が「英語の楽しさ」であると勘違いしないでほしい。最後に、
私が授業で顎をさすりながら"interesting"と言ったら、要注意である。理由は上で述べたとおりだ。決して無邪気に喜ばないように。

2015年11月28日 (土)

見栄えより心

前回、相手にお願い(依頼)をする際には、"Will you~?"や"Would you~?"の使用は避けるべきで、"Can you~?"や"Could you~?"を使うべきだという話をした。詳しい説明はしなくてもいいかと思ったが、やはり中途半端はよくないので、今回はそれを具体的に説明してみようと思う。

英語における依頼の丁寧度を測る基準は、「いかに相手に"No"と言える余地を残してあげるか」である。たとえば、「命令文」と呼ばれる"Open the door."のような文は疑問文の体をなしていないので、相手にYes, Noの選択を一切与えない。つまりは一方的な依頼となり、ゆえに「命令文」と呼ばれるわけである。

仮に、"Please open the door."のように"please"を付けたところで、表現を多少和らげるにしても、疑問文でない以上("Yes-No"の選択の余地が受け手にない以上)、相手への威圧感を大きく下げることにはならない。

それでは、よく日本人が誤用してしまう"will you~?"はどうなのか?前回のブログで述べたように、実際は学校で習うような「~してくれませんか」という丁寧な依頼ではなく、むしろ軍隊や上下関係のはっきりした運動部で使用する「命令」に近い表現である。少なくとも疑問文の体をなしているので、相手に"Yes""No"の選択権があるのは確かである。

しかしながら、"will"にはそもそも「未来予測(未来はこうなる)」という意味があり、それゆえ依頼したことは相手によって確実に遂行されるという確信めいた響きを持つ。よって相手に"No"とは言いがたいプレッシャーを与えてしまうことになり、決して「丁寧な依頼」にはならない。このことを完全に理解して使用する必要はなくて、根源的な意味ではそういうことなので、とにかく「依頼」としては使わぬようにという話である。これはたとえplease"を付加して"Will you please~?"としても同じである。

もう1つ勘違いして多用されているのが、"Would you~?"である。"would"が"will"の「過去形(弱形)」であり、また「仮定法」であることを考えれば、命令度はかなり弱まって、丁寧な響きを帯びていることに異論はない。しかしながら、"will"の「命令」の性質を完全に拭い去ったわけではないので、「丁寧な依頼」というよりは「丁寧な命令」や「指示」に近い表現となる。たとえば上司から部下への指示のような職務上のやりとりにふさわしく、私的な場面での「依頼」にはあまり適さない

それでは、「~してくれませんか?」という依頼には何を使えばよいのだろうか。様々な依頼表現の中で無難なものを挙げると、"Can you~?"もしくは"Could you~?"がいい。後者のほうがいくらか丁寧度は高い。

なぜ"Can you~?"が丁寧な依頼となるのか。それは"can"のもつ「可能」によるもので、状況によって可能な場合と可能でない場合があることを前提にして尋ねているので、相手は"No"と言いやすい。つまり、相手は依頼されたことを遂行する意志はあるが、状況的に可能でないからと言って断ることができるわけだ。

また、"can"を過去形の"could"に変えて"Could you~?"とすると、これはいわゆる「仮定法」の形になる。その名の通り「ダメなのは承知なのですが、もし可能なようでしたらお願いします」と、相手が依頼を受けてくれることを実現の低い「仮定」として依頼することで、控え目で丁寧度の増した依頼となる。

最後に、これらのことは100%固定されているわけではなく、流動的であることを述べておく。また、以上のことに加えて、やはり言葉の抑揚やアクセントの位置などによっても丁寧度は大きく変わるということも覚えておく必要がある。どんなに素晴らしい作詞作曲の歌も、歌い手がそれをどのように歌いあげるかが大事なのは言うまでもない

2015年11月18日 (水)

いらいら依頼

相手に何か依頼(お願い)をするとき、誤って"Will you ~?"という表現を使っていないだろうか。当塾でも、「窓を開けてくれませんか?」を英語でどう言うかを尋ねると、"Will you open the window?"と答える生徒がけっこう多い。「それはまずいね」と言うと、怪訝そうな顔で「学校でそう習いました」と訴えてくる。私のほうが何やら過ちを犯した気持ちになり、慌てて資料を配って説明に入るということが何度かあった。

"Will you~?"には、ある種「命令」のような響きがあるので、軍隊ならまだしも、プライベートな依頼には適さない。たとえ"Please"を冠しても、ぞんざいな感じはさほど消えなくて、依然「命令」口調のままである。よって、友だちを失いたくなければ、使わないほうが賢明である
。詳しくは、次のブログ辺りで説明してみる。

好ましさと使いやすさの点から言えば、"Could you~?"か "Can you~?"を覚えておくのがよい。実際の生活ではよく使うので、口を突いて出てくるようにしたい。他に"Would you~?"という表現もあり、日本人は好んで用ようとする。しかし、この表現もプライベートな場面での依頼には好ましくない。この辺りも次回説明できればと思う。

「学校で習ったから」や「教科書や参考書に載っているから」と印籠のように振りかざされても、間違いは間違いなのである。誤りを教える教師や教科書の責任は誰よりもまず重く責められるべきなのだが、高校生ならば全てを鵜呑みにするのではなく、信頼のおける英英辞典やインターネットで調べてみる姿勢も時に必要だろう。

このように、"will you~?"という表現を間違って教えるのは、私が
中学生であった頃からまったく変わっていない。コミュニケーション英語が叫ばれて久しく、英語熱は年々高くなる一方のはずなのだが、それにもかかわらず、いまだ直されることなく放置されている。まるで世間を騒がせている偽装のようである。しかも、これから何十年も暴かれぬままなのだろう。そう思うとひどく憂鬱な気持ちになる。

学校という聖域にも大なり小なり偽装があるはずで、いっそ世の風潮を受けてチェックが入ってくれればとさえ思う。耐震偽装や排ガス偽装などとは違い、紙面上に改ざんの
証拠が残ることはない。また、教室というブラックボックスで、まともなチェック機能が働いているのかどうかもあやしい。なので、見つけることは至極困難だろう。もちろん、すばらしい授業をされてる先生もいるのだが、一方で、その陰に隠れて、今この瞬間にも英語の偽装が行われているかと思うと恐ろしい。

学校における英語の指導内容には"Will you~?"を始め、関係詞の"whom"を当前のように教えたりと、修正すべき事項がいくつもある。1年間アメリカで暮らしてみろとは言わないが、それこそ近くの
ネイティブ講師に尋ねたり、インターネットで調べればすむ話である。学校の教師なのだから、そのような英語環境は整っているはずだ。

ネイティブが「言わない」と言ったら、どんなに文法的な正当性を主張しても、権威者の参考資料を持ち出しても無力でしかない。東大出身のエリート教師が言うことでも、検定をパスした由緒ある教科書に書いてあることでも、ネイティブであるヤンキーの姉ちゃんが、「ダメ!」といったらほぼダメなのである


2015年11月 3日 (火)

高1の授業風景

高校1年生は、部活や行事ごとに忙しい。しかしながら、ほとんどの生徒は、きちんと自分で考えて行動ができている。明確ではないにしても、今何をすべきか、いつまでに何を達成せねばならないか、というビジョンが少なからずあるようだ。まだ1年生ということもあり楽観的なところがあるのは否めないが、意志のある生徒が集まって切磋琢磨してくれているので、これからの成長が楽しみである。

語彙はかなり増えてはきたが、定着率はまだ低い。毎回の試験ではほぼ満点の点数を取るなど、よく覚えてきてくれているが、語法や語源、派生語などを尋ねると口ごもってしまう。また、解答の際には音読してもらってアクセントと
発音を確認するが、意味を覚えることばかりに捉われて発音を疎かにしている感がある。

読解は当初は英検準2級のレベルからスタートし、現在は英検2級のレベルのものを解いている。2級に合格するレベルにはあるが、勘や運に頼ってぎりぎりで受かって喜ぶのではなく、きちんと実力をつけて臨んでほしい。6割で受かってしまう試験の仕組みにそもそも問題があるので、実力の伴わない合格者が世の中には大勢い
る。受験でもそうだが、小手先の技術ではなく、しっかりとした実力をつけて合格してほしいものである。

高1は、英作文のできがいい。まだ簡単なものばかりであるが、そこまで大きな地雷を踏むこともなく、ケアレスミスも少ない。塾をはじめて4年目だが、英作文に取り組む時期が年々早くなってきている。それだけ早期からの訓練が必要で、英語力全体の底上げや、スピーキングにも結び付く有効な手段だと考えるようになった。全員にホワイトボードに書いてもらい、みんなの前で添削していく。優秀な解答だけではなく、様々なミスからも学ぶことは多々ある。

前回の授業で、「お父さんが帰ってきたら、それを開けていいよ」という文を英訳する際に、"if"を使っている生徒がいて✕をした。"if"を用いると
「お父さんは帰ってこないかもしれないが、もし帰ってきたなら」という仮の話をしていることになる。ここでは"if"ではなく、"when"(~とき)を使わねばならない。機械的に左から右へ訳していてはダメで、言語を扱っているのだという前提に立ち、言葉に潜む意味や場面をきちんと考える必要がある。

当初に比べて、上で述べたように、語彙、読解、英作の力は伸びた。一方で、文法にはまだ本腰を入れて取り組めていない。もちろん文法を軽んじているつもりはない。ただ学校のように文法に偏重することをしないだけである。カナダで得た「文法キング」の称号に恥じぬよう、むしろどこよりも徹底的に正しく文法は行う。まず学校に先行してもらって、学校の内容を後から補完、修正するように考えている。週2回になる高2から、本格的に取り組むつもりである。

できることなら、全ての学年で週2回の授業を行いたいのだが現状は不可能である。中学校も高校も、英語にかなりの時間数を費やしているわりには効果が上がらない。気の毒なほどに費用対効果の悪い授業をしている。特に最悪なのは、「コミュニケーション英語」の解釈をはき違えて、歌ったりゲーム性のある授業ばかりして貴重な時間を浪費していることである。そんなことするくらいなら、私にいくらか分けて欲しい。そうすればもっと有効に利用させてもらうのだが。

2015年10月23日 (金)

英語で日記

カナダにいた最初の2年あまり、大学ノート(をわざわざ日本から取り寄せて)日記をつけていた。英語力を一分一秒でも早く身につけたいという足掻きのようなものだったが、それ相応に英語力は伸びたと思う。当初は辞書を引きまくって、場面や状況に適切な語句を選択し、正しく使用することを心がけた。次第に、不自然さの無い論理的な文章を意識するようになり、最終的には使ってみたい語句を試してみる実験的な場となった。

書いたものは、教師や友人に1週間に一度、まとめて添削してもらっていたのだが、いい歳の大人(おっさん)になって、日々連ねた心情を他人に見られることはこの上なく照れ臭さかった。恥ずかしくて触れて欲しくない箇所を、真面目な顔で「これはどういう意味?」などと聞かれると、目を泳がせながら"Never mind.(気にしないで)"と言うしかなかった。

最近になって、中学2年生で英作文の課題を出しはじめた。文量は週に最低1ページで上限はない。提出してもらって次週の授業で添削したものを返す。書く内容は、日記でも、世の中への不満でも、授業の愚痴でも、親子の確執でも、とにかく何でも構わない。というか、英語で愚痴や不満などが言えるようになれば大したものである。論理的な文章が好ましいが、内容には干渉しないので、自由に書いてくれればよい。

私は英作文における間違いを「地雷」と呼ぶ。英作文とは別解が多数存在し、比較的自由度は高いはずなのだが、受験生でさえ見事なまでに数少ない地雷を踏んでしまう。よって、中学2年生の書くものが、地雷を踏まない訳はなく、むしろ踏みまくっているはずなのは容易に想定できる。今のうちに踏むだけ踏んで、地雷を嗅ぎわける嗅覚を養ってくれればと思う。

回収したノートの1冊に手を伸ばすと、その表紙にマジックで「Daily」と書いてあった。おそらくは「Diary」の間違いなのだろう。ノートを開く前から地雷を踏んでしまったわけだが、受験生のものと比べて悪意がなくて清々しく思うのは気のせいだろうか。その生徒は、非常にやる気のある生徒で、最長5ページにわたって課題をこなしてきた。そのような優秀な生徒であることを述べて、フォローとしたい。

現中2の生徒は学習意欲が高いので、うるさく言わずとも継続してくれると確信している。中学生である彼らが、大学受験や就職時のことを見据えるのは、あまりにも先のことなので難しいとは思う。しかしながら、必要に迫られたときにすぐに身につくものではないということ、手間と時間をかけて少しずつ段階を踏んでいくものだということ、その長い道のりの初めの一歩を踏み出したのだということ、をどうか肝に銘じてほしい。厳しいようだが、その場しのぎなら、はなからやらない方がましである。

当塾は25を越える様々な中学、高校から生徒が来てくれている。しかし、そのほとんどの学校で「コミュニケーション英語」がうたわれているわりに、例文暗記などの表面的なポーズだけで、ほぼまともな英作指導は行われていない。1つには、生徒の書いた英文を診ることのできる教師が極めて少ないという実情がある。また、テキストに付随する指導書の別解をいくつかあげて終わりにするのではなく、生徒の答案をなるべく活かして改善法を示してあげる指導が必要だろう。それは手間と時間のかかる大変な作業なのだが、そこで面倒臭がったら教師は終わりである。

2015年10月11日 (日)

カナディアン・コーヒー

アメリカ人は「アメリカン」のような薄いコーヒーばかり飲むから、(映画に出てくるような)大きいマグカップで大量に飲む必要があるのだろうと思っていた。エスプレッソのカップが小さいのと同じ発想である。しかしながら、実際カナダにもアメリカにも「アメリカン」というコーヒーは存在しなかった。私自身、スターバックスのような専門店のコーヒーは苦過ぎて、漢方薬を口に含むようなものだったので、カナダでは薄いコーヒを提供するマクドナルドのような大衆店に行くしかなかった。

カナダでの私の経済状況は切迫していたわけでもなかったが、「
スターバックス」のコーヒーを別の紙コップで2等分し、カウンターに置いてある牛乳をたっぷり入れて2人前のカフェオレを作るということを試してみたことがあった。ひらめいた時は自分はなんて天才なんだと思ったが、あまりにも品位を欠いた行為にドン引きしてしまい、一度試したきりでやめてしまった。遠い異国の地で、日本人の恥にはなりたくなかったのである。

このように私は基本薄めのコーヒーが好きなので、大衆コーヒー店の「ティムホートン」で買うことが多かった。そこで、コーヒーとティンビッツ(小ぶりのドーナツ10個)を購入しては、よくダウンタウンの図書館に通った。日本の融通の利かない図書館とは違って、飲食は自由で、大勢の人がコーヒーを傾けながら本を読んでいた。カナダ人に「日本の図書館ではコーヒーは飲めない」と言うと、「日本人は不幸だね」と言われて、その通りだと思った

クリスマスが近づくと、「セカンドカップ」というコーヒー専門店
に足を運んだ。店内のクリスマス装飾や店内に流れる伝統的なクリスマス音楽が好きだった。-40℃の凍てつく外の世界とは違って、扉を開けるとそこには優しく温かい空間が広がっていた。ツリーや装飾の1つ1つを眺めながら、マグカップにたっぷりのコーヒーを傾ける。カナダに「風流」というものがあるのならば、その時その空間がそうだったのだと思う。

一番思い出深いコーヒーは、ESLのコーヒーである。毎朝眠い目をこすっては、淹れたてのコーヒーをいただいた。淹れたてにもかかわらず、あの不味さは奇跡的だった。ただのカルキ臭い茶色いお湯でしかなく、たっぷりの砂糖とミルクを入れて何とかごまかしながら飲んでいた。そのアメリカンよりも薄くて不味いコーヒーを、私は皮肉を込めて「カナディアン」と呼んでいた。

キッチンや教室で「カナディアン」を傾けながら、クラスメイトや教師らと語らうのは楽しかった。新天地で友人を作るのは簡単で、キッチンでコーヒーを飲んでさえいればよい。そうすれば誰かしら声をかけてくれるし、良き話し相手になってくれる。コーヒーは英語以上に世界共通の言語であり、心を開く万能なコミュニケーション・ツールなのかもしれない、と心底そう思った

2015年10月 3日 (土)

読解の仲介業

10月に入り、早いもので今年も残り3か月。今年は授業以外の時間は、ひたすら入試問題を解いてきた。おかげでこのブログの更新頻度も、まるで最近の「ワンピース」の連載のように落ちてしまった。過去問に取り組むにあたり、やはり鍵は読解問題だと再確認した。普段から生徒に口を酸っぱくして言っているのは、読解のない入試問題はない、読解は配点が高い、読解は一朝一夕ではどうにもならない、ということである

読解問題が本文の内容解釈だけで済むのなら簡単なのだ
が、それから設問を解きにかかるとそうはいかない。というのも、本文を読む際には英米人的な思考や論理運びにチャンネルを合わせるのだけれど、設問にあたる際にはその回路を日本人的な思考に切り換える必要がある。TOEICであれば、最後まで英語の思考回路のままでよいが、日本色の強い入試問題ではこのスイッチの切り替えを頻繁に行わなければならい。これが私には厄介極まりないのである。

入試問題の設問や選択肢の英文には、
出題者のテイストが見え隠れする。そうすると、オリジナルの著者の意図を汲み取るのではなく、間に割って入ってくる出題者の意図を汲み取らなければならなくなる。その英文も思考回路も日本人的で、正直眉をひそめたくなるものもある。悪問であればあるほど、出題者の存在がよりいっそう鮮明に見えてくる。

疑いの矛先は解答にも及ぶ。正答を確認する際、私は赤本(過去問)に頼るが、それを執筆した予備校講師は信用に足るのか。また、
もし入試本番や模擬試験ならば、その試験の採点者は信用できる人物なのか。特に英作文の場合、採点者の英語力の差異によって点数は大きく変動する。以前、東大模試で、生徒の英作文が17点とつけられていた。それを見て、私は「甘いというか採点ミス。5点かな」と修正したことがある。

このように入試問題(特に読解問題)には、オリジナル(原文)の著者、問題作成者、赤本執筆者、答案採点者が絡んでくるのだが、皆が似たような解釈を共有できているかどうかは甚だ疑問である。どこかで不必要な主観が入り混じり、オリジナル(著者)の解釈
を捻じ曲げてしまうことは大いにあり得る。生産者と消費者との間に複数の仲介業者が割り込んできた感じで、鮮度もなければ、変に加工されて美味しくないのである。

もちろん、授業で解説する際には私の主観も入る。私のフィルターを通して生徒たちは理解をするわけで、つまりは私自身も仲介業者なわけである。結局は同じ穴の狢なのだが、それでも、害悪な異物を濾過できるような良いフィルターでありたいと思う。


2015年9月 4日 (金)

「くそ」のはなし

「鉄道は基本ホワイトだけど、東急はくそらしいよ」

SUBWAYでサンドイッチを頬張っていると、就活中の大学生だろうか、リクルート服を着た二人の女子が近況を報告しあっている。ホワイトとは今流行りのホワイト企業のことであろう。

この近くにBenesse(ベネッセ)本社があるが、顧客名簿流出の事件を機に、一躍ブラック企業と揶揄されるようになった。真偽のほどは分からないが、"Benesse"のbeneとは、benefit「利益」にもあるように「良い」という意味である。また-esseは「存在」という意味で、例えばessay「エッセイ」とは「己の
存在を示すもの」である。よって社名のBenesseとは「良い存在」という意味であり、これでブラック企業だと言われると何とも皮肉なことになってしまう。

話は戻るが、上の就活生に限らず最近の若者は「くそ」をよく使う。生徒の中にも、「試験はどうだった?」と聞くと「くそでした」とか「くそみそでした」という生徒がたまにいる。丁寧語の中に突如表れる「くそ」には非常に違和感がある。もちろん、相手を馬鹿にして言っているつもりはないのだろうが、聞くに堪えない。

英語でも、fucking coffee「くそまずいコーヒー」のようにfuckingを名詞に冠して使うことがある。バスに乗っていても、喫茶店で勉強していても、ネイティブ達の会話には少なからず
fuckingが飛び交う。本来の性的な意味合いは薄らいで、「最悪な」のような強調語として使われている。「それならば私も」と使おうとしたことがあったが、ESLの教師やホストファミリー、友人に至るまで、「使ってはいけない!」と子どものように窘められた。

「言語は退化することはなく、ただ変化していくもの」と竹岡広信先生は仰っていて、私もその通りだと思う。「最近の若者は言葉遣いがなっとらん!」と言うのは年寄りの言いがかりで、自分を中心に世の中を見ているからにすぎない。
その年寄りも若い頃は、その当時の年寄りから言葉遣いを非難されていたはずで、おそらくは枕草子の時代から永遠と繰り返されている小言なのであろう。言葉が変化するのは自然の成り行きなので、言葉遣いには寛容なスタンスでいたいと思う。

それにもかかわらず、「くそ」と聞くとなんとも胸くそが悪くなるのはどういうことだろうか。年をとったからか、言葉に携わる仕事をしているからだろうか。「くそ暑い」や「くそ不味い」は、ひどく耳障りである。「ら抜き言葉」や「全然だいじょうぶ」のような誤用はまだ構わないが、「くそ」だけは勘弁してほしい。清少納言なら、「わろし」という間もなく卒倒するだろう。

そうではない「くそ」もある。私が高3でセンター試験を受ける直前、恩師の竹岡先生から「これを握りしめて頑張れ」と、鉛筆を1本いただいた。持ち手のところが平面に削られ、そこに先生の字で「なにくそ!」と書かれていた。決してきれいな言葉ではないが、北野天満宮のお守りよりも、よっぽどご利益のありそうな気がした。「『くそ』を贔屓をするな!」と言われればそれまでなのだが、その「くそ」だけは本当にありがたい代物だった。

2015年8月29日 (土)

女王の手

カナダのカルガリーにいる時、英国のエリザベス女王を見かけたことがある。と言っても、バスを待つ人混みの中にとか、ショッピング・モールで買い物をされていたとかではない。

平日の昼下がり、バリュー・ビレッジ(リサイクル・ショップ)に行こうと、Cトレインの駅に向かって歩いていた。カルガリー・タワーの真下にさしかかると、そこから大通りを挟んで両側に大勢の人だかりが見えた。いつもの閑散としている様子とは大違いで、何やらただ事ならぬ雰囲気と妙な緊張感が漂っていた。
歩みを止めてその中の一人に尋ねてみると、なんとエリザベス女王がカルガリーを訪問中でこの道を通るらしい。

私がそれまでの人生で見かけた有名人は、太秦映画村でサインをもらった松平健だけだった。なので、どうしても一目拝んでおかなければと思い、人混みに身体を捻りこんで辛抱強く待つことにした。もちろん買い物の予定はキャンセルである。

しばらくすると、遠くから歓声が上がり、警備のバイクが通り過ぎていく。そして高級車の隊列がやってきたのだが、どの車両に女王がいるのか分からない。これは公式のパレードではなく、ただの移動に過ぎない。その場にいる全員が、興奮と焦りの中、見逃してなるものかとじっと目を凝らす。隣のお婆さんは勘違いして、お付きの人の車両に声援を送っていた。

すると、ひと際豪華な車が見えた。窓が開き、そこから白い手がひらひら揺れている。女王は背もたれ
に深々と寄りかかり、完璧な笑顔と所作で手をひらひらと振っていた。凛々しい顔立ちはテレビで見たままである。彼女の放つ気品やカリスマ性を一瞬のこととはいえ肌で感じることができた。

カナダはイギリスの支配地だったが、敵意というよりは敬意と友好の念が強い。一方で、隣国のアメリカに対しては不満や嫌悪感の方が強い。「brain drain」(頭脳流出問題)や移民の問題を含め、経済的、政治的な軋轢があるようである。日韓関係に限ったことではなく、程度の差こそあれ、どこでも隣国同士は仲が悪いのである。これは「世界共通あるある」なのかもしれない。

女王の車が行き去って、群衆は流れだし、一般車両の往来が再開された。私も駅へと歩を進める。目の前に聳えるカルガリー・タワーを見上げて、そのまま西の方に視線を移していく。霞の中にロッキー山脈が凛と居座っている。まるで車中のエリザス女王のようだった。
子供の時からお婆さんになるまでずっと女王であり、ずっとイギリスの歴史を背負ってきたのだ。あのゆらゆら揺れる白い手を思うと胸が熱くなった。

2015年8月21日 (金)

甲子園の行方

甲子園が面白い。というか、連日の授業のため、楽しみは甲子園しかない・・・。清宮くんのふてぶてしさは見ていて飽きない。ゆるキャラみたいである。それにしても、高校野球には心の浄化作用がある。懸命に白球を追う姿のみならず、「いつか負ける」「いつか終わる」というはかなさが、よりいっそう瞬間の輝きを際立たせて感動を与えてくれる。

一方で、ミスタードーナツに行くのは飽きてしまった。この夏、ほぼ皆勤賞である。

京都で大学に通う際、車で嵐山の渡月橋を渡っていたが、もはや通学路の一部となり、名所ならではのありがたみは全く感じなかった。むしろ「人が多くて鬱陶しい」とか、「人力車は邪魔だ」などと文句を垂れていた。渡月橋では「振り返ってはいけない」という恐ろしい言われがある。毎回バックミラー越しに後方を見ていたが、大丈夫だろうか。

話は戻るが、私にとって今のミスドはそんな感じである? 渡月橋のように何の感慨も沸かない生活の一部となってしまった。ポイントが溜まるのも当たり前、お代わり自由も当たり前なのである。フレンチ・クルーラーもオールド・ファッションも、もう飽きてしまった。いっそのこと、ざるそばを出してはくれまいか。

夏期講習が終わった。参加した2年生、3年生はお疲れさまだった。2年は毎日の単語テスト、3年生は毎日のイディオムのテストと過酷だったかもしれないが、よく頑張った。2年生は浮き彫りになった弱点にしっかり取り組んでほしい。3年生は9月以降の模擬試験で結果が出るように調整していってほしい。
 
いつも言うように、講習は副菜であり、主菜になってはいけない。8~⒑時間、自学自習に取り組む中のほんの一部を占めるくらいが好ましい。当塾が広ければ、快適な自習室でも設けたいのだが、ご存知のように授業を行うのがやっとの寺小屋である。各自、自習のできる環境を見つけてほしい。

私自身、甲子園熱にあてられて何だかやる気がみなぎっている。この勢いのまま、授業やテキスト作りに精を出そうと思う。望むらくは、ミスドがモニターを設置してくれて、甲子園の決勝戦を観戦できるようにしてくれれば最高である。

2015年8月 5日 (水)

単語の試験

単語のテストを覚えてこないのは、当塾では御法度である。

まず、第二言語として言語を習得する際には、母語のように生活の中で自然に身につけるのは不可能であるから、意識的に増やさなければならない。特に中学生は、学校で習う程度では足りないので、個人的に増やす必要がある。高校に入ってから苦労しないためにも、十分な語彙を早めに得ておきたい。10代は人生において最も記憶力の良い時期なので、遠慮せずにどんどん覚えればよいのである。

当塾の新入生の多くは、最初の単語テストで自分の語彙力のなさに驚くはずだ。テスト範囲のプリントを渡していないので当然と言えば当然であるが、とりたてて難しい語彙ばかりを集めて試験しているわけではない。あらかじめ獲得しておくべき基本的な語も多く混じっている。つまり、日本の中高生の語彙力は総じて低いのである。

読解をおこなう際も、辞書の使用は許可しないので、読めないことの一因として語彙不足を痛感するかもしれない。「単語が分からなくても周りの文脈から判断すればいい」とよく言われるが、それは98%の語彙が分かっていて、残り2%程度の語彙が分からぬ場合の話だ。分からぬ単語が5%を越えるとこれは難しくなる。周りから類推しようにも、周りの語も分からないのならどうしようもない。

一周目は、意味とアクセントだけで良いが、徐々に発音や使用場面、使用法、類義語などをおさえていくようにしたい。そうすることで、アルファベットの無機質な配列に過ぎなかったものから、それぞれの単語の個性が見えてくるようになる。また、英作に使用する語彙、読解で必要な語彙、会話で使える語彙というように色分けができるようになる。高校3年間をかけて、ここまで到達できれば大したものだ。

中学生には、混乱すると困るので、語源的な説明や細かな使用法などは教えていない。現在、中2生は準2級が範囲だが、将来的に英作文で使えるようにしておくため、意味ではなく「書き」の試験にしている。一方で、高校生からは、読解用の難解な語彙が並ぶので、「書き」ではなく意味とアクセントの試験になる。覚えてくる単語数は、中学生が毎回50個、高校生が100個である。

何周もするたびに、前の記憶が呼び起こされて、覚えるのにかかる時間は短縮されていく。最初は1~2時間かかっていたものが、直前に5分ほど目を通すだけで対処できるようになる。入試直前には、全ての範囲が頭に入っていなければならないのは言うまでもない。いつも新入生に言いたいのは、授業前の30分くらい眺めて覚えるのは不可能なので、覚悟を決めて(腹を据えて)、手間と時間をかけることである。

慣れてきた生徒も、「8割くらい採れば、文句を言われない」という妥協があるならば捨てることである。一切の妥協なく、全てを取りこぼしなく覚えようとすること。その積み重ねと意志こそが、記憶の定着をより確実なものにする。

語彙を増やすことに才能はいらない。ひたすら努力である。その努力ができないことに言い訳をするようなら終わりである。努力することでも負けてしまったら、本当に才能ある人間にどう立ち向かうのか。これから大学入試を迎えるにも、社会人になるにも、これくらいの暗記で音をあげては先行きは暗い。ぜひ、これしきのことは乗り越えてほしい。

2015年7月31日 (金)

盛夏のみぎり

毎日茹だるような暑い日が続く。起きた瞬間から、すでに一日の終わりのような気だるさを感じる。そういう時は、有無を言わさず、ミスドに行く。だらだらと時間を浪費するくらいなら、数百円の投資は惜しくはない。この(私にとっての)快適な環境により、効率は驚くほど上がり、ポイントも恐ろしいほど溜まっている・・・

体育会系、文化系にかかわらず、何かしら部活に所属している生徒は合宿があるらしい。空前の「合宿ブーム」と言っても過言ではない。その部活に合宿いる?と言いたくなるものも正直ある。というか明らかに日本の学校は、部活動や行事ごとに時間を割き過ぎである。この夏休みも「休み」とは名ばかりで、休む暇など一切なく、部活の練習に明け暮れる生徒もいる。できることなら、そのエネルギーの半分でも勉強にあててはくれぬだろうか

学業に支障がないなら何も言わないが、明らかに学業の邪魔になっているので文句の一つや二つ言いたくなる。文武両道の精神は大事かもしれないが、学生の本分はあくまで学業であることを忘れずに。部活動が学業をさぼる言い訳にならないことを改めてお願いしたい。

受験生は蝉のように、限りある時間の中、必死に勉強している。高2生も高1生も対岸の火事ではない。その燃え盛る対岸に向けて舟を漕いでいるわけで、何の装備もないまま、裸で火中に飛び込むことだけはないようにしてほしい。特に英語は、言語習得のプロセスを鑑みれば分かるように、一朝一夕ではどうにもならない。

 高2、高3生の夏期講習は8/10~8/16で行う。学習に効率を求めるのなら、まずは授業や講習に参加する前に、自主的に学習する時間を十分に設けることである。ある高3生の女の子は、朝6時から学校に行き、夕方6時まで勉強しているそうだ。そのような姿勢が前提にあってこそ、予備校や塾の授業は活きてくる。

 部活動中心に生活を送っている者、本気を出せばできると思っている者、口ばかりが達者で行動の伴わない者、模試の結果を持ってこない秘密主義者、などは特に要注意である。「まあいいか」と後回しにして、手遅れになった者を何人も見てきた。チャンスであれ、ピンチの回避であれ、ここぞというタイミングを逃す生徒(人間)が、世の中にはとても多い。なので、「まあいいか」とならずに、質問や相談があれば、いつでも聞くので声をかけてほしい。

 

2015年7月 3日 (金)

夏休み

駅へと向かう道、幼稚園の前を通ると、大きな笹が門扉に結んてあった。もうすぐ七夕らしい。笹の葉に書かれている園児の願い事を覗いてみたい気もするが、不審者に思われるのも嫌なので、歩みを止めずに通り過ぎる。とにかく、そこの幼稚園は常に季節の行事に溢れていて、前を通るたびに私の乾いた季節感を潤してくれる。

7月に入り、夏休みも間もなくだ。今、高校は試験期間のところが多く、欠席の連絡が入ってくる。たかだか2時間くらい塾に来たところで何か変わるのだろうか?と思ったりするものの、私自身、定期テストとなればすぐ休む生徒だったので、彼らのテストに集中したい気持ちも分からなくはない。また内申点を稼がなければならないなど個人的な事情もあるだろう。よって塾を休むのはよい。が、それなりの点数を採ってくるよう期待している。

お盆休みは8/10(月)~8/16(日)だ。ただし、高3生は夏期講習が行われる。詳しくは近日中に報告する。高2生でも夏期講習を希望する声があったので一部のクラスでやろうと思う。本人の意志の伴わない授業は誰も得しないので自由参加である。やる気を試すとかそんなのではなく、本当にどちらでも構わない。入試は英語だけではない。全ての教科のバランスを考えなければならず、他に優先すべき教科があるなどすれば当然参加しなくてもよい。

受験生以外では、10日間くらい会話中心の講習も考えたが、都合が合わなかった。留学の意識が強い生徒が多いので、疑似留学みたいな感じで10日間くらいひたすら会話の授業をしようかと考えていた。ぜひ近い将来に叶えたいプログラムである。

もう一つ叶えたかったものは合宿だ。場所は比叡山延暦寺。朝5時から本堂で座禅をくみ、食事は精進料理。ひたすら授業と自習を繰り返す。私が高校時代に竹岡塾で体験した合宿で、とても良かったのでぜひやってみたいのだが、ここから滋賀県は遠いし旅費もかかる。現実味は少し低いか。

受験生は残り半年。高2生は一年半。他の学年の生徒も、手遅れにならないようにあれこれ考えて実行に移さなければいけない。夏休みの終わりになって「結局何もできなかった」とならないように。そういう人は、その先受験が迫った時も同じように何もできていない。

Time flies.「光陰矢の如し」という言葉は、歳をとるたびに実感が増す。部活動など忙しいのは分かるが、自分の数年後の未来を少しは考えてみてほしい。別に短冊に書いて笹に吊るさなくてもよいが、短冊に書けるような夢や未来があるだろうか。考えることを恐れたり面倒くさがったりするのではなく、一度真剣に考えてみなければならない。そうすれば、より主体的に決断し行動することができるようになり、より客観的に全体の中の自分が見えるようになるだろう。

2015年6月28日 (日)

留学生への言葉

生徒の中には、将来留学したいという生徒が思いのほか多くて、英語を教える身としては、頼もしいやら嬉しいやらである。留学の相談があれば喜んで受ける。やはり体験した者にしか語れないことがある。行ってもいないのに、効果ないだの意味ないだのと決めつけるのはやめてほしいし、一方で「ウルルン滞在記」のような感動をはなから期待するのも見当違いな気がする。

実際の留学は、テレビや本で紹介されるような脚色されたものとは異なるし、机上では予想だにしなかった感動もあれば、頭の中で思い描く理想とはかけ離れた生々しい問題に触れることもある。結局、行ってみなければ分からないし、留学を生かすも殺すも本人次第になる。

留学生の中には、当初は英語習得や大学進学などの目標を掲げていても、いつの間にやら「現実逃避」や「自分探し」になってしまったり、旅行の延長上みたいな感じや異文化交流だけを楽しんで終わってしまったりする者も多い。以下の文章は、そうなってしまった留学生の友人を叱咤激励しようとして書いたものである。ひどく偉そうなことを言っているが、友人への言葉を通して、自分自身そうならないように楔を刺したかったのだと思う。

-カナダに留学する目的は、人それぞれである。例えば、使える英語を学びたい人、MBAの取得を目指す人、TESOL(英語教師育成コース)を受講してスキルの向上を図る人など様々だ。しかし、どの目的達成にも欠かせないのは、純粋に言語としての英語を習得することである。それは決して容易なことではない。それなりの時間と労力そして何より忍耐を必要とする。

もし、留学をはじめて半年で、私はペラペラよと思っている人がいたら、それは単に自惚れ強いか、目的達成の壁を低く設定しているだけである。他人が感心してくれたとしても、自分の英語はまだまだと言うのが、本来あるべき留学生の姿であろう。

真のバイリンガルの道は決して楽ではない。楽しく学ぶにこしたことはないが、それが「真剣に」英語を学ぶこと、自分を見つめることの言い訳や逃げ道になっていないだろうか。たとえ甘えられる環境であっても、常に厳しく自分の英語を評価しては、自らを律し奮起することが大事ではなかろうか。

異文化に触れること、友人を見つけること、一生の思い出を作ることなど、美しく響く目標や、陶酔させるに十分な目的が留学にはいくつもある。しかし、それらは習得過程に得られる副産物であって、ここに来た本来の目的ではないはず。友人を作ることは大切だし、週末に飲みに行くのも大切かもしれない。しかし、常に本来の目的に焦点を置き、それを中心に留学生活をおくるべきだ。決して安くない投資を自分にしているわけだから、それなりの断固とした決意、態度を持っていたい。

日本人は恵まれている。才能に恵まれていなくても、世界的には裕福だから、留学という夢をかなえることができる。しかし世界には才能に恵まれているにもかかわらず、社会的、経済的ハンデから留学の夢をかなえられない人間が五万といる。実際に知り合ったメキシコ、ブラジル、サウジアラビア、中国などからの留学生は、比較的裕福な家庭の出身者だ。

もう一度言うが、日本人はものすごく恵まれている。世の中には留学したくてもできない若者が大勢いる。貧しい国で枯れていく才能たちを憂い、と同時に、自分の恵まれた境遇に感謝すること。決して本来の目的を思い出作りにすり替えることなく、初志貫徹で頑張って欲しい。厳しく真剣に取り組む中でこそ、真の友人はおのずと見つかり、かけがえのない思い出は作られていくものなのだから。

2015年6月17日 (水)

オチを最初に?

将来的にはスピーキングに特化したクラスを作ろうと考えている。以前に高校生の会話クラスを設けたが、希望者がなく自然消滅し、社会人の英会話クラスになってしまった。教室が2つあれば、会話のクラスも可能になるだろう。今の授業では発音やアクセントに触れることはあるが、どっぷり話したり聞いたりするまでは至らない。

基本、既存の教育機関を見る限りスピーキングに関しては絶望的なので、日本にいる限りスピーキングの習得は難しい。本当に話す強い意志のある人間が留学するしかないと思っている。できれば、身も心もどっぷり浸ることのできる留学には及ばないだろうが、きちんと力のつくまともな会話クラスをぜひ設けたい。

去年は夏休みに友人のAlexがカナダから遊びに来てくれて、授業をしてくれたが今年はそれも望めない。忙しくなければ、奥さんに頼んでやってもらおうかとも考えている。奥さんもAlexほどではないが(Alexは言語学者だ)、慶応大学の医学部で脳の研究をしながら、多くの教授たちの英語論文のチェックをしている。

医学部のドクターたちの英語はどうか?という話題になった時に、彼らの多くは意外に英語が話せて驚いたそうだ。日本人全体レベルで見れば話せる人は少ないかもしれないが、特定のフィールドでは、話せる人材がきちんと育っている。ただ英語論文に関しては、悪い意味での日本人らしさが出るらしく、よく「Unclear!(論理が不鮮明)」、「Wordy!(冗長、しつこい)」などとぶつぶつ言っている。

これは帰国子女にも言えることで、日常会話はできるが、文章に書くと滅茶苦茶なことが多い。一般の高校生になかなか分かってもらえない(分かってほしい)のだが、そもそも英語と日本語とは話の展開法が大きく異なる。英米では、相手を打ち負かし、ぐうの音も出なくさせるような論理的なライティング法を小学校の時分から徹底的に教え込まれる。

英語のエッセイでは、主張を先頭に置き、後にこれでもかとしつこいまでに根拠や具体例を列挙する。日本人のようにオチを最後にもってきたり、どんでん返しを狙ったりしない。常に主張→根拠→具体例であり、極めて論理的な内容にこだわる。

例えば「イチゴ好き?」と聞かれて、「もちろん!(Of course!)」などと言うと、「なぜ、もちろん?嫌いな人もいるはずだと思うんだけど?」と眉を顰められてしまう。また、「なんでカナダに行くの?」という問いに対して「英語を学びたいから」と言うのは、論理的に飛躍しすぎていて根拠としては認められない。英語を習得したければ、シンガポールやフィリピン、何だったら日本の英会話学校やラジオ英会話などでも良いわけであり、カナダである必要性はまったくないからだ。

このように論理が不鮮明では、煙に巻いた文章として評されるのが落ちで、「あとは読者のご想像にお任せします」や「ここから先は言わなくても汲み取ってくれるよね」的な文章も同様にアウトである。そういう言い回しの技法に慣れ親しんでいる日本人ほど、オチを最初にばらしてしまう英文エッセイを書くのはかなり抵抗があって辛いはずだ。

個人的には、日本のオチを最後まで隠すスタイル、いわゆる「オチの文化」が好きだ。漫才のオチ、落語のオチ、会話でも「で、オチは?」いうように話のオチにこだわる。小学1年生の時に書いた「先生あのね」という作文を覚えているだろうか?「先生あのね」という書き出しのルールさえ守れば、あとは何を書いても構わなかった。日本語のライティングとは、今も昔も「徒然なるままに」書いてもよしとされるものなのだろう。

2015年6月 5日 (金)

Manners

ミスタードーナツでコーヒーを傾けていると、隣にお母さんとその子ども2人(姉妹)が座った。そして、机にテキストを広げて勉強を始めた。どうやら幼児を対象とした塾に通っていて、これから授業があるにもかかわらず、まだ宿題が終わっていないらしい。姉妹はふざけてじゃれあっている一方で、母親の方はかなり焦っている。

幼児がおとなしく宿題に取り組むわけはなく、母親の怒号が否応なしに飛ぶ。母親が繰り返し訴えていることは2つで、「はみ出ないように線をなぞるのよ!」ということと、「早くやって!」ということである。「勉強しないと、お金持ちになれないよ!かわいい服買えないんだよ!ドーナツも食べられないんだから!」すごい言いようである。

そもそも何の課題かは知らないが、早くやらせようとするから、はみ出るんだろうと思わずにはいられなかったが、それに加えて、宿題を授業直前まで放っておいたことや、ドーナツを食べながら悠長にやっている場合なのか?など、なかなか突っ込みどころが満載のお母さんだった。フラストレーションが溜まっているのは分かるが、あなたが一番うるさい。

また、「線をなぞる」程度のことで(決してそれだけではないだろうが)、塾に通うのは馬鹿らしい。それくらいのこと、自分で教えればよい。線をなぞるだけのことで叱られては子供も不憫である。勉強もどきのことをする以前に、「じっと座る」「うろちょろしない」などの行儀作法をきちんと身につけるべきだろう。そして、本や絵本をいっぱい読むことである。

当塾の生徒は幼児ではない。流石に授業中に大声や奇声をあげたり、動き回る生徒はいない。しかし、きちんと靴を揃えて脱いだり、椅子を机の下にいれたりという当たり前のことができない生徒がいる。帰り際には机に消しゴムのかすを散乱して帰る生徒もいる。それを注意したら、はらって下に落とした生徒がいて唖然としたこともある。

また、授業中にやたらペンを回す生徒がいる。百歩譲って絶対に失敗せずに回せるのなら良いが、案の定、大きな音を立てて机に落とす。あの「びくっ」となる何とも言えぬ興ざめの空気は勘弁して欲しい。社会人になって接客や会議でペンをくるくる回していたら、私なら担当者を変えてくださいと言うだろう。年配者のように鉛筆の持ち方をとやかく言うつもりはない。しかしながら、他人に迷惑をかけることは、遠慮なく言わせてもらう。

ミスタードーナツの例の親子が、店を去っていった。机の上には食べた皿やグラスが放置してある。ナプキンが散乱し、食べ残したドーナツも散乱している。足の悪いお年寄りでさえ自分でトレイを返却しているのにである。「子供に行儀作法を・・・」と言ったが、まず親にその行儀が備わっていなかったわけである。

政治を知らない政治家のようで、英語の話せない英語教師のようで、そもそも世の中には指導する側の人間の方が残念な状況が往々にしてある。特に子供に対しての場合、無垢で抵抗力がない分、その罪はいっそう重い。「はたして、自分は大丈夫だろうか?」と省みずにはいられない、ほろ苦いコーヒー・ブレイクだった。

2015年5月27日 (水)

日本語にはない音

学校の授業で見られる光景なのだが、英語を英語らしく発音しようとすると笑いが起きる。クラスでは日本語訛りの生徒が大半だから、「アイ、ドント、アンダースタンド、イングリッシュ、アンド・・・」のように発音することが普通であって、英語らしく発音しようとする姿勢を「カッコ悪い」とか「恥ずかしい」と思う生徒がいる。これを私は個人的に、Peer Pressure English(仲間意識による圧力英語)と呼んでいる。

帰国子女の存在や国際科クラスの人気を背景に、その傾向は少なくなってきたが、まだ学校やクラスによっては、そのような空気がある。教師はそのような状況を黙認せずに、日本語訛りに執着する方がよっぽど「カッコ悪い」ということをきちんと説かなければならない。けれど、悲しいかな、教師の発音がその状況を助長するほど酷いことが往々にしてあり、その場合、説得力はゼロになる。

日本人のできない発音はLとRだけではない。かなり悲惨で、ガストの山盛りポテトくらいに山盛りである。矯正すべきものをアルファベットで挙げてみると、A、B、D、E、F、G、H、I、K、L、N、O、P、G、R、S、T、V、Zになる。

よく聞く話としては、rice(米)と発音しようとして、lice(シラミ)になってしまったり、hood(頭巾、フード)を発音しようとして、food(食物)になってしまったりする。確かに、文脈や常識から「私はシラミを食べる」訳がないので、ネイティブはきちんと「米」と理解してくれる。しかし、それは結果論や言い訳であって、はなから当然のように期待すべきものではない。

RとLの発音には、相当苦労させられた。Rは舌を後ろに引っ込めて、口蓋にあたらないように発音する。昔なら「ジャイアント馬場」のように言えばいいんだよと言えば、誰もがすぐに理解したものだった。当然ながら、今の生徒には通じない。世代差を痛感して虚しくなるだけである。 

やっかいなのはRよりもLの方で、こればかりは舌を動かす訓練がいる。舌を上の歯の裏にあてがって発音するのだが、単独で発音するのも厄介なのに、語の中に組み込まれると舌が攣りそうになる。また、綴りを先回りして思い浮かべてRだったかLだったかを確認してから発音しなければならない。RとLが混在する、reallyやlibraryなどは大変なわけだ。私自身、squirrel(リス)と、Earls(カナダにあるbar)の発音がいまだにできない。

実はLの発音を苦手とする人でも、無意識にできている時がある。舌の位置を確認しながら、ゆっくり「ラリルレロ」と言って、次に、早口で「ラリルレロ」と言ってみてほしい。舌の位置に若干の違いがあることに気づかないだろうか。ゆっくり言う際は舌が後ろに引っ込むが、早口の際は舌が前方に残るはずだ。それこそがLの発音である。ぜひ試してみて欲しい。

他にもいくつか厄介な発音を挙げてみよう。「ア」と「エ」の間の発音をするA。P/H/K/B/T/Dはそれぞれ腹式呼吸による破裂音であり、胸式呼吸の日本語に慣れている日本人は苦労する。また、It is のI の発音は日本語の「イ」とは違い、もっと喉の奥から引きずり出さねばならない。Nもpen「ペン」ではなく、もっと「ペン」という感じになる。gも使い分けが鬱陶しく、例えばsingerとhungerのgの発音は異なり、後者の方が鼻にかかる感じが強い。

ネイティブのように完璧な発音ができるようになる必要はない。世界の英語話者の80%は何かしら訛りがある。私だって日本人訛りがある。だからと言って開き直っていいわけではない。完璧でなくても構わないが、通じる英語が話せないとお話にならない。

私がそれを痛感したのは、留学当初の「マクドナルド事件」だった。「マクドナルドはどこですか?」と尋ねたいのに、肝心の「Mc Donald's マクドナルド」の部分がどうしても理解してもらえない。その日の夜、ホスト・ファミリーに正確な発音を聞いて、何百回とMc donald'sを唱えた。

当時、多少の日本語訛りはしょうがないと思っていたが、私の英語は日本語訛り以前の問題だったわけである。積年、発音を軽視してきたことが「マクドナルド」の一言に集約されて発露したのだろう。そもそも英語とは日本語にはない音であり、日本語で充当できるものではないのだ。あんな経験は二度と御免である。受験ではあまり必要とされない現実はあるが、どうか発音から目を背けないでほしい。

2015年5月13日 (水)

アタマを干す?

最近の和英辞典のできの良さには驚かされる。私が学生の頃は悲惨だったが、その当時に比べて本当に良くなった。

生徒に「和英辞典を持っている?」とは訊かない。「和英辞典を何冊持っている?」と訊くことはある。そして間髪入れずに、「どこにある?」「各部屋に一冊ずつ置いてる?」「トイレにもある?」と畳みかける。半分冗談だが、半分本気である。鉄は熱いうちに打てというように、疑問を持った時が学習の旬だと思っている。

必要以上に買う必要はないが、ここ1か月を振り返ってみて和英辞典をどれだけ使っただろうか。「枕に」とか「重しに」とかいう往年のギャグはいらないし、授業や課題で引かされたというのも含めない。好奇心に駆られて、自ら和英辞典を手に取ったことがどれだけあるかということである。

新しい言語の習得とは、本来「これは(英語で)、何て言うのだろう?」という疑問の連続であるはずである。話せるようになりたいと望むのなら、なおさらだろう。そのような疑問や好奇心から辞書を引いて調べた語彙は、単語集などで無機質に覚えるよりも何倍も鮮明に記憶に残る。

数日前、ある高校生のクラスで「シャーペンの芯」って何て言うの?と聞いてみたが、一人として答えられなかった。「人類学 anthropology」や「地中海 mediterranean」のような難しい語を尋ねたわけではない。おそらく皆が毎日使っているものである。それにもかかわらず出てこない。

こういう時にいつも思うのは、これまでに気になって調べようとは思わなかったのか、ということである。厳しいようだが、「英語を使いこなせるようになりたい」、「〇〇大学に受かりたい!」と言うわりには、意識も設定したハードルも低いように思われる。ちなみに「シャーペンの芯」は、a leadという。

現に良くできる生徒ほど、様々なことで疑問が浮かび質問が多くなる。彼らは、同じ意味の語(類義語)に出くわすと、「どう違うのか?」を徹底的に知ろうとする。一方で、意識の低い生徒は、取り敢えずイコールで結んで一括りに覚えてしまおうとする。例えば、「許す」という語を、allow=permit=forgiveとしたり、「さらに」という語をbesides=what is more=moreover のようにして覚えてしまう。これは本当に最悪で、百害あって一利なしである。

逆の立場、つまり英米人の立場になって考えてみたらよい。辞書に「乾かす」も「干す」も"dry"とあるから、「干す」=「乾かす」と覚えてしまう。そして実際の生活で、「雨に濡れたので頭を干しました」と言ったらどうだろうか?聞き流せるレベルのミスではないはずだ。

効率だけを求めて全ての語を=で結ぶと、このような事態に陥る。どういう場面で使用するのか、後ろにどのような形を伴うのか、どのような語と結びつきやすいのか、文語調なのか口語調なのか、といったことをきちんと理解することが大事である。それぞれの語の個性をしっかり掴まなければならない。

一応、allow=permit=forgiveが どのように違うのか挙げてみると、"allow"は事前の行為に対して、「やってもいいよ」と個人的に許可を出すこと、"permit"はallowと似ているが、個人的にではなく組織(学校や役所)が規則にのっとって許可を出すこと、一方で"forgive"は、「昨日のミスは許す」のように事後のことを「容赦する」ことである。

学生時代、辞書は「手垢がつくまでひけ!」や「ひき潰せ!(今思うとスゴイ表現)」と言われた。また、調べるのではなく「読め!」や調べた箇所は千切って「食え!」などと(冗談で)言われたこともある。ぜひ、辞書との付き合い方をもう一度考え直してみて欲しい。

2015年4月25日 (土)

Mikeは猫ではない

「リスニングができるようになるにはどうしたらいいですか?」と質問されることがある。その時に決まって言うのは、自分が発音できないものは聞き取れない、ということ。また、その為にはまず聞くことよりも口に出して「発音すこと」を心がけるように、ということである。

正しく発音するためには、(矛盾するかもしれないが)、今度は「注意深く聞くこと」が必要になる。授業で単語の読み合わせなどを行う際に、ぼけーっとただ繰り返して読むのではなく、意識して私の発音に意識を傾けること。スペリングなどの視覚情報に頼り過ぎず(30%)、聴覚に意識を集中すること(70%)。そしてその掴まえた音を真似ようとすること。そして発声する際には自分の声をしっかり聞いて、第三者的にチェックをする。

また授業外でも正しい発音が確認できるように、発音記号はある程度マスターすること。最近の電子辞書やオンライン辞書は音声機能があるので、利用できる環境にある人は活用すること。宝の持ち腐れにならないように。

ここで「正しく発音するように」と言っているのは、日本人の苦手なLとRの区別や、thの発音が正確にできるようになれと言っているのではない(もちろんいずれ身につけるべきものだと思うが)。問題なのは、ちょっと調べれ分かるような発音を面倒くさがって放置したり、自己流の読み方を充てて分かった気になってしまったりする基本レベルの発音のことである。

実際、LとRの発音ができなくても、他の発音がきちんとできていればほとんど通じるので心配しなくてよい。まずは当たり前にできる発音を当たり前にできるようになることだ。高校生にもなって、Mikeを「ミケ」と読んだり、Maryを「マリ」と読んでいるようでは悲惨である。というか、今まで気づかず放置されていたことが恐ろしい。ちなみにStephanを「ステファン」と読む人がいるが、主に米では「スティーブン」と呼ぶ。

毎回の単語試験で、ただ紙を眺めているだけになっていないだろうか?合格点を取れればそれで良いというその場しのぎになっていないだろうか?生徒それぞれに適した覚え方があり、それを尊重するつもりではいる。しかしながら、ベストだと思われる方法を、こちらからきちんと指示していかなければならないと思っている。さしあたって、次の2点は心がけて欲しい

1、口に出して読むこと。覚えやすいからと言って、ローマ字読みやカタカナ読みをするのは言語道断。少しでも迷ったら、電子辞書やオンラインの辞書で調べる。そもそも正しく発音できる単語など存在しないと思って、いちいち謙虚に調べること。

2、紙に書くこと。その際、作業の要素は一切省くこと。綺麗に書く必要もなければ、自分でノートにまとめなおす必要もない。ちらしの裏紙でも良いが、できれば大学ノートを用意して、そこに殴り書きでかまわないので隙間いっぱいに書くこと。ノートを一冊書きつぶしたら、次のノートにまた書いていく。年間で10冊くらいまでいけば大したものである。スペリングは完璧に覚えなくても良い。要は手を動かすこと。

英語のベストな習得法は、「こつこつじわじわ遠回り」である。

2015年4月 9日 (木)

辞書は使ってなんぼ

昨日ダ〇ソーに行ってぶらぶらしていると、英和辞典が売っていて驚いた。「辞書を舐めるなよ!」という気持ちよりも、「数百円で辞書とはすごい!」「とうとうやったな!」という感動をむしろ覚えた。ただ値札をみると1050円とあり、がっかりである。やはり100円の辞書は不可能なのだろうか?この際クオリティは気にしないので、ぜひ100円の辞書を作ってほしい。

好きな辞書は何ですか?と聞かれれば、Longmanシリーズの「Longman Exams 英英辞典」である。英和辞典は言うまでもなく、他の英英辞典に比べても洗練された例文が並んでいるからである。英和辞典では「OLEX英和辞典」のプラネット・ボードは面白いので、その箇所だけでも読む価値はある。定番の「ジーニアス」は、最近改訂第5版が発売された。監修者が変わったらしく、どう変わったのか非常に興味深い。

また、最近の和英辞典の進歩は目を見張るものがある。状況に応じた使い分けなど、解説が所狭しと丁寧に載せてある。また、オックスフォードの「Picture Dictionary」は、暇な時に眺めていると面白い。

勘違いする人が多いが、英和辞典は優れてはいるが、書かれている全てが正しく完璧ではない。例えば「ジーニアス」で"and"を調べてみる。すると5,6番目の項に、次のように書いてある。

 → しかし、一方で...」<butと交換可能>

学習者は一瞬「ううん?」となると思うが、つまり辞書が言いたいことはこうだ。日本語の性質上"and"を訳す際に、"but"のように訳せる場合がある。例えば↓のような感じだ。

 →He bought a new house and hasn't invite me yet.

 「彼は新築の家を買った、私を招待してくれない」

 ここまでは私も納得できるのだが、次の<butと交換可能>はさすがに無理である。上の例文の"and"を"but"に変えられるかというと、それはできない。"but"は前後の内容が論理的に逆接の関係になっている場合に限られるからだ。「新築を買ったこと」と「彼が私を招待しないこと」はそうではないので"but"は使えない。やはりここは"and#なのである。

上の文で"but"を使いたいのならば、私が昨年新築の家を買った時には、彼の一家を招待して食事を振る舞った。彼との長年の親交や日本の返礼文化を考慮すれば、ここは招待するのが筋であろう。それなのに彼は新築を買ったが、私を招待してくれない」という明らかな文脈が必要になる。以上のように、"and"は「~が」という"but"のような訳をあてることはできるが、辞書の言う「"but"と交換可能」ではない

(ここまで言いながら何なのだが)、辞書を作るというのは、何十年かけて行う途方もない作業である。知識だけではなく、人並外れた情熱と根気がいる。私のように揚げ足を取るのは簡単で、「じゃあお前が作ってみろ」とか「じゃあ二度と使うなよ」と言われれば、私は「生意気言ってすいませんでした」と土下座するしかない。

日本の辞書は世界各国の中でも群を抜いて優れている。ここまで、欲しい情報がきちんと引き出せる辞書は余所の国にはない。もし、辞書というものに文化的側面があるなら、日本の辞書文化は世界に誇れるものである。

せっかく使い勝手の良い優れた辞書に恵まれているのだから、生徒は手あかがつくぐらい調べること。高価な電子辞書を買ってもらったなら、なおさらである。上の"and"の例も然り、知っていると思い込んでいるものほど、きちんと辞書で調べることである。

2015年3月25日 (水)

親の心子知らず

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父親:「おまえが心から望むものなら何でも手に入れて欲しいとお父さんは思っているんだよ。」


息子:「アイスクリーム食べていい?」


父親:「いけません。」

2015年3月12日 (木)

東大の英語

一昨年前、東大志望の生徒がいて、彼の持参した東大模試の英作文の採点が、あまりに酷かったのを覚えている。私なら絶対に許さないような箇所をいくつも減点せずに見過ごしていた。英作文の採点に採点者の裁量が入るのは仕方のないことだが、それは裁量以前の問題であって、採点ミス以外の何物でもなかった。

その甘い採点を見た生徒は喜ぶだろうが、後々困ることになるのも彼らである。試験内容が東大に比類するものであっても、採点者のレベルが東大に全く及んでいない。模試としてあまりにお粗末である。

英作文とは、書き方(答え)は1つではなく無数にある。どのルートで行こうが大概ゴールに辿りつけるのだが、悲しいかな、生徒(日本人)の多くは、その道中にある数少ない地雷を見事なまでに踏んでいってしまう。まずはルート選びにこだわるより、地雷を踏まない感覚を養うことが必要だろう。

いつも言うように、取り組み始めは「こんなんありかな?試しに書いてみよう」で結構なので、恐れず恥ずかしがらず地雷を踏んでいけばよい。そのうち地雷の見分け方が身につくし、私がチェックした箇所を見て「こういう言い方があったか!」と感心してくれれば、英作の力は伸びていく。練習を重ねるうちに、京大、東大の英作もこなせるようになる。

  
問)下線部を英訳せよ。

子供は好奇心のかたまりだ。それが、多くの動物の場合、成熟すると幼い時ほどには好奇心を示さなくなるらしい。

  (京都大2001 第3問)


<英作文に不慣れな現役生の思考>

「子供」はchildやな!調子いいかも!「好奇心」?習った気がするけど忘れた。strange mindでいいや。「かたまり」って、そんな単語習ってないし。終わった。

   →Child has a strange mind. 来年頑張ろう・・・。


<そこそこ英作をこなした予備校生の思考>

「子供」はchildren。こういう総称(~というもの)の場合は複数形で書くんだよな。当たり前やん。「好奇心」はcuriosityに決まってるやん。舐めるなよ!「かたまり」はbe full of~(~でいっぱいだ)で処理したらいいな。完璧!

   →Children are full of curiosity. でどうだ!


<東大に合格する生徒の思考>

childrenの意味は、辞書を調べれば一目瞭然だが「人間の子供」である。問題文の「子供」は、人間以外の動物の子供も含めたものだから、children and young animalsとしなければならない。「好奇心のかたまり」はcuriosityを使わずとも、「あらゆるものに興味がある」と考えてbe interested in everythingとする方が自然な感じがする。よってこんな感じ。

   →Children and young animals are interested in everything.


日本語をそのまま英語に直訳しようとするのは危険なので避ける。小学校低学年に説明するような日本語を考えてみる。慣れてくると、逆に直訳ほど気持ち悪いものはないし、面倒くさいものはないと思うようになる。また、上のchildrenのように、分かっていると思い込んでいるものほど、ちゃんと辞書で調べること。

上述の東大模試を持ってきてくれた生徒T君は、センター試験でC判定までいったたものの、二次で思うような点数が取れず浪人となった。そのT君が、昨日の昼間、晴れ晴れとした顔で受験結果の報告に来てくれた。 東大の理Ⅰに受かったそうだ。大したものである。本当におめでとう。

2015年3月 6日 (金)

英作文の鬼になる

カナダ時代、自慢じゃないがessay(英作文)の評価は良かった。文法や語彙は十分使いこなせていたし、取り上げる題材や切り口が面白いともよく言われた。しかしながら、唯一苦手なことがあった。それは「論の運び方」である。

英語のessayでは、日本のように起承転結のような論の運び方や、結論を最後まで隠したり、どん伝返しをするような書き方を嫌う。一般に日本語の(日本人の)論理展開は渦巻き型と言われ、ぐるぐる回って何が言いたいのか最後まで分からないと揶揄される。一方英語の論理展開は直線型と言われ、論の配置や展開が極めて秩序立っている。

英語の場合、真っ先に結論を述べて、その後の段落で根拠や具体例を述べて補強していく。すっきりして読みやすいのは認めるが、私はこの方法が大嫌いだった。序盤で結論を述べてしまうのは、いきなり種明かしをしているようで、どうも好きになれなかったのである。

当時、無鉄砲だった私は、その論じ方を無視して、意図的に起承転結で文章を組んだり、日本人(私)好みの変則的な展開で書いたりした。その予測不可能な流れの方が美しいと思ったし、展開の仕様にこだわることで書いた人の個性が生まれ、また読者に与える印象が変わるのではないかと思ったからだ。

しかし、英語論文では、複雑な話の展開は必要なく、むしろそれらは論を曇らせるものとみなされる。毎日のようにessayの課題が出されると、次第に私の反骨精神は消え失せて、素直に英語論文の展開法で書くようになっていた。多忙のあまり無駄なものを削ぎ取っていくと、自然とそうなっていたのである。

幸か不幸か、日本の大学入試の英作文では「論の運び方」のようなものは問われない。問われるものは、「英作文」という名の「翻訳作業」である。最近になって自由英作を出題する大学が増えたが、そこまで論の運び方にはうるさくないようだ。

残念ながら、当塾でも英語論文の展開法までは指導できない。生徒の英語力がそこまで追いついていない問題と、Speakingと同様に受験に必要のないものとして後回しになるからだ。もちろん受験で頻出の英訳問題や自由英作は力を入れて行う。

英作文用の型(文法・語法や表現)はある程度覚えなければならない。Speakingもそうなのだが、英作文と言っても全くの無から書くわけではない。よく使う型を蓄えておいて、臨機応変に引き出して使う。私自身、英語を話す際は、使いたい表現をいくつか引っ張り出して都合よく接合したり、一部を変更したりしているだけで済ますことが多い。

日本語でも実際はそうで、誰しも口癖やよく使うフレーズ、決まった型のようなものを持っていて、知らず知らずに使っている。喋り慣れないことを言おうとすると噛んだり詰まったりするのはそのためだ。ゼロから文章を作ることは意外と少ないのである。

今年はこれまで以上に英作文に力を入れたい。基本は①「型を覚えること」と、②「どんどん書くこと」の2本柱である。②の方では、解答例を示すだけではなく、回収して1人1人の解答にチェックを入れる。頼むから、動詞に三単現の"s"が抜けていたり、1つの文に動詞が2個入っていたりするミスはやめて欲しい。

英作文もSpeakingと同様に発信型の英語であり、両者の違いは文を組み立てるプロセスに充てられる時間の差である。極力短くして口から発すれば、それはSpeakingになるわけだ。将来英語が話せるようになりたいのなら、今のうちに英作文の訓練をしっかり積んでもらいたい。

2015年3月 2日 (月)

舐めたらあかん

国立大の合格発表を除いて、受験シーズンも終わりに近づいた。受験生は全員、MARCH以上には行けるみたいなので少しほっとしている。それでも第一志望や行きたい大学ではない生徒がいることを考えると、自分の指導力不足を痛感する。まだまだである。

大学入試で思うような結果が得られない人の多くは、「取りかかりが遅い」「やり方が悪い」「自分に甘い」のいずれかだ。全てに当てはまる人もいるかもしれない。一方で、周りの雰囲気やペースに流されず、しっかり受験に向けて準備できた人は合格できる。中には「そんなことは分かっている」と腹を立てる人がいるのは分かっているのだが、「分かっていてもできない」というのが世の常らしい、ということも分かっている。

センター試験後に、「今年は例年より難しかった」、あるいは「今年から新傾向だったから」という感想を毎年のように聞く。同情したい気持ちもなくはないが、所詮それは悲しい言い訳でしかない。大学入試で求められる学力は想像する以上に高いということ、それに対処するためにはかなりの「手間と時間」をかけなければならないということを認識しておかなければならない。

大学受験で才能が必要なのは東大の医学部くらいであって、それ以外は「手間と時間」さえかければおよそ努力で受かるのである。オリンピックで金メダルを取れといっているのではない。東大京大合わせて毎年約6000人が合格する。これに早慶や他の国立大など難関大の合格者を含めると、この数字は何倍にも跳ね上がる。決して狭き門でないことが分かるはずだ。

本来英語という教科は、言語の習得、体得」であり、その前提に立てば一朝一夕でどうにかなるものではないし、参考書や予備校が短期完成をうたうのは言語同断だということがわかるはずである。センター英語も例外ではない。学校で習う程度の基礎しか出ないからと放置してはいけない。センター試験を「舐めたらあかん」である。センター試験で失敗し、二次試験に臨めなかった生徒がいかに多いことか。

センター試験とは、「世直しテスト」だと思っている。毎年良質な問題を提供し、進むべき英語学習の正道を示してくれる。「新傾向」が毎年のように出題されるのも、正しく英語を評価する術を常に模索しているからだ。2006年にリスニング試験が始まり、2007年には文強勢の問題が加えられた。また、難単語や些末な文法を問う問題は減少する一方で、簡単な単語でありながらもその使用法を訊く問題や会話表現、イディオムの出題が増えている。

このように、センター試験は実用英語と受験英語(学校英語)との瀬戸際に立ち、「英語は言語として運用できなければならない」ということを訴えて続けている。実用英語の急進派なら、センター試験に面接と集団討論を加えろ!とか、公立高校の教師を全員TESOL資格のあるネイティブにしろ!などと言うかもしれない。センター英語は、そこまで急進的な存在ではないので、その声は決して大きくはない。なので、残念ながら、気付かぬ者にはそのメッセージは届かないのである。

センター試験が実用的な英語を模索して、新傾向として出題することは、日本の英語教育にとっては歓迎されるべきことだが、当事者である受験生にとっては迷惑以外のなにものでもない。なぜなら、センター試験で問われる、もしくは問いたいと思っている「運用力」としての英語は、教育現場である学校では十分に教えないからだ。もはや実用英語を学校に期待しても仕方がないとさえ思ってしまうのだが、その軌道修正のヒントは少なからず「センター試験」にあるので各自で参考にしてほしい。

センター試験は「舐めたらあかん」のである。しかしながら、舐めなければ、どんな市販の教材よりも良い教材として利用することができる。それなのに、センター試験の過去問を直前に2,3年解いてだけで満足する者、あるいは解いても点数だけ確認して活用しない者が少なからずいるのは、センター試験愛好家としては悲しい限りである。

2015年2月13日 (金)

霧深くとも

英検の合否が発表されたらしい。高2生が2人、準1級の1次に受かった。最低MARCHには受かりたいという生徒にとって、英検2級を取得することは当たり前だが、準1級を取得するとなると少し趣が異なる。語彙の難度が急激に上がり、読解の文量も増え、英作文の課題も加わる。また、合格最低点も上がり、これまでのように運や勘に頼るだけでは決して受からない。

2人とも帰国子女でもないのだが、よく頑張ったと思う。文科省の調査によると、準一級以上の力を有している英語教師は、公立高校で約半分、公立中で3割弱というありさまなのだそうだ。合格した2人をはじめ塾生は、教育現場の体たらくぶりは無視して、英検1級、国連英検、TOEIC、通訳検定などに挑戦し、どんどん躍進していってほしい。そして、これまでに蓄えた知識や技術を実践するために必ず「留学」をすること。それでこそ英語教育は実を結び完成する。

英検の取得ペースは、中1で3級、中2で準2級、中3で2級、高2で準1級のペースが好ましい。準1級を取得しておくと、推薦などを含め入試で役立ったり、就職でも履歴書に書ける有効な資格となるだろう。英検を受けることは強制でも義務でも全くないが、ぜひ他の塾生も準1級まで挑戦してほしい。ただし、英検はマイルストーン(一里塚)のようなものであって最終ゴールではない。

また、早慶や上智を受験するつもりなら、準1級よりも少し上のレベルの読解力が必要になる。英検の単調な出題形式に比べ、私立上位校の出題形式は多種多様で、読解の題材も英検に比べて面白味がなく無駄にややこしい。言ってしまえば、読解の難易度にさほどの差異はないのだが、英検は素直で受験者に優しく読み物としてのセンスがあり、入試は捻くれていて受験者に非情で読み物としてのセンスがない。

新年度の高3生(現高2生)は、去年よりも早い段階で募集を締め切ることになるだろう。単純に教室の席数が少ないことが主な理由だが、正直に言ってしまえば、一夜漬けならぬ一年漬けとしか思えない英語指導は好きではないからである。将来的には高3生は受け入れなくなるだろう。

常々、「多摩の者でも都心部の連中に負けるものか!」という言葉を口にするのだが、この言葉は故竹岡信夫先生のお言葉、「霧の深い丹波の者でも都会のものに負けるものか!」に基づいている。冗長気味で時代錯誤の感があり正直ださいのだが(すみません)、それでも私は高校生の時分この言葉が大好きだった。今それは、塾生や多摩の高校生に訴えかけたい言葉でもあるし、教師としての私自身にも必要な言葉である。

多摩センターで唯一のとか、この界隈で一番みたいな称号はださいのでいらないが(ひがみっぽいが)、英語の知識、指導力に関しては、都心の鉄緑会や平岡塾などの名門塾に負けるつもりはない。特に、カナダに住んで得た様々な知識や経験、ネイティブとの繋がり、辞書を出版するような英語学者の支えもあるので、英語の知識と使用に関しては一歩先を行っているとさえ思う。

それでも、彼ら名門塾のように、通塾生を特定の進学高校に限るようなことはしたくない。竹岡先生が学力の乏しい地元の亀岡高校生(私を含む)を受け入れていたように、分け隔てなくどこの高校生にも頑張ってほしいのである。あれからずいぶん時が経ち、私のいる場所も世の中も変わったが、同じように「負けるものか!」という強い意志を持った生徒が集ってくれると信じている。

2015年2月10日 (火)

あちこち

前のブログで、「実はこのような問題はあちこちにある」と書こうと思ったら、以前、竹岡先生が「"here and there"は『あちこち』ではない」と仰っていたのを思いだした。

真面目に勉強していれば、"here and there"の意味は「あちこち」で、日本語の語順のように"there and here"としてはいけない、などと習う。英和辞典にも数ある参考書にも残念ながらそのように書いてある。しかしながら、本来の意味は「あちこち」ではない。各英英辞典では、次のように定義している。

  ●「コウビルド英英辞典」の定義: it happens in several different places

  ●「オックスフォード英英辞典」の定義: in various places

この定義を理解して、「あちこち」のままでいいのでは、と思ったらアウトである。

まず「コウビルド辞典」の定義にある"several"という単語は、漠然と「いくらかの」と覚えていたのでは駄目だし、"some"と似たような意味だと理解していても駄目である。

"some"は基本「割合」に基づく数の表現である。つまり母数によって具体的な数は変動する。例えば10人中の"some"は6人くらい、10億人中の"some"は6億人くらいである。一方、"several"は具体的な数がある程度固定されいる。どの英英辞典にも「3以上で、そう多くはない数」と定義されている。日常で使う場合は、だいたい「5~7」を指すことが多い

次に「オックスフォード英英辞典」の方だが、その定義にある"various"という語が要注意で、「様々な」という意味で理解している人が多い。しかしながら、"various"は日本語の「様々な」のように多種には及ばない。実際は、多くて「10種類」程度のものなので、「幾種かの」くらいの訳がちょうど良い。「様々な」にふさわしいのは、"a variety of~"という別の表現である。

ということで、どちらの英英辞典にも"here and there"を「あちこち」と訳せるほどの数量は定義されていない。「思った以上に少ない」ニュアンスの表現だと分かってもらえたかと思う。最後に例文を引用してみよう。

    The sky is clear and blue, and a few clouds scattered here and there.

    「空は澄み渡る青空だった。いくつかの雲が〇〇〇と浮かんでいた」

もし仮に〇〇〇に「あちこち」と入れるなら、雲が多すぎて「空は澄み渡る青空」ではないはずだ。なので"here and there"の意味は「あちこち」ではない。おそらく適訳は「ちらほら」なのである。

2015年2月 9日 (月)

本当に”popular”なのか

ある雑誌の記事に、以下のような設問が挙げられ、それに伴う英語教師の嘆きが書かれていた。


 問) 間違い箇所に下線を引き、訂正せよ。

        Eating flowers are popular in Japan.


この英文の主語は"flowers"ではなく、"Eating flowers"(花を食べること)だから、"are"→"is"というのが正解である。しかしながら、
生徒の中に"flowers"に線を引いて"rice"と訂正した者がいたらしい。それを見るやいなや、その教師は「英語以外の『設問を解釈する力』から教えなければならないのか」と途方に暮れたと言うのだ。

この教師が溜息をつきたくなる気持ちも分からなくはないし、記事そのものも読み物としては非常に面白いのだが、この一連の話に潜む病巣は、生徒の問題咀嚼力にあるのではない。仮に入塾試験で同じ問題を出題して、ある生徒が"rice"と書いたら、私なら〇をする。もちろん「けど一般的にはね、areをisに・・・」みたいなことは言うだろうが。

生徒の機転は褒めるべきもので、そのように解釈される設問の方が問題なのである。出題者もずさんであれば、それに盲従する指導者もずさんであるとしか言いようがない。厳重にチェックしているセンター試験でも出題ミスが毎年のようにあるのだから、市販のテキストや大学入試に出題ミスがあってもおかしくないし、このようにグレーな(ずさんな)問題が並ぶのも仕方のないことなのかもしれない。しかし英語教師は、自分のフィルターを通して、生徒に解かせてよい問題なのかどうか逐一チェックしなければならない。

実は、この設問にはもう一つ大きな問題点が潜んでいて、それは英文中の"popular"である。

たとえば「今月は風邪が流行っている」という文を、"A cold is popular this month."と書いてはダメである。「流行る」と見れば、何でもかんでも"popular"にすれば良いというものではない(と生徒にいつも言っている)。"popular"は「人気がある、もしくは(人気を伴った上で)流行っている」という意味である。風邪をひくことに人気があって、皆がこぞってひきたいと思っているのならそれでよいが、一般的には"common"か"going around"を使う。

つまり、花を食べることが、とても"popular"(人気がある)とは思われない。せめて"common"(周知の、広まっている)を使う方が適切だろう。そう考えると、機転の利いた生徒の"rice"という回答も正解ではなくなる。米を食べることが今"popular"(人気がある)とは思われない。昔も今も主食以外の何ものでもない。なので、やはり"rice"と書いたところで✕である。(動詞が"is" なら、△くらいあげてもいい。) 

正解を考えるのは、かなり難しくなる。"Eating floweres"を消して、”AKB48 and Arashi”と書くのなら〇だろう。

2015年1月31日 (土)

新年度の草案

辺りは試験前の大学生と女子会のご婦人でいっぱいだ。「騒ぐなら他所へ行け!」と言いたいのだが、いつものごとくここはミスタードーナツである。清貧な雰囲気の図書館ではない。そんなことを言ったら、私の方が摘まみ出されるだろう・・・。誰か私語厳禁のミスドか飲食自由の図書館を作ってくれないだろうか。

新年度は、3月1日にスタートする。時間割を組んでいるが、目をひん剥いてカレンダーを睨んでも、無い知恵を絞ろうとも一週間は7日しかないのである。せめてあと一日欲しかった。

こういう状況にあるので、申し訳ないが、個人の都合を考慮することができなくなっている。「日曜以外は毎日部活があるから無理です」と言われると、「1日くらい早退せんかい!」と喉まで出かかるのだが、大人げないので何とか踏ん張っている。時間割等決まればホームページでお知らせするので、もう少し待ってほしい。

センター試験直後に、さっそく浪人予定の方から入塾についての問い合わせをいただいた。浪人することは大学で留年するよりも百万倍ましなので、ぜひ胸を張って頑張ってほしい。バイトに明け暮れ、酔っぱらって(南大沢)駅前で騒ぎ、授業に出ては突っ伏して寝てるだけの大学生にはならないように。

浪人クラスは要望があって時間の都合が合えば開講するかもしれない。もし開講しない場合は、席があれば現役生のクラスに参加してもらっても構わない。現在も高2生が高3生に混じって授業を受けているように、年齢や学年だけでばっさり線引きするつもりはない。浪人生の方も見栄や体裁を気にしている場合ではないはずだ。

カナダは年功序列主義ではなく完全実力主義の世界だった。というか、見知らぬ土地で生きていくのに年齢など気にしている場合ではなかったし、20代半ばという遅い時期での決断だったので、どんなことをしても一刻も早く英語を習得する覚悟があった。年下の仲間と学び、彼らに教えを乞うことなど屁でもなかった。

新年度のクラスに関しては、新小6と、少しレベルを落とした新中1(4級レベル)を開講するかどうか思案している。

(2つ目の)中1クラスを考えているのは、現在通ってくれている小6生がかなり先の内容を行っていて、たとえ英検4級を保持していても、ついてくるのはおそらく難しいからだ。その割に問い合わせが多く、授業を体験していただくのだが、ショックを受けて帰られることがしばしばだった。条件に4級としているのだから、それ相応な内容で、もう少し門戸を開いたクラスにしたいという思いがある。ちなみに現小6クラスは、中2後半の「比較」に取り組んでいる。もちろん、このクラスでついてこれるのなら大歓迎なのだが。

頭の中の混乱をほどきながら書いているので、ここで書いたことは絶対でもなければ決定事項でもないのであしからず。今夜も底冷えで、溶けかけた雪が月の光を照らすほどに凍てついている。受験生のためにも滑らぬよう足元に気をつけて帰るとしよう。

2015年1月28日 (水)

中高一貫教育について

 通ってくれている中学生には、中高一貫校に通う生徒が多い。6年と言う長期的な見通しで、腰を据えて指導を行えるのはよいことである。また高校受験に時間を割くのは時間の無駄だからという考え方もある。学校側の見通しに誤りがなければ、6年間一貫した指導を行うことによる恩恵は確かにあるのだろう。

しかし、中高一貫校に傾倒する風潮には少し危険な香りが漂う。果たして世間でうたわれている魅力通り、あるいは各校がうたう宣伝文句の通り、うまく機能している学校がどれほどあるだろうか。どんな良薬にも効能に伴う副作用があるように、中高一貫校の魅力にも、副作用が潜んではいる可能性は完全には拭えない。

魅力の1つに挙げられる「高校受験に時間を割かない」ことは、本当に良いことなのだろうか。高校受験やそれに伴う受験勉強とは、学力的にも精神的にも成長を促す絶好の機会になる。紆余曲折あるだろうが、受験勉強を通して、中学3年間の内容を総復習し、学力を現状のピークにまで上げることができる。このように、高校受験とは学力の成長期としての役割を果たしてくれる。

また、受験期には、精神的甘さや精神的未熟さも露わになる。そして自分というものを俯瞰的に、内省的に見つめ直すことになる。忍耐を強いられ、挫折を味わい、焦燥に駆られ、度重なるストレスやプレッシャーに鬱屈することもある。このように辛く苦しい時期なのだが、人間的に成長するためには、敢えて人生のどこかで経験しておくべき試練なのだと思う。

中学3年間、どれだけ臭いものに蓋をしてきても、受験が迫れば無理やり蓋を開けられて、現実を突きつけられる。その時は悲劇かもしれないが、その後に控える大学入試や長い人生を考えれば、まだ見直しや修正がきくだけよっぽどましなのである。

中高一貫校はどうか。たとえ高校受験がなくても、それに代わる何かがあればよいのだが、上述したような気付きが得られないまま高校に進学できてしまうところが少なくない。大学受験の年になってようやく気付いても、過去6年間の内に積み上げられた負債は、そう易々と返せるものではない。

中高一貫校がダメだと言うのでも、従来の中高分離教育の方が優れていると言うのでもない。高校受験のような学力の成長期が必要不可欠だと感じているのである。当塾だけではなく、世の中を見渡しても、その成長期を逃したんだろうなという中高一貫校の生徒が意外に多いことに驚かされる。

中高一貫校に通うのならば、その魅力を思う存分に享受したらいい。しかし享受して満足するだけではなく、より抽象度の高い視点から現状を冷静に見つめる目を持ち続けなければならない。そして、どこかで弱点や問題点に気付くことができたならば、手遅れにならないうちに対処すればよいのである。

人生における中高6年間というのは、その長さだけではなく、質、密度的にみても非常に貴重であることは言うまでもない。それ故に大切に扱わなければならないのだが、「学校に任せておけば大丈夫」みたいな安堵感に浸りきってしまうのは、責任放棄のようで感心できるものではない。その通りに従うだけでよいマニュアルや、勝手に大学まで運んでくれるレールなどはないのである。

2015年1月17日 (土)

トンカツのご利益

塾を開校して3回目のセンター試験である。新聞やネットの解答速報は不安を掻きたてられるだけなので、明日の試験が終わるまで見ないことだ。自分の解らなかったところは、皆解らないという気持ちでいればよい。

高1、高2生も、東進や河合塾が主催する「センターを体験しよう」みたいな試験を受けている。腰の重い生徒にとってのきっかけというか、起爆剤になってくれればと思う。高2で160点(8割)、高1で140点(7割)取れていればよし。そうでなければ、ショックを受けて奮起すること。受けた者は、結果が返却されれば持ってきてほしい。

文系受験者は、英語と社会(世界史・日本史が望ましい)を必ず武器にしなければならない。理系受験者は、英語を含めて得意科目を3つ設ける。そして残り4教科を弱点にならない程度(7~8割)にできるかどうかが鍵になる。

そろそろ、高2生は丸善などの大きな本屋に足を運んでみてもよいかもしれない。参考書や問題集を買う時には、AMAZONなどの書評を参考に、よく検討して買うこと。また、自分への投資なのだから、購入する際にお金をケチらないこと。

明日、試験2日目は理系科目。去年、東大を受験したT君はどうだろうか。現役生のSさん共々、明日の物理と化学で高得点、いや少なくとも足を引っ張らない点数が取れますように。

私が食べることで、受験生にご利益(?)があるかどうか分からないが、今日の昼食は大戸屋のトンカツだった。先生が食べてどうするんですか!と突っ込まれるだろうなと思いながらも、そこは「万事を尽くして天命を待つ」である。カラッと揚がった四元豚に手を合わせて、美味しくいただいた

2015年1月12日 (月)

教師の質

日曜の23時、南大沢のミスド。大学生だろうか、隣の席から「塾長に1:1で高校生を教えてくれないかと言われたけど、大学入ってから勉強してないからやばい、どうしよう?」「でも時給が上がるならいいじゃん、やりなよ!」というやり取りが聞こえてきた。口出しできるはずもなく、せめて、その教科が英語でないことを祈るばかりである。

個別指導塾は個別指導であることが売りだが、正直、個別であること以外に何の魅力もない。しかも、その唯一の魅力さえも、実際は1:2や1:3だったりと胡散臭いものが多い。もっと言ってしまえば、上述したような大学生が教鞭をとるというあり得ないことが普通にまかり通っている。免許を持たない医者に診てもらうようなことは、私ならお断りである。

個別指導塾では、全体の授業コマ数が集団授業の塾よりはるかに多い。同時間に、同教室で、敷居を隔てていくつもの授業が行われる。そうなると、当然ながら講師の数を増やさねばならなくなる。しかしながら、売上は従来の集団塾とそこまで変わらないだろうから、講師一人当たりの賃金は安くなってしまう。

このことは何を物語るか。東大、早慶などの高学歴、あるいは本当に能力のある人物は、塾などで働かなくなる。もっと条件の良いバイトがいくつでも探せるからである。また、教えることが好き、子どもが好き、責任をもって志望校に受からせたい、という動機で働く大学生がどれ程いるだろうか?彼らの動機の大半は小遣い稼ぎである。

個別指導塾の乱立を背景に、このような教師の質やモラルの低下は確実にある。卒塾生や通塾している大学生に、塾講師のバイトとかしないの?と聞いてみたことがあったが、「この程度の英語力で教えるのは恐ろしい」「まずは自分がもっとTOEICやTOEFLで高い点数を採りたい」と言う。極めて賢明な判断だが、当塾に通ったので、もうちょっと自信を持ってもよい。と思うのは、いらぬ親心だろうか。

一般的に、英文学部や国際学部の真面目な学生を除いては、英語は教養科目にとどまり、他の私的な必要性にでも迫られない限り、本腰を入れて英語を勉強することはなくなる。大学生の英語力は平行線を辿るどころか、見事なほどに落ちていく。多くの大学生や社会人が薄々感じていることは、高3の受験前が実は英語力のピークだったのではないか?ということである。

高校卒業前、竹岡塾の最後の授業だったと思う。そこで、竹岡先生が2つのことを仰ったのを、今でもはっきり覚えている。

1つは、大学生になって塾講師のバイトをするのは結構なことだ。その際、竹岡塾で習ったこと、使用したプリント、全ての経験を存分に活かしたらいい。しかし、子どもを教育するということは、すごく社会的責任の大きいことである。バイトとはいえ、その気持ちを忘れてはいけない。自分の指導では時給100円にも満たないという謙虚な気持ちでやるように。

もう1つは、大学生になって一人暮らしをすると、どうしても外食が増える。体調管理の上で、くれぐれも中華の食べ過ぎには気をつけるように、だった。

前者の言葉は、大学在学中だけでなく、今でも私の指導理念の柱である。しかし、もう一方の中華の約束は守ることができなかったし、今も守れてはいない。BMIの数値は上がる一方である。

2015年1月 6日 (火)

くる年

2015年、明けましておめでとうございます。

今月は早速、センター試験と英検が控えている。いろいろと勝負の月である。

●高3生は、新しいことを身につけていくよりも、試験日から逆算してどれだけ復習や反復ができるかを考えねばならない。あとは要領よく補強していくことだ。暗記ものに比重を移していくこと。自信をつけるためにも、量は人一倍こなす。試験日ぎりぎりまでそのペースを乱さない。センター試験は駆け抜ける感じで臨むこと。決して立ち止まらない。

●高2生は、これから1年、必死になって頑張ってほしい。10年頑張れと言っているのではなく、たかだかあと1年。しかも、誰のためでもない、自分のためである。頑張る理由はそれだけで十分。この1年でいろいろ悩み苦しむだろう。葛藤、挫折、我慢、緊張、絶望、焦燥感。このような精神的苦痛を経験するのは、受験生なら自然なことであり、人間的に成長する為の通過儀礼だと思うこと。ぜひ、逃げずに乗り越えて欲しい。

嫌いな教科や苦手な単元ほど、優先的に取り組むこと。暗記ものは、塾の単語テストのように習慣に落とし込むことが大事。突発的に「今日は8時間、数学やった!」みたいな武勇伝は要らない。それより、毎日の30分を心がけること。

●高1生は、まだ自分の足で立てていない(高2生にも若干いるが)。自分の快適な空間にばかり身を置いて、嫌なことや不快なことは、教師や親などから強いられて、渋々やっているに過ぎない。このようなルーティンから、そろそろ脱却しなければならない。中学の栄光を引きずり、中学の貯金でまだやりくりしている生徒と、高校受験での挫折から這い上がって、大学入試に向け新たに貯金を積み重ねている生徒がいる。このモチベーションの差は大きい。過去の栄光や現状の安寧にしがみつくのはやめて、未来に向けて歩み出さなければならない。

●中2生は、「できないに決まっている」や「自分なんか無理」みたいな固定観念を捨てること。自分のpotential(潜在的な力)に蓋をしないこと。私に言わせれば、伸びしろだらけである。また、学校の雰囲気や部活の忙しさに流されないでほしい。当塾に来るからには、しっかり課題をこなすこと、積極的に授業に参加することが絶対条件である。今年は世間的には高校受験生なので、そのように厳しく指導したい。

●中1生は、やる気は十分。単語テストも満点近い。しかし、模試や英検では点数は採れるが、学校の定期テストではそこまで点数が伸びない。正しく実力を測るという点では、明らかに模試の結果の方が重要になる。学校の試験の多くは独自の勘違い路線を行き、模試・英検と同じベクトルを向いていないからである。高校生なら定期試験は「赤点さえ取らなければ良い」と極端なことを言うが、そこは中学生なので、もう少し学校の内容を意識した授業を挟んでいこうと思う。これから中3の授業内容に入る。一応用心して、中1後半~中2の内容を並行して行う。関係詞まで終わった段階で、本科的に読解に取り組む予定。

●小6生は、授業態度は良いし、呑み込みも早い。しかし、毎回の単語テストがもう一息か。30点満点で毎回平均15点くらいでは少し物足りない。1つ先輩の中1生は皆(3人とも)満点近いので、せめて25点(8割)は取ってほしい。私の要望が高すぎるかもしれないが、そろそろ中1になる意識を持って、1つ2つギアを上げてほしい。中1になる前に、できるだけ正確な形で貯金をしておきたいところ。「正確な」がポイントである。

●私は、まだまだ勉強が足りない。娯楽としてしか英語の本や参考書を読めていないので、知識を得たり理解はできても実践で使えるところまで昇華できていない。また、勉強のためにミスドに行っているのか、ミスドのために勉強をしているのか、分からなくなってしまっている。他には、リスニングとスピーキングのために毎日1、2時間はシャドーイングなどに時間を割きたい。現状に満足しない。努力を惜しまない。You tubeを見過ぎない。お菓子を食べ過ぎない(でもミスドはOK)。

2014年12月31日 (水)

ゆく年

現在、京都に帰省している。

炬燵に入り、紅白歌合戦を見ている。知らない曲、知らない歌手ばかりだが、それでもやはり大晦日に紅白は欠かせない。日頃テレビを見ないが、それでも十分楽しめるコンテンツになっていて感心した。

受験生をはじめ塾生は皆、頑張って勉強しているだろうか?部屋に山積みにされたプリントは、年末にちゃんと整理しただろうか?ゲームばっかり、テレビばっかりの生活を送っていないだろうか?昼近くまで寝ていないだろうか?食べ過ぎてないだろうか?

私はというと、受験生には申し訳ないが、ゆったりとした時間を過ごしている。しっかり充電して東京に戻るつもりなので、ご容赦願いたい。

ニシンそばができたらしい。京都の年越しそばは、ほろほろになるまで甘辛く炊かれたニシンが必須である。というか、そんなことを説明している場合ではない。年が明けてしまう前に、麺が伸びてしまう前に、美味しくいただかなければ。

明日は冷え込むそうなので、くれぐれも体調を崩さぬよう。

それでは、良いお年を・・・。

2014年12月30日 (火)

言葉は移ろう

今年最後の授業で、何か特別なことを言わなければと思いながら、頭がモヤモヤしていた。「休み中も勉強してね」とか「風邪ひかないようにね」などではなく、もっと時節の挨拶のような何かなのだが。昨日、保護者の方に「良いお年を」と言われて、それだと気付いた。

「良いお年を」という言葉が子供の頃は謎だった。「良い年」とは残り僅かな今年のことなのか、それともやがて来る新年を指しているのか。また、「良いお年を」の後に続く言葉は何なのか、あまりにもバッサリ省略され過ぎていて推測のしようもなかった。

英語では、このような省略をしない。

と、話を持っていくのが理想的だが、残念ながら英語でも"Good day!"や"Happy new year!"のように、このような省略はする。なので悔しいが、turn the tables(話のどんでん返し)はできない。また、英語は日本語とは違って主語を省略しないと言うが、主語もどんどん省略する。英語も負けず劣らず、省略の言語なのである。

日本語でもそうだが、口語文法が徐々に市民権を得て旧来の正式文法を浸食していく。そして流行り廃りの波に消えず残ったものは、正式文法の仲間入りを許される。その媒介をするのは、当時の若者である。例えば、「気持ち悪い」→「きもい」→「きもっ」という言葉の変遷、昔から言われている「ら抜き言葉」も若者の仕業である。どの時代も若者が言葉を変えて、年寄りが「最近の若者は言葉がなっとらん」と小言を言う。それが繰り返されたものが、言語の歴史である。勘違いする人が多いが、言葉は退化などしない。絶えず変化するだけである。

英語においても同じことが言える。口語文法から正式文法になったものを挙げてみる。

  ✕He is taller than I. → 〇He is taller than me.

勘違いしている人は、前者の方が正式であると考えている。あるいは頻度は低くなったが、まだ使用は許されると思っている。しかしながら、前者の"than I" はもはや誤用であり✕とされる。どうしても主語どうしの比較だから"than"の後ろに "I"を置きたいというのであれば、"than I am"のようにしなければならない。

従来、文法的に"than I"が正しかった。そもそも"than"は接続詞なので、"me"などの目的格がいきなり来るのは間違いである。しかしながら、口語で"than me"がどんどん普及したので、この場合に限り"than"を前置詞と解釈するようになった。このように"than me"は後付けされた文法なのだが、今では大方の研究者が支持している正当な文法である。

それではなぜ、旧来の文法の制約を破ってまで"than me"が普及していったのか。

1つには主語として文頭にくることの多い"I"が、文末に来ることに不快感を覚えたからだと考える。もう一つは、"with me"や"on me"のような表現に引っぱられて、"than me"としてしまった。この感覚が発展していき、今では次のような表現もよく聞かれる。

  →You and me have to visit Tom's office.

どこが気持ち悪いかお分かりだろうか。学校で文法を習ってきた者にしてみれば、主語の"You and me"はすこぶる気持ち悪い。どう考えても"You and I"が正しいに決まっている。しかしながら、 カナダで課題のエッセイをホームステイ先の家族に見てもらった時、わざわざ"You and I" を"You and me"に直されたことがある。耳を疑って何度も聞き返すが、後者の方が自然だと言う。

埒が空かず何人かの教師に持って行ってみると、"You and I"が正しいと言われ胸を撫で下ろしはしたが、口を揃えて”You and me”でも構わないと言っていた。理由はidiomの"between you and me(ここだけの話ですが)"のように、多くのネイティブが"you and me"を一つの塊としてみなす傾向にある。そして先ほどの"than me"と同じように、"and me"に一定の響きの良さ(あるいは"and I"の響きの不快さ)を感じることが原因だと思われる。

名前は忘れたが著名な英語学者が、日本の英語は20年遅れていると言っていた。竹岡先生は日本の英文法は明治時代から変わっていないと仰っていた。それを考慮すると、上述したことも、あと10年かそれ以上しなければ教科書や参考書には載らないのだろう。そう思うと、自分だけが知っているといった優越感に浸ることができるのだが、同時に淋しさのようなものを感じてしまうのはなぜだろうか。

2014年12月18日 (木)

英語の副作用?

カナダから戻って10年。英語をそれなりに身につけて帰ってきたつもりだが、その副作用のようなものに苛まれている。

症状は違うが、私のように英語による副作用に嘆く人を見かけたことがある。

カナダから関空へのフライトだった。団体旅行のおばちゃんが、日本の新聞を手にして「久しぶりやから、漢字が分かれへん」と言うのを聞いた。飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになったが、もし本当だとしたら、かなり重症である。縦書きが少し読みにくいという感覚はあったが、漢字が分からないという感覚は抱いたことがなかった。

英文法の単元に「否定疑問文」というものがあるのをご存じだろうか。そこまで重要なものでもなければ、重宝するようなものでもないのだが、これが今まさに私を苛んでいる「副作用」なのである。一応、その「否定疑問文」の特徴を述べておく。

  →Don't you like coffee? (コーヒー好きじゃないんですか?) 

書き出しを否定語(Don't)で始めることを除いて、疑問文そのものに厄介な点はない。厄介なのはその返答法で、Yes、Noが日本語の場合と逆になる。もし、日本語の感覚なら、上の例文で"Yes"という返答をすると、コーヒーが「好きじゃない」ことを意味するはずだ。しかしながら、英語の場合、"Yes"と答えると、コーヒーが「好き」なことを意味し、"No"と答えると「好きじゃない」ことを意図してしまう。

つまり、日本語の感覚を引きずって答えると、伝えたいことが真逆になってしまう。質問の内容によっては致命的な誤解を生じかねない。中学生の時、少なからず混乱させられた思い出はあるが、良いおっさんになった今、再びこの文法に苛まれることになろうとは夢にも思わなかった。

例えば、症例は次のような感じである。先日、多摩センター駅のスーパーで、大好きな唐揚げ弁当を買って塾に向かった。お昼になり、さあ食べようと弁当を開いてはみたものの肝心のお箸が見つからない。どんなに袋に手を突っ込んでも覗き込んでもない。途方に暮れて、レジでのやり取りを思い返してみた。 

    レジの人:「〇〇円になります。お箸は必要ございませんか?」

    私:「はい」

検証するまでもなく、2秒で解決した。やはり原因は「否定疑問文」である。レジの人もレジの人で、「お箸は必要ですか?」と普通に訊いてくれていたら、こんなことにはならなかったのに。

言い訳がましいが、英語をはじめ、スペイン語、フランス語など他の言語では「お箸が欲しい」時は、疑問文の形態に関わらず「はい」と答える。「否定疑問文」も例外ではない。むしろ日本語の感覚の方が少数派である。

この副作用は、日頃は意識されないが、ときに現れては私を困らせる。病院で「保健書をお持ちではないですか?」と訊かれて、持っているのに「はい」と答えてしまったり、保護者の方に「うちの子、〇〇大学は受からないですよね?」と訊かれて、大丈夫なのに「はい」と答えてしまう。冷や汗ものである。 

2014年12月 9日 (火)

これからの予定

年末は12月28日(日)まで授業を行い、年明けは1月5日(月)から開始である。その後、センター試験があって、私立大入試があり、国立大入試がある。受験生も英語単独では点数が採れるみたいだが、あとは全ての教科を同時に8割近く揃えられるかどうかである。

この時期に不安を掻き立てることはあまり言いたくない。浪人生に勝る現役生の強みは、怖いもの知らずに突っ込んでいくところである。センター試験の後に「ちょっと休憩・・・」と気を抜く生徒がいるが、立ち止まらずに駆け抜けなければならない。前期の私大や国立大の試験が終わっても、次の後期に備えなければならない。足を止めていいのは、行き先(合格)が決まった時である。途中で気を抜いた者は浪人街道一直線である。

家庭での学習としては、「過去問」と「文法問題」をびっちりやることか。文法問題を挙げたのは、まだやれば伸びるからである。私大を受ける生徒は、学校で購入している「Nextage」や「upgrade」があると思うので、年末までに1周、年明けてからもう一周くらいできるだろう。新しい問題集に手を出すより、現在手元にあるものを信じて繰り返す方が良いのは言ってある通りだ。

新年度のクラスは3月から始まる。志望校別ではなく英語力別である。志望校別にしてもあまり得はない。傾向を追いかけて、「英作文は出ないからやらなくていい」や「小説は出ないから読まなくていい」というのは英語を軽んじている証拠である。英語力の向上に、そもそも省いていいものなどない。英作文の出題がなくても、4技能(読む・書く・聞く・話す)は全てリンクしているので、やる意味があり、やる必要がある。読解もどんなジャンルであれ、読みこなせるようにならねばならない。

新高3(現高2)のクラスは3つに分ける。①準1級以上のレベル、②準1級~2級のレベル、③2級以下のレベルだろうか。「英検」を用いたのは基準として解りやすいだけで、それ相応の実力があれば英検を取得していなくてもよい。もちろん、本人の希望などを聞いて柔軟に対応する。

新高2(現高1)は、2つか3つのクラスに分ける。この学年の特徴は学力の差が大きく開いている。①準1級挑戦レベル、②2級挑戦レベル、③準2挑戦レベル、といった感じか。

新高1(現中3)は未知数なので、2クラスほど設けるとは思うが、まだ分からない。

新小6~新中3は、おそらく今年同様日曜日になる。「小6」のクラスは設けたいが、時間的に設けられないかもしれない。

いずれも決定事項ではない。生徒と話をするなかで、これから具体的に決めていく。

とにかく、生徒が増えていくのは嬉しいことであるが、質を落とさないようにする分、クラス数が増えることになる。私もフル稼働で授業を行うが、授業の曜日・時間について個人の都合を聞くわけにはいかなくなると思う。申し訳ないが、その辺はご理解していただきたい。

1~2月に、(生徒は嫌がるだろうが)3者面談をしようと思う。昔は「高校生にもなって親が出てくるのはいかがなものか」と思ったり、「欠席する時くらい自分で連絡してこいよな」と思ったものだが、歳を重ねるうちに保護者の気持ちが分かるようになってきた。むしろ、できるだけ保護者に近況をお伝えしたいと思うようになった。生徒に対しても、「最後まで味方でいてくれるのは、教師でも友達でもなく、親なんだからね」と私の口が言っているのだから、不思議なものである

2014年11月29日 (土)

英会話スクールの斜陽

批判というものは、その前提として自分のことを棚に上げなければできない。叱られるかもしれないが、それは全てのコメンテーターや教師、聖職者も同じである。言い訳はさておき、ある英会話スクールのWebサイトに、ワンポイントコーナーと銘打って「完了形時制」の説明がされていた。それを以下に引用してみる。

 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

     まず【基本時制】ですが、これは基本的に現在のことは現在形で、過去のことは過去形で、 未来のことは未来形で、と使い分けるだけなので簡単ですね。
                   
         さて、難しいのは【完了時制】です。例えば、<例文1><例文2>ではどちらが【完了時制】でしょ

               <例文1> 私は10年カナダに住んでいた。
               <例文2> 私は10年カナダに住んでいた。

     <例文1>は【基本時制】の過去形を用いて "I lived in Canada 10 years ago."で、<例文2>が【完了時制】の過去完了形を用いて"I had lived in Canada for 10 years."と表します。2つの文章の違いは「10年前」と「10年間」という部分だけです。ここに【完了時制】を理解するポイントがあります。「10年前」というのは時間軸上で1点の時間を表すもので、それに対し「10年間」というのは時間軸上で幅のある時間を表すものです。このように時間軸上の幅のある時間帯を表すには【完了時制】を用います

  ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

時制の基本を、あたり障りなくまとめた良い文章だと思う。しかしながら、この文章には誤りがある。

★まず、基本時制の説明で、「現在のことは現在形で、過去のことは過去形で、未来のことは未来形で」と書いてあるが、実際はそんな型どおりに綺麗におさまらない。以前のブログで説明したように、未来形というものは存在しない。ただし、小中学生に教えるために抽象度を上げて説明するという前提であれば、この点は無視してもよい。

けれども、現在のことは現在形」というのは残念だが見過ごせない。どれだけ抽象度を上げてもダメである。現在を表すのは「現在形」ではなく「現在進行形」である。それでは「現在形」が表現する時制は何か。「いっつものこと(常時)」である。例えば、

       →I go to school by bus. 「バスで(いっつも)通学する」                                  

       →Water boils at 100 degrees. 「水は(いっつも)100℃で沸騰する」

などで「現在形」を用いているのは、「いっつものこと」だからである。

★次に、「私は10年間カナダに住んでいた」は"I had lived in Canada for 10 years."とあるが、これは間違いである。正確にはI lived in Canada for 10years.と「過去完了形」ではなく「過去形」を用いる。ここで「過去完了形」をどうしても用いたいのであれば、(理由は割愛するが)以下に示したように完了点(終点)を言わなければならない。

    →I had lived in Canada for 10 years when my son was born. 「息子が生まれるまで10年間カナダに住んでいた」

★まとめとして、引用した箇所を含め説明を書いたのは、おそらくネイティブ講師ではない。また、ネイティブ講師の考えを、日本人講師がまとめたものでもない。ネイティブらしからぬ思考であり、日本人らしい思考だからである。

つまり、このように「時制」の概念を体系化し、さらには日本語の「時制」との違いを比較したうえで考察できるネイティブ講師はまずいない。ただ英語が母国語というだけで、まともな英語の知識もなく、TESOLのような指導資格さえ保持していない、そんなネイティブ講師が日本にはうようよいる。日本人というだけで日本語を指導できないのと同じである。

また、上のような「完了形」のミスなどは、私も(自己紹介などで)よく犯していたミスだが、それ故に指摘されることも多く、いつの間にか直っていた。このように、留学を半年でもしていれば、ネイティブに訂正される機会があるはずのものである。

著者の説明は、学校で習う英語の範疇を越えていない。彼の体験や実践で見出した真実もなければ、それを補うほどテイストのある文章でもない。ただ凡庸にそれを語ったところで、英会話学校にとってマイナスになることはあっても、プラスになることはない。

2014年11月28日 (金)

プーさん禁止事件

木の葉が散る季節になると、カナダの極寒の冬を思い出す。マイナス40℃が、楽しくて楽しくて仕方なかった。

じゃんけんで負けた者が目を瞑り、凍って引っ付いて開かなくなるゲームをしたり、そもそもスケートなどできないのに凍った川の上でスケートをしようとしてみたり、「この寒さの中で飲むホット・チョコレートが最高なんだ」と言っていたら、凍ってアイスになっていたり。このような思い出が甦っては、心を温めてくれる。

昨日、Yahooニュースを見ていると、「くまのプーさん」は下半身を露出しており、子供の教育上よろしくないということで中欧のとある国で禁止されることになったという記事があった。

以前のブログにも書いたが、私がカナダで住んでいたWinnipeg(ウィニペグ)という町はプーさんWinnie.Poo(ウィニー・プー)の発祥の地である。動物園に小さな銅像が立っていたが、アニメのようなプーさんではなく、ただのリアルな熊の銅像でひどくがっかりした思い出がある。

プーさんが卑猥なら、北欧生まれのキャラクターの「ムーミン」も同じである。くまモンは、申し訳なさげ程度にチョッキを羽織ってはいるがほぼ全裸である。ドラえもんは、全裸に四次元ポケットを付けている変態である。このように、多くのキャラクターが審理に引っかかり、世の中から姿を消さねばならなくなる。

卑猥などとはまったく思わなかったが、プーさんの故郷ウィニペグの町にマイナス40℃の冬がやってくる度に、「あの格好では風邪をひく。というか凍死する」とよく思った。極寒の地には、野良犬も野良ネコもいない。野良になったとたんに死んでしまうからである。でもプーさんは熊だから、寒くなったら冬眠するので大丈夫なんだろうと思ってみたりもした。

日本には、「傘地蔵」の昔ばなしがある。昨年、南大沢の郵便局前にあるウサギの銅像にニット帽が被せてあったし、ライオンズ・マンションのライオンの銅像にマフラーが巻いてあるのを目撃した。プーさんの卑猥さを唱える前に、そのような優しさを少しは見せてはどうだろうか。

2014年11月18日 (火)

少年老い易く学成り難し ー文武両道論 その3ー

どこかの校長が、「うちは文武両道ではありません。学問一本道です」と、胸を張って言ってくれないかなと思っている。

世間一般では「文武両道」が正しくて、「学道一本」を唱えることはどこか肩身が狭く、世間を敵に回すようで恐ろしい。恐ろしいのはわかるが、いろんなことに手を出すより、一つのことに専念する方が効果が上がることは、誰しもわかっているはずである。

人間の精神力、体力、また使用できる時間というものには限りがある。そして両道するということは、それらを2分することに他ならない。学問に100%、部活動にも100%は無理なのである。仮に「両道」が均等な配分を意味するなら、学問に50%、部活に50%というのが、より現実的な解釈だろう。

現在、部活動をやっていて「勉強が思うようにできていない」と思うことがあるなら、その人は文武両道ができないタイプだと考えてよい。学年が上がれば、 受験が近づいたら、やろうと思えば、という性質のものではなく、今できないものはその時になってもおそらくできない。

「文武両道」はどちらかと言うと「理念」や「理想」で留めておくべきもので、実践を前提とした「目標」にまで降ろしてくるべきものではない。まずは1つの道からである。それが軌道に乗ったら、2つ目の道に歩を進めるのもよいかもしれない。しかしながら、初めから2つの道を進むというのは、横着であり少々図々しくないだろうか。

「文武両道」という言葉の表面的な美しさに囚われて、盲目的にありがたがる学校や運動部顧問の品性の乏しさがどうしても気に入らないのである。彼らは、現実に落とし込んだ時に生じる矛盾というものを無視して、綺麗ごとを並べ立てているに過ぎない。品性の乏しさとは、尊敬すべきでないものを、先例や固定観念に任せて、無意味に尊敬することにある。

彼らは、どれだけ同じ過ちを繰り返し、臭いものに蓋をし続けるつもりなのか。4月頃の「週刊朝日」や「週刊毎日」を見て欲しい。高校別の受験結果が詳しく載っている。一部の高校を除いて、よくもまあ「文武両道」を唱えることができるな、という結果がずらっと並ぶ。一般企業なら業績不振でとっくに潰れている。

当塾は運動部禁止ではないし、実際、生徒の半数が運動部である。ただし「部活が忙しくて単語を覚えてこれませんでした」と言われて「しょうがないね」と甘やかすつもりはない。「少年老い易く学成り難し」である。

2014年11月11日 (火)

私の英検

私の場合、カナダから一時帰国した時に準1級を受けた。2次面接では、一般の受験者と違って、英語を話したくてうずうずしていた。カナダで授業や課題としてプレゼンテーションやディスカッションを何度もやらされていたので、全く緊張しなかった。

その当時の私は本当に怖いもの知らずだった。ノックをして戸を開けると、一礼などせず、"Hello"と言いながらつかつか面接官の前に行き握手をした。去り際にも、"Thank you. Have a good day!"と握手を求めて一礼せずに部屋を出た。それでも評価のattitude(態度)は良かった。

面接そのものは、軽い自己紹介から始まるのだが、カナダの生活を話し始めるやいなや、英語を話せる喜びについ止まらなくなってしまった。面接官は良い人(?)だったので、私もカナダに住んでたことがあるのよ、と話しを合わせてくれた。後半の試験内容は時間が足りず割愛されてしまったが、面接官もこれ以上必要ないといった感じで笑顔だった。

今になって振り返ると、若気の至りというか、今はやりの「中2病」というか、顔から火が出るほど恥ずかしい。英語を話せる日本人は星の数ほどいて、私より優れた話者はそこら中にいる。子供が新しいおもちゃを見せびらかすように、身につけたばかりの英語を見せびらかしたくてたまらなかったのである。

最近は英検受験者の低年齢化が著しいように思う。試験会場に足を運べば分かるが、2級や準2級の受験生に小学生を見つけるのは容易い。当塾の生徒も5人ほど年明けの英検で準1級に挑戦するみたいだが、受かればすごいことだと思う。私が高校生の時には、準1級を持っている生徒など周りにいなかった。

英検の問題は良問が多いので好きなのだが、竹岡先生も指摘されているように、わずか6割の点数で合格してしまうシステムに問題がある。そんな試験で、各級ごとに定める到達度の英語力を、合格者が備えていると保証することができるのだろうか。

とは言え、準1級は立教大や上智大を始め大学入試で優遇されたり、推薦入試の一条件になっていたりする。また、大学入学後は単位取得を免除されたり、就職でも有利に働く。この傾向は年々強くなる一方なので、取り敢えず持っていて損はないだろう。

合格することはもちろん大事だし、それによって自信を持てばよいと思う。しかし、私のように慢心して変に粋がることなく、「まだまだ」と謙虚さを失わずに頑張ってくれたらなと思う。

2014年11月 6日 (木)

英検の作法

「受かってました!」と言われると嬉しい。

先週、英検の合否が発表された。よく考えてみると、「受かりました」ではなく、「受かってました」というのは他人事のようで何か変な感じがする。謙虚さからなのか、ぎりぎりで受かったからなのかは分からないが、何はともあれ笑顔で報告されると嬉しいものである。

次の日曜に、2次試験の面接があるようだが、よほどのことでもない限り皆大丈夫だろう。別にプレッシャーを与えるつもりはなくて、本当にそう思っているので気楽に受けてきたらよい。

2級や準2級の面接では、英語が話せないことを理由に不合格にすることはない。それなりのスピーキングが本気で求められるのは1級の受験者くらいなもので、それでもネイティブの1/3程度のスピーキング力があれば十分受かってしまう。つまり、2級を受験する者に、会話や質疑がまともに成立することなど誰も期待していないのである。なので、つまづいても、聴き取れなくても、文法的ミスがあっても、落ち込まなくていい。

「言っていることが分からなかったらどうしよう」と不安がる生徒がいるが、対処は簡単で「分からない」と言えばいいのである。聞き取れない時には、「すいませんが」と聞き返せばいい。それもきちんとしたコミュニケーションである。友人や家族との会話を思い返してみれば分かるはずで、日本語でも「え?」「何?」「知らん」と入るのが当たり前で、全てが淀みなく流れる会話の方がむしろ不自然で気持ち悪い。

何回聞き返しても相手の言っていることに見当がつかない時は、覚悟を決めて何か言うしかない。その際もただやみ雲に言うのではなく、"I don't know but I will try"(分かりませんが一応言ってみます)みたいな前置きをしておけば、見当違いなことを言っても会話として不自然ではなくなる。重要なのはスピーキング力ではなく、コミュニケーション力である。

また、言葉でダメなら身振り手振りを使えば良い。電話を掛けているイラストを描写するように求められたら、電話を掛けるジェスチャーをすればよい。聴覚だけではなく視覚にも訴えればよいのである。人間は本当に伝えたいことがある時は手が動くものである。

現在23時30分。場所はミスタードーナツ。凝りることなく、今宵もドーナツを頬張っている。隣ではおばさんの一団が女子会を開いている。機関銃のように喋っているのに誰一人噛まない。身振り手振りの応酬に何とも言えぬ迫力があり、まるで格闘技のようである。これなら、英検の2次は受かるだろう。

2014年10月22日 (水)

竹岡時代 ー文武両道論 その2ー 

私が竹岡塾に通い始めた時、運動部への入部はなるべく避けるようにと言われた。強制ではなかったので、剣道部やサッカー部に入った塾生もいることはいた。私は(こう見えて)中学と大学ではバレーボール部に所属していたが、高校だけは運動部を諦めて数学研究会に入った。

その決断は、私自身の意志によるものと言えば聞こえはいいのだろうが、実際は両親の説得と竹岡先生からの圧力、あとは私の勘のようなものが何となく働いたからである。

竹岡塾には入塾テストがあり、その1つは「試験日までに英文を100個覚えてこい」というものだった。まずはやる気がある者とない者とをふるいにかけようというのである。当時の私にしてみれば、純粋な学力だけで評価されるよりもありがたかったのだが、入塾希望者に対してこんな過酷なテストを課すのはどう考えても普通の塾ではない。その危険な香りに感づいてしまうと、だんだん入塾するのが恐ろしくなってきた。

受験のストレスから解放され、夢と希望を持って高校に入学しようという麗らかな春。その胸のざわつきを覚えた時は、奈落の底に突き落とされたような気分だった。高校に入って当分はゆっくりしようという生ぬるい考えを見透かされたようで、また大学入試という影も形も分からぬ得体の知れないものがいかに厄介で、それに備えるにはどれ程の苦労と覚悟が必要になるのか、漠然とではあるが無理やり見せられた気がした。

入塾して数週間のうちに、中学までの英語の学習方法、学習姿勢、学習内容をことごとく否定され修正を迫られた。今では少し穏やかになられた感じがするが、当時の竹岡先生は眼光鋭く血気盛んでバイタリティの塊だった。「3匹の仔豚」のように、ふっと息を吹きかけられただけで私の自信はいとも簡単に吹き飛んでいく、そんな日々だった。やはり私の嫌な予感は当たっていたのである。

そのショック療法は、「文武両道」の道を私に諦めさせるには十分だった。先ほども述べたように、どんなに揺さぶられても運動部にしがみつく強者の生徒もいたのだが、私にはそうできる程の器用さと余裕を持ち合わせていなかった。等価交換のように、何かを得るためには何かを犠牲にしなければならなかったのである。

もちろん苦しいことばかりではない。2年生に上がると少しづつではあるが余裕が生まれ、ワインを嗜むように授業を味わうことができるようになった。手品を見せられた子供が、さらにその手品のタネを見せてもらうような、二重三重の驚きと興奮を与えてくれる授業だった。いずれまた機会があれば、その後の波乱万丈な竹岡塾時代もお話しようと思う。

私の「文武両道」を蹴った選択が、唯一正しい選択だとは思わない。私の場合、環境に合わせて生きていくためにはそうせざるをえなかっただけで、自分の意志力にのみ頼って成しえたことではない。環境が違えばバレーボール部で汗を流していた可能性もある。また、私ができなかっただけで「文武両道」で大成した人は少なからずいる。私の道とは所詮私だけの道であり、たまたまその道沿いに竹岡塾があったのである。

道は「両道」どころか無数にある。二つも三つも道を行く体力があれば、チャレンジするのもよいだろう。ただ、多くの生徒は何となくぶらぶら道を歩いているだけである。自分はどこに行こうとしているのか、そこまで辿りつくにはどれだけの時間を要して、どれだけの労力が必要なのかが分かっていない。分かっていないのなら、後回しにせずに考える必要がある。導いてくれるのは親でもカーナビでもない。自分の意志であり自分の足である。

2014年10月18日 (土)

片道論 ー文武両道論 その1ー

うちは「文武両道」ですから、と胸を張って校風を語る校長がいる。

私にしてみれば「よくもまあそんな無責任ことが言えるな」と思わずにはいられない。学問に力を注ぐ生徒もいれば、スポーツに力を注ぐ生徒もいる、そして学校全体でみれば文武両道だと言うのならまだ分かる。

しかし一人一人の生徒に「文」と「武」の両方を求めるのは、理想論というか不可能というか二足の草鞋を履かせるようなもので、やはりどう考えても無責任なのである。

そもそも武とは「武術」や「武芸」を指していた。それがいつの間にやら「部活動」にすり替えられてしまった。この平和な時代に武術なんて必要ないというのは分かる。しかし、その替わりが部活動でなければならない理由はないはずだ。教科として体系化された「体育」の方が、その役割を務めるのに相応しいように思う。

鎌倉時代に武士が台頭し、それ以降彼らが時代の舵を切ってきた。彼らは武芸にこそ励むが学問に目を向けようとしない。それどころか学問に勤しむ人間をさげすみさえした。その事態を良しとしない時の権力者が「文武両道」を奨励したのである。

つまり「文武両道」という言葉は、「武」への偏重を抑止して「学問」にもしっかり励まなければならない、という学問擁護の立場から生まれたものである

しかしながら今日では「勉強だけに専念しなくとも良いのだ」、「試合が迫っているから勉強する暇がない」といった学問に専念しなくてもよい言い訳や、学業に優先して部活動を行ってもよい免罪符になっているケースが間々ある。

部活動そのものを端からを否定する気はない。私が否定的なのは、疑問も抱かずに「文武両道」を美徳とする右に倣えの校風や偏った見方である。

熟慮の末、敢えて自ら「文武両道」の道を閉ざす者もいる。部活をしたい気持ちをやむなく抑えて、学問にだけ専念する生徒もいるのだ。

そこまでの覚悟で勉強や受験に臨む者の方が、よっぽど武士(もののふ)のようで私には格好よく映る。

2014年10月 8日 (水)

Trick or Treat

いつの間にか、日本の10月の代表的行事は「ハロウィン」になってしまったようだ

先日もダイソーに行くと、これでもかとばかりに関連商品が並んでいた。よくもまあ限られた原価の中、あれだけ多くの商品を考え出したものである。

ハロウィンの急速な浸透には、多くの企業の思惑が絡んでいる。ハロウィンに始まったことではない。「母の日」も、創始者Anna Javis(アンナ・ジャービス)自身による反商運動虚しく、結局、企業の食い物となってしまった。クリスマスやバレンタイン、節分の恵方巻でさえそうである。

本来ハロウィンとは、アメリカやカナダの先住民が先祖を偲ぶ日である。日本でいうところの「お盆」である。何をはしゃぐことがあろうか?お盆の法事で、はしゃぎ過ぎたら「場をわきまえなさい」とたしなめられるだろうに。

そう思うと、彼らに対して何となく申し訳ない気持ちになる。私自身、カナダで迎えたハロウィンで、はしゃぎ回った挙句、仮装大会で優勝してしまった。なので、人のことはとやかく言えないのだが・・・。

カナダのハロウィンも、形骸化し商用化されている点では日本と同じであるが、地域に根ざした行事として一応市民権を得ている。

子供たちは様々な衣装に身を包み、大きな袋を持って近所の家々をまわる。トラブルに巻き込まれないよう、必ず数人の保護者が後ろから付き添う。

戸口に立っては、お決まりの"trick or treat!(いたずらが嫌なら、お菓子ちょうだい!)"と叫ぶ。そして、持っている袋にお菓子を入れてもらう。その言葉通り、お菓子をあげなかったり量が少なかったりすると、本気でいたずらされることもある。

よくあるいたずらは、トイレットペーパーを庭の木に巻きつけるというものだ。家主は悲惨である。翌朝、その光景を目の当たりにし、すぐさまトイレットペーパーを取ろうとするも、枝に引っ掛かって綺麗に取れない。上の方に残った切れ端は、数日間、哀れに風にそよぎ続ける。

もし、子供に来てほしくないなら、飾りを一切せずに玄関の明かりを消しておけばよい。ただし、身を潜めねばならない虚しさと、お菓子をケチったような後ろめたさが付きまとう。

-夕食後、パンプキン・パイに舌鼓を打っていると、屋外に子供の声が聞こえてきた。ホストマザーが玄関を開け、私は傍らで"trick or treat"のやりとりを微笑ましく見ていた。

すると何ということだろう。私の存在に気付くやいなや、獲物を見つけたかのように次々と袋を差し出してくるではないか。

今思うと情けないのだが、機転を効かしたつもりで、部屋にあったみかんを一個ずつ入れてあげた。

怪訝な顔をして子供たちは去っていき、遠く"heavy!"と叫ぶ声が聞こえてきた・・・。お菓子もいたずらも、軽いに越したことはないようである。

2014年9月30日 (火)

「未来」はない?

学校で「未来形」というものを習うが、実際には動詞の活用形に「未来形」というものは存在しない。

お馴染みの活用表を見ても、eat(原形)-ate(過去形)-eaten(過去分詞形)の3つが並ぶだけで、「未来形」は見当たらない。

未来とは言っても、行為者の身体は現在にあり、思考だけが未来に飛ぶ。実際には現在時にいる自分が、あれやこれやと未来を推し量っているわけである。

つまり、未来形や未来時制と思われているものは、全て現在時制ということになる。

それでは「未来形」が存在しないなら、どのように未来を表現すればよいのだろうか。

まずは、以下の4つを覚えてしまう方が分かりやすくてよい。


  方法① will+V

  方法② be going to V

  方法③ be Ving(現在進行形)

  方法④ V(現在形)


まずは①と②の比較。②のbe going to Vは、計画性のある未来を表現する。逆に
①のwill+Vは、計画性のない未来を表現する。

たとえば、②I am going to go to Tokyo University.と言えば、「この子は予備校などに通い毎晩遅くまで頑張って勉強しているんだろう」と、計画性を持って受験の準備を進めていることが窺える。一方で、①を用いてI will go to Tokyo University.と言えば、「その場の思い付きで口先だけなんだろう」と薄っぺらく響くのである。

場面が変わって、牛丼チェーンの吉〇家。計画性のある②を用いて、I am going to eat a Gyu-don.と言ったらどうなるか。「こいつはどんなけ前から、牛丼を食べる気満々だったのだろう」と相手は思うわけである。その場の決定なので、計画性のない未来①willが好ましい。

それでは、③のbe Ving(現在進行形)はどんな未来を表現するのか。結論から言うと、②と同様に計画性のある未来を表現する。しかしながら、②よりもさらに計画性の高い未来である。例を挙げて比較するとこんな感じだ。


  例:②I am going to study abroad this year.

    →留学計画をしっかり立てている。おおよその留学先、期間などのめどが立っている。おそらく計画通り行くのだろう。

  例:③I am studying abroad this year.

    →フライト、学校、滞在先も決定し、お金も振り込んだ状態。スーツケースなどの荷物の準備もOK。あとは行くのみ。


最後に④V(現在形)は、上で述べた②や③よりも、さらに計画性の高い未来である。計画性が高いということは、それだけの計画を練っているんだからそうなるに違いない、と「起こる可能性が高い」ことを含意する。

こう考えると、④は必ず起こるようなことに限られるので、個人の未来を表現するためには使えない。たいていは、大統領や総理大臣の予定、公共的な行事などに限られてしまう。

以上のことをまとめると、①→②→③→④の順に、計画性が高くなる。言い換えれば、未来にその行為がなされる「可能性」が高くなるわけである。

「形」から見れば、その理由は簡単に納得がいく。

①のwillは本来「推量」の助動詞であるから、気持ちだけ未来に行って行動が伴っていない感じである。

②のbe going to Vは、直訳するなら「V(という行為)に向かっているところ」となり、その行為を行うべく歩を進めている最中であることがわかる。

③のbe Vingは、ご存知のように現在進行形であるから、「(今)Vしているところである」となり、「すでにその行為をやっている」のと同じ認識なわけである。

④のV(現在形)は、本来、「習慣的行為(=日々、当然のように行われること)」を表すものである。よって、不確かな未来のこととはいえ「当前のように行われるに決まっている、行われて当然」という認識がある。

未来を表現するには、他にも⑤plan to Vや⑥be about to Vなど、いくつもある。⑦canなどの助動詞を用いても未来になる。→I can go shopping tomorrow.

過去と違って、未来は不確かである。そうなると、そこには天気予報のように確率の入り込む余地が出てくる。また、行為によっては、願望や期待といった心情が付加されることもある。それらが複雑に混ざり合い、数多の表現方法が生まれる。人がそれぞれ違う未来を描くように、その表現方法も千差万別ということなのかもしれない。

「未来」をあれこれ考えることは面白い。

2014年9月26日 (金)

挨拶って難しい 後篇

挨拶は大事である。生徒にもきちんと挨拶できる人間になってほしい。

"How are you?"の返答に命をかけていた(カナダ時代の)私は、毎回異なる表現を引っ提げてESLschoolに通っていた。もちろん、そのことが無意味であるとか間違いだったと言うつもりはない。しかし、よくよく観察してみると、私のように様々な表現をやりくりして挨拶しているネイティブに出会わない。自分だけが燃費の悪い思いをしているのは分かるのだが、違和感の理由はそれだけではないらしい

結論から言えば、挨拶は「手短かに」ということである。その意味では、中学の英語の授業で教わったバリエーションの乏しい無機的な返答は正しかったと言える。

広いキャンパス内で、思いがけず知人とすれ違うとする。お互いに次の授業の教室に向かう途中である。当然ながら、すれ違いざまに"How are you?"などと短く言葉を交わす。日本のように会釈で済ますわけにもいくまい。こういうことが、一日に何回も繰り返される。

いちいち、自分の健康状態を鑑みて適切な表現を選んでいる時間はない。"Well(ええと・・・)"と言い淀んでいる暇もない。そんなことをしていると、お互いすれ違うことができないのである。

また、間断なくであれ、"I'm bad."のような返事をしたならどうなるか。まさか相手は"I see.(ふーん)"と無視して去るわけにもいかず、足を止めて"Why?"と聞かざるをえなくなる。これまた、テンポよくすれ違うことができない。

結果、テンポの悪さに相手はいらっとして、せっかく"fine"だった関係が、これを機に"bad"になってしまうかもしれない。

このようなことが毎日何十回と繰り返されるうちに、私の豊富な返答は出番を失ってしまった。このことを何人かのネイティブに話すと、予想通りの返事が返ってきた。"How are you?"は一応疑問文の体をなしているが、役割は"Hi"と同等である。本気で相手の体調を尋ねている人はいない。ただの「掛け合い」なのだそうだ。

聞かれた方は、体調が優れなくても"bad"や"so so"などの否定的な表現はなるべく避けようとする。理由は先ほど述べた通りである。良くない時でも"Not too bad.(悪過ぎるってことはない)"くらいで留めておくことが多い。私自身も、この表現をよく用いた。

もちろん、お互いに時間に余裕がある時など、文字通りに解釈して"I'm not feeling well because...(あまり良いとは言えないかな。というのも・・・)"と長々と自分の健康状態を語ることに差し支えはない。ただし、それはむしろ「まれな方」であることは知っておいた方が良い。

実際に(心から)相手の体調を尋ねる時は、"How are you?"ではなく、"How are you feeling?"を使う。なので、医者が問診で"How are you?"と尋ねてくることはまずない。

よって、通常の挨拶で使用する"How are you?"のやりとりは、以下のような感じだ。

相手:How are you?

自分:Not too bad. (Thanks.) ’nd you?

相手:Fine.

(※個人的な見解です)

2014年9月23日 (火)

挨拶って難しい 前篇

英語で挨拶するのは意外と難しい。

中学生のころ、授業の始めの挨拶として、次のようなやり取りがあった。

先生:Good morning, everyone!

生徒:Good morning, Mr.Tanaka!

先生:How are you?

生徒:I'm fine, thank you. How about you?

多少の違いはあるだろうが、学生時代、誰しもこのようなお決まりの「掛け合い」を経験したのではないだろうか?体調のすぐれない生徒は、"I'm fine."の代わりに"I'm bad."と言うように、という一応オプションはあった気がする。

大学生になると、音声英語(コミュニケーション英語)に触れる機会が増え、中学・高校でやったあの紋切り型の挨拶は、不自然なばかりか不気味とさえ思うようになった。卒業式や送る会で見られる卒業生と在校生の台詞調の無機質な「掛け合い」のように思えてならなかった。

そもそも、大勢の人を前に、改まってHow are you?と聞くことはネイティブ社会ではあまりない気がする。それ以上に、全員が声を揃えて同じ返事をするというのは、もっとあり得ない。

How are you?の返事が、fineやbadやgoodに制限されるのもおかしい。人間の健康状態はもっと複雑で、それを表現する言葉は多種多様であってよいはずである。画一的な英語教育の弊害によるものなのか、単純に教師の教養不足によるものなのかは分からないが、とにかく、英語という言語が、そんな貧相なはずはない。

How are you?に対する返答は、簡単なものでも、"very good" " too bad" "terrible" "wonderful" "awsome" "fabulous" "so so" "same old same old" "so far so good"などいくつもある。また、仮にI'm bad.と返答したとして、その後にはbecause I have a cold.(風邪を引いている)などと理由を述べるのが筋であり、相手もwhy?と尋ねるのが人情だろう。

カナダに留学する際、通り一遍の返事しかできない日本人にはなるまいと、上述したような表現をたくさん携えて渡った。そして、ESLの教師たちにHow are you?と訊かれる 度に、その時の健康状態や気分に照らして適当な表現を選ぶことを繰り返した。

「よく知っているね」と感心されて有頂天になることもしばしばで、"Same old Same old"などは、ひなびた趣のある表現らしく教師たちの笑いを誘った。しかしながら、半年ほど経った頃だろうか?ESLをやめて次のステップへという時期くらいである。これまでのHow are you?に対する認識に対して、ざわざわと得体の知れぬ違和感を抱くようになっていたのである。

(つづく)

2014年9月10日 (水)

恥のかき捨て

お気づきの方もいるかもしれない。前回のブログで、「玉石混淆」とすべきところを「玉石混合」と書いてしまった。日本語力のなさを露呈することになって、とても恥ずかしい。

先々週の金曜日に、Alex(アレックス)が塾にやってきて、代わりに授業をしてくれた。いきなり見知らぬ異国の先生に"Hi"と声をかけられる予想外の状況に、生徒たちは苦笑いだった。

英語で質問されて、長い沈黙が続いたり、「もう一回お願いします」と日本語で訊き返す生徒がいたりと、ハラハラする場面もあったが、そういうことも含めて良い経験になったと思う。失敗や恥ずかしい場面を繰り返し、人は成長していくのである。

ただ、潜在していた問題が浮き彫りになった。Readingに比べ、予想以上にSpeakingができない。Alexもある程度覚悟はしていたらしいが、その乖離がものすごいと驚いていた。

簡単な表現が出てこない。たとえば、趣味を聞かれて、"I like baseball."や"I'm interested in baseball."というように答えることができない。正直、"Baseball."だけではダメだ。「伝わるから良いではないか」と言うのであれば、いつまでたってもその先の成長は望めない。まずSpeakingの訓練では、「文」で答えること、話すことを己に課さなければならない。

また、質問されたことに対して、正答箇所(名詞のかたまり)を読み上げるだけの生徒が多かった。きちんと1人称の文で、「私は~だと思う」のように答えることができなければならない。繰り返しになるが、「文」を常に意識すること。具体的には、「主語の決定」→「時制の決定」→「動詞の決定」の3点を順に組み立てること。Speaking習得の際に心がける基本である。

学校では「英語で英語の授業を行っている」はずなのだが、そういう基本的な指導ができていない。やはり、現実は理想を大きく下回っている。

授業が進むにつれ皆の緊張もほぐれてきたのか、積極的な質問や意見が出てくるようになった。12か国語だったか14か国語だったか忘れたが、いかにしてそれだけの言語を習得したかにとても興味を持っていた。2か国語で手一杯の私よりも、やはり言うことに重みがある。

授業後、生徒に感想を聞いてみると、「こんなに長時間集中して英語を聞いたことがなかったので、とても疲れた」と疲労困憊な様子だった。本気でリスニングを鍛えようと思えば、「疲れる」ということが分かっただけでも収穫である。巷で流行っている「聞き流すだけ」や「シャワーのように浴びるだけ」の教材ではダメなのが分かったと思う。

Alexは、帰国間際、滞在先の近くの銭湯に行ったらしい。スーパー銭湯ではない、古くからある大衆銭湯だ。いざ身体を洗おうと洗い場に座ると石鹸が見あたらない。事前に購入しなければならいシステムを知らなかったらしい。右往左往して結局、お湯につかって出てくることになり恥ずかしい思いをしたそうだ。

私もAlexも恥ずかしい思いはたくさんしてきたし、今でもそうである。しかし、好奇心の歩みを止めるくらいなら恥をかく方を選ぶ。「旅の恥はかき捨て」である。英語の習得も旅のようなものである。その後に繋がる「恥」ならば、どんどんかいて捨てればよい。

2014年8月23日 (土)

阿吽のプリント

高3生が、連続して「センター模試」を受けたらしく、その結果を見せてくれた。いずれも150/200点前後だった(4月の段階では100点前後だった)。読解力の成長が著しいので、その結果だと思う。一方、文法などの小問集合で結構落としていたのは戴けない。今後の課題は、文法とidioms(熟語)である。

idiomsと言えば、この夏に、idiomsのプリントが完成した。手書き部分があったり、情報を盛り込み過ぎて混沌としていたりと、お世辞にも見やすいとは言えないが、それなりに満足のいくものができた。

英語の参考書・問題集は玉石混淆ではあるが、一昔前に比べて飛躍的に良質なものが出版されるようになったと思う。しかしながら、よく目を凝らせば、いまだ西部開拓時代と言っていい分野が存在する。それが、何を隠そうidioms(熟語)なのである。

idioms(熟語)の本は、そもそも出版されている数が少ない。大抵は、単語集や文法書の片隅に追加事項として居場所を与えられ、居候のような扱いを受けている。内容も30年前の単語集を彷彿とする貧相なものが多い。これから、どのように開拓されていくのか注目の分野である。

「英作文」の分野も数年前までは酷かった。駿台の伊藤一夫先生は、読解、英文法などの名著を多くお書きになられているが、「英作文だけはどんなに研究しても、遊び呆けているネイティブに『言わない』『変』と言われたらそれまで。分の悪い土俵には上がらない」と仰っていた。しかしながら、新しい世代の講師たちが心血を注いで取り組んでいるので、次第に改善されつつある。

熟語プリントと並行して、8月に入って単語プリントの「改訂版」もようやく高3生に配布することができた。改訂版の登場により旧版の単語プリントが用済みになるわけではない。旧版はアクセントのルールを重視していて、「中学で英語の一体何を学んできたのか?」と思うくらい、悲惨な発音やアクセントの高1には非常に有効なのである。新版は、旧版を徹底的にやりこんだ高2の後半からのスタートを考えている。

「模擬試験」に話は戻るが、高3に限らず、高1高2も、模擬試験を定期的に受けて結果を持ってきてほしい。結果が悪ければ見せたくもないだろうが、臭いものに蓋をしたところで、当然ながら、その蓋を開けねばならない時がいずれ来る。埋もれて身動きできなくなる前に、ゴミは早いうちに処分したほうがよい。

2014年8月17日 (日)

アレックス再び

Alex(アレックス)が、カナダから遊びにきた。今度は家族も一緒である。

彼との出会いは、ウイニペグ時代に遡る。生活費を稼がねばと、大学構内の掲示板に「日本語教えます」と紙に書いて貼っておいた。日本なら怪しすぎて誰も見向きもしないが、そこはカナダ、すぐに問い合わせの電話が鳴った。そのうちの1人がAlexで、日本に帰国するまで教えることになった。

彼はフランス語と英語のネイティブスピーカーであり、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語も話す。日本語は中級レベルで発展途上である。また、現在はエスペラント語に興味を持って研究している。このように、彼は多言語話者であり、言語のスペシャリストである。以前、アメリカのテレビ番組で特集された「polyglot(多言語話者)」にも出演していた。

現在、ウイニペグの州政府で、英語とフランス語の翻訳・通訳の仕事をしている。また、留学生に発音指導をしている。さらに、英語とフランス語に関する本を執筆している。Amazonでも買える。最近は、日本人の英語の発音やその際の舌の動きを調べて、どう改善すればよいかを研究しているらしい。

数日前、こんなすごい人と、(その家族と一緒に)秋葉原にあるメイド・カフェに行ってきた。オムライスを注文したら、ケチャップで絵を描いくれるというので「ドラえもん」をお願いした。上手だったが、明らかにケチャップのかけ過ぎだった。

真っ赤なオムライスを頬張りながら、日本人は英単語の語尾に不注意で、たとえば"one"(ワン)の「ン」の発音をができていないという話や、日本人は一般に"th"の発音が苦手だというが、早口で喋るときの「サシスセソ」は"th"の発音になっている、というような話で盛り上がった。

「塾の授業を見学したい」とAlexが言うので、「それなら授業をやってよ」と言ってみたら快諾してくれた。なので、再来週のどこかの授業にAlexが現れるだろう。正確にいつかは分からない。生徒は緊張するだろうが、「間違えまい」と構えるより、むしろ開き直って「間違えてやる」という姿勢で臨む方がよい。

何にせよ、これは機会(チャンス)である。手をこまねて逃すのではなく、目の前に来たタイミングで捕まえられる人間になってほしい。今後英語と付き合っていくヒントが得られたり、凝り固まった島国的英語観を見直すきっかけになったりするかもしれない。私にとってAlexとの出会いがそうであったように、人との「出会い」とは、得てしてそういうものである。

2014年8月 5日 (火)

濃い目のカルピス

最近、高3生の保護者から、「入塾を考えている」という電話が続いた。そのいずれもが、同じような内容だったので驚いた。もちろん詳細は言えないが、だいたいこんな感じである。


①最低MARCHには行きたい。

②しかし、英語が危機的状況にある。模試でE判定が並ぶ。

③でも、まだ何とかなると思っている。


入塾を検討してくれるのは光栄なことで、問い合わせの電話をいただくととても嬉しい。「ブログ読んでます」と言われると(照れくさいが)なおさらである。それだけに、どこまで本音を語ってよいものか判断に迷ってしまう。

テレビドラマの医者のように「手遅れです」と宣告するわけにもいかず、何とか理由をつけて「申し訳ありませんが・・・」とお断りをした。「入試まで半年あるではないか?」や、「判断するには時期尚早ではないのか?」と思われるかもしれない。

確かに、予備校の夏期講習のちらしを手に取ってみると、「高3の夏に始めて現役合格!」と書いてある。彼らにしてみれは、まだ手の施しようはあるのかもしれないが、私なら恐ろしくてこの時期から受験生を受け入れる気にはなれない。

高3の夏から入って間に合うなら、高1から通っている生徒は慌てて入らずとも、高3まで待てばよかったのではないのか?などと、(屁理屈を)言いたくなるのは私だけだろうか。このように、藁にもすがりたい受験生にとっては、魅力的でキャッチ-なコピーであるが、どこか矛盾をはらんでいて、スッキリしないものがある。

私はデッドライン(教科の完成) を、2月の入試前とは考えていない。生徒には、「夏休み明けの9月の模試で結果を出すようにね」と言ってある。(ちなみに高2生はあと1年です)  となると、半年どころか2か月もない。単語試験を1周して終わりである。

また、現在通っている生徒を最優先に考えているので、新しい生徒が入ったことで授業のペースが乱れたり滞ったりするのはどうしても避けたい。というか、この時期から入って、追いつけるようないい加減なカリキュラムは組んでいないので、ついてくることは不可能だと思う。

「夏休みだから」や「受験生だから」という理由で、短期集中的に頑張るのは結構だが、日頃の継続的、恒常的な頑張りの上に行うべきものであり、それでこそ初めて活きる性質のものだと思う。これまでサボっていた分を一気に取り戻そうとして夏期講習に臨んでも、思い通りにはいくまい。現実はそう甘くないのである。

当塾は、高3生だけ夏期講習がある。その目的の1つは、平常授業に行っている試験の回転を上げることである。あとは、文法問題の重箱を隅々まで徹底的に洗おうと思っている。

日程は、一極集中型ではなく中期分散型で組んだ。予備校や学校の夏期講習のように、4日や1週間を「がっ」とやるより、まんべんなく講習日を散らして、平常授業を含め全体的に密度を濃くした感じが望ましい。ちょっと濃い目のカルピスがおいしいのと同じである。「じわーっ」とやる方が効果がある。一気に大量のことをやろうとしても身につかない。説明が拙いが、とにかく「じわーっ」が大事なのである。

2014年7月27日 (日)

All English

2013年4月より、英語を英語で教えるという「All English」の授業が、有無を言わさず始まった。一部の英語のできない教師のせいで、耳を傾けるに値する正論な反対意見であっても、言い訳や消極的な意見としてみなされて十分な議論がなされなかった。推進派は「国際化の為に」というマジック・ワードを用いて、一気に押し切ってしまった。

押し切られたものはしょうがないので、その土俵で相撲を取らねばならない。それならまずは、大学入試において、英語による面接やグループディスカッションを導入すべきだろう。5分もあれば、その生徒のスピーキングとリスニングの能力を試験できる。もちろんもっと細部にこだわろうと思えば、発音、アクセント、文構成、なんなら文法の力も評価できる。動機はいささか不純であるが、受験で必要となれば、生徒のスピーキング力は否が応でも底上げされる。

とはいえ、「面接官の主観が入り込む」などの問題がある限り導入は難しい。また、聾唖(ろうあ)の生徒が受験することを考えれば、なおさら不可能である。本来ならば、現行のリスニング問題や、筆記のアクセント・発音・イントネーションに関する問題に対しても、聾唖者への配慮が足りないという議論がもっとあって然るべきだと思うのだが、なぜか意外と聞こえてこない。

「All English」の現在は、すでに暗雲立ち込めている。いまだ授業や授業の予習で、ノートの左側に教科書の英文を書かせて、右側に日本語を書かせる教師がいる。そういうことをしないために「All English」の授業が始まったのではないのか。和訳をさせるということは、必然的に日本語が飛び交うことを意味する。それは英語の授業ではなく、翻訳という名の授業であり別の技量の範疇なのである。「All English」の実質は、もう脆くも崩れかけている。

また、本当に「All English」を徹底しているのならば、もっと生徒は苦しんでいるはずだし、何よりもう少し話せるようになっていてもよいはずである。施行から1年以上が経過し、どのように経過報告されるのか興味深い。しかし、あの文科省が否を認めるとは思えない。戦後以降の英語教育でさえ過ちだとは思っていないのだから。顕著な効果が見られなくても、「方向性は正しい。ただ、もっと早期から始めるべきだった」と、習得開始時期をさらに繰り上げようとするのは目に見えている。

徳岡孝夫氏はあるコラムの中で、「国際人を育むのなら、英語よりも国語力の低下にメスを入れるべきだ」と主張する。「英語を小学校でやったら、それこそ国際人がいなくなる。いったん変えた指導要領は、おいそれと元に復さない。少なくとも今後10年、日本の社会は、子供たちを第二のフィリピン人にしようと努力することになる。泉下のマッカーサーが、さぞ喜ぶことだろう」と皮肉を込めて締めくくっている。

こうならないように祈るばかりである。・・・と、この話を締めたいところだが、私も英語教師の端くれなので祈ってばかりもいられない。教える生徒の数は限られるが、マッカーサーが眉をひそめるほどの「国際人」を輩出できるよう、文科省の用意した狭い土俵に縛られずに大相撲をとりたいと思う

2014年7月22日 (火)

高2生の授業風景

善意からなのか悪意からなのか、溢れんばかりのアイスコーヒーに、クリームとガムシロップを入れると表面張力になった。どうやって混ぜろと言うのか。現在23:時50分、ミスタードーナツで、カタカタと作業中である。

今日は3つ授業があり、最後に高校2年生の授業があった。

冒頭の単語テストは、前菜のようなものであっさり終わった。高校1年生のように、周章狼狽することはない。

その後、センター試験の読解を行った。2人が全問正解で、この2人が読解に関してはクラスを引っ張ってくれている。よっぽどのことがない限り間違えることはない。私だけではなく、彼らもまた他の生徒にとって、あるいはお互いにとっての良き手本となっている。

その後、文法問題を行う。「幅のwhenと点のwhen」の話をする。文法も正しいことを教えようと思うと時間がかかる。文法は本格的にやりこんでいないのでまだまだ発展途上である。

今日のクラスに限らず、もう一つのクラスも、高校2年生は全体的に授業の雰囲気が良い。理由を1つあげるなら、1年生の当初から通ってくれている生徒に恵まれたことだと思う。

読解が苦手で、とんでもない訳をする子でも、単語テストの勉強だけはしっかりやってきた。通っている高校の偏差値が低くても、現在の学力が期待値に届かなくても、まったく気にならなかった。とにかく、「自分の足で立とうとしている」生徒たちが入ってきてくれたことが、とても嬉しかった。

その当初の生徒たちの醸し出す雰囲気が、次に入ってくる生徒たちに良いように伝染していった。そして今のクラスがある。なので、彼らのおかげであると言っても過言ではない。少し誉めすぎだろうか?

2014年7月17日 (木)

暗記ができない

「暗記ができない」と、(年寄りには失礼だが)、年寄りみたいなことを言う生徒が多くなった。

竹岡先生は、京都大学時代、留年を繰り返し3年目に休学した。自暴自棄になり、毎日パチンコ店に入り浸っていたそうだ。常連客のおっちゃん達と顔なじみになり、「若いのに何やってんの?」とからかわれた。

ある日、そのおっちゃんの一人が、竹岡先生に競馬の話を始めた。血統や、調教の方法、馬体重に至るまで、驚くほどの知識だったそうだ。お母さんの何とかはこうで、お父さんの名前はこうで、今の馬体重はこうで、右回りのレースは向かないのどうのこうの・・・といった具合である。そこで竹岡先生は言った。おっちゃん、その力があったら英語でトップ取れるで・・・。

好きなことや興味のあることは、いともたやすく覚えてしまう。苦労を厭わずに覚えてしまう。苦労はもはや苦労ではなく、楽しみの一部とさえなっているかもしれない。

以前、生徒がディズニー映画の「Let it go」を気分よさそうに口ずさんでいた。それだけの歌詞が覚えられるなら、「日頃の単語テストをもっと頑張れよ」と言いたかったが、せっかく気分よく歌っているので遠慮した。

当塾の「単語プリント」には様々な情報が併記してある。全て重要だから暗記しろと言っているのではない。単語を覚える際の「とっかかり」になればと思って載せているものも多い。「語源」や「語呂合わせ」などはその典型だ。

その「語源」と「語呂合わせ」だけでもちゃんと利用すれば、自力で覚えなければならない単語量は4分の1にまで減る。全ての単語を自力で、つまり、アルファベットの羅列として覚えるのは私でも無理である。

授業中にかなりの時間を割いて単語を1つ1つ説明しているのは、単に知識や雑学をひけらかしたいからではない(正直ちょっとはある)。それぞれの単語に何か印象あるエピソードを添えることで、少しでも興味を抱くことができれば、記憶の底に埋もれるのを防ぐことができるからだ。

学校のように、語法などの説明を一切せず、ましてや発音やアクセントの確認もせず、単語のテキストを渡すだけ渡して、「試験をいついつやるからやるから、それまでに覚えてこい」と言うのと一緒にしてほしくはない。そちらの方がよっぽどいいかげんで非情である。

興味を持てば、人は進んで勉強するようになり自分のものにすることができる。だから、ほんの少しでいい、好きなふりでもいい、女の子にもてたいという不純な動機でもいい、何でもよいので英語に「興味」を持ってほしいと心から思う。

2014年7月12日 (土)

馳せる

留学2年目の初夏、カルガリーに住んでいた時だった。大学時代の友人F君が訪ねてくれた。「遊びに行くから」と言ってくれる友人や親せきは何人もいたが、本当に来てくれたのは彼だけだった。

待ち合わせのバスティーポで彼を見つけると、何とも言えない郷愁に襲われた。今ほどインターネットが便利ではなかった時代。中華街で怪しげな「国際電話カード」を購入し、毎週日曜日に大学構内の公衆電話から日本の両親に電話をかけていた。時代は平成であったが、まだ日本とカナダの距離は郷愁を感じるほどに遠かった。F君を見つけた瞬間ふと目頭が熱くなった

私たちは大学時代、(こう見えて)バレーボール部で共に汗を流した仲である。私たちの代はそれなりに強く、入れ替え戦を繰り返し所属リーグを駆け上がっていった。試合があるのは大抵日曜日で、試合もさることながら、気ががかりなことがもう一つあった。それは「競馬」である。日曜日には、競馬の重賞「G1レース」がある。

試合の待ち時間に、ユニフォーム姿で競馬新聞を読んでいて、他の部員に怒られたことがあった。再会の夜、バンフのバーで、そんな思い出を語らいながら、ビールを飲んだ。

観光名所は一通り廻った。レイク・ルイーズはエメラルドブルーの湖水と言われていたが、氷と雪で真っ白だった。ツアーの後、F君は乗馬をしないかと提案してきた。馬に乗って自然を散策しようというのである。馬は馬券を握りしめて見るものとしか思っていなかったので、その提案に驚いた。彼は大人になったのだなと思った。

しかしながら、私は愚かにも、それを無下に断ってしまった。お金がなかったのである。私の留学は、金の切れ目がカナダとの縁の切れ目という状態だった。1人スターバックスで、小説を読んで彼の帰りを待っていた。カナダとの縁は切れなくても、F君との縁が切れてしまうのではないかという不安に襲われながら。

大学を卒業して以来、競馬はご無沙汰である。大人の世界にあこがれただけの一過性のものだったのかもしれない。競馬を媒介にしてF君と繋がっていたかっただけなのかもしれない。しかし、彼と一緒に足を運んだ京都競馬場、サラブレッドが湯気を上らせて駆け抜ける迫力は、今も瞼に焼き付いて離れない。

2014年7月 6日 (日)

楽しい授業

近頃、英語の授業は、小学校を筆頭に「楽しい授業」が多い。

教具・教材が工夫され、生徒の喜びそうな仕掛けが満載である。ゲームや作業の要素を取り入れた授業も多く、はた目にも楽しそうに見える。授業参観に出席した保護者も、「昔とは違う」という感想を抱くのではないだろうか。

また、昔に比べ教科書は彩色豊かになり、挿絵や写真で溢れている。下部に並ぶ新出語は、辞書を引かずとも良いよう、すでに日本語訳が添えてある。複数の段落からなる難解そうな文章が減って、コミュニ-ケーション英語を重視した会話形式の文章が増えた。

たしかに「楽しく学ぶ」にこしたことはないのだが、娯楽的要素が強すぎたり、生徒の負担を取り除いてあげただけ(=甘やかしているだけ)であって、英語に対しての継続的な知的楽しさを抱かせるにはいたっていない。

最近、高校3年生に難解な読解を行った後、「楽しい?」と聞いてみた。すると、首をひねりながら「楽しいとまではいかないけど、読めた時はすっきりするし、気分がいい」と返ってきた。十分な答えだった。

「楽しい授業」は様々な手段で実践できるが、追求すべき「楽しさ」とは、このように「腑に落ちること」であり、知的充足を感じることではないだろうか。そこを教える側は見失ってはいけない。

ゲームなどの一過性の「楽しさ」でごまかしてはいけない。与える負荷を減らせば生徒は励んでくれると勘違いしてはいけない。生徒の顔色を窺ってばかりではなく、敢えて負荷を与えて突き放すことも必要である。「楽しさ」があるとすれば、それを乗り越えた先なのだと思う。

2014年6月26日 (木)

世界とのつながり

Wカップも後半戦。残念ながら、日本は豪快な負けっぷりで早々と姿を消した。

私がカナダにいた時は、Wカップでトルシエ・ジャパンが奮闘していた。留学生たちの話題はWカップ一色だった。熱くなりすぎて対戦国の生徒と一触即発するようなこともなく、和気あいあいとピザを片手にビールを飲みながら大学の巨大モニターで観戦していた。

サッカーは、共通のルールや価値観があるのでまだ良い。しかし、政治と宗教の話はそうはいかない。どれだけ親しくなっても、腹を割って話せる間柄になっても、避けるに越したことはない。私自身、酒の席で、韓国人と「戦後補償」について大喧嘩をしてしまったことがある。思想の絡む価値観や正義観は多種多様で正解はなく、自分の思う正義の反対側にさえ、同質同量の正義が存在するのかもしれないと思った

授業で「捕鯨」に関する記事を読んで、議論しなければならないことがあった。別に「捕鯨」を日本の伝統だの文化だのと主張する気もなかったし、鯨の肉を好んで食べるほどの美食家でもなかった。しかし、日本が捕鯨国であることを知った上で、この議論を吹っかけてきた教師に腹が立ったのである。私は孤軍奮闘し必死に抗った。「韓国の犬食文化は良いのか?」「中国では、サルを食べるじゃないか」などと言ってみたが、結局、仕組まれたシナリオ通りに踊らされ敗北したのである。

また、「国歌」を英語に訳して発表しようという授業があった。「君が代」の歌詞の意味を正確に調べてみると分かるのだが、結構、韓国人や中国人の前では言わない方が良いような文言の歌詞なのである。日教組の組合員ではなかったが、発表することで怒りを買いたくなかったので、その日の授業はボイコットした。

勘違いしないでほしいのは、このような授業が日常茶飯事ではない。お互いの国の文化や習慣を知りたい理解したいと思うのは当前のことであるし重要なことである。ただ、まれに配慮を欠いた授業で危ない橋を渡らされたことがあったので紹介してみた。日頃は、韓国人とも中国人とも親交は厚かったし、授業後に紹興酒やソジュ(韓国焼酎)を朝まで酌み交わしたこともある。

これから日本が中国や韓国とどういう関係になっていくのかはわからない。いまだ鎖国のような日本で、私のように実際に韓国人や中国人とじっくり話をしたり、同じ釜の飯を食ったりした日本人がどれだけいるだろうか。私は、そのような体験を経て、国家とそこに住む個人とを分けて考えることができるようになったと思う。

日本人としてのアイデンティティーや愛国心は大事であるが、それに固執し過ぎるのも良くない。それよりも自分個人の「人間性」を発信して理解してもらうことに注力すべきである。国家のイメージほど、おぼろげなものはないし、国家どうしの友情ほど脆く危ういものはない。将来、教え子が留学や仕事などで海外で活躍する際に、国家のイメージに翻弄されず、自分の放つ人間性で、友情や信頼関係を築いてくれればと思う。

2014年6月18日 (水)

英単語の食生活

現在、23時50分。場所はミスタードーナツ。単語プリントの改訂を行っている。

オールド・ファッションを注文したが、その名の通り、すっかりオールドになっていた。当初のサクサク感は微塵もなく、油が回ってしっとりしている。それをついばみながら、パソコンの画面に浮かぶ無数の単語と睨めっこを繰り返す。

新しく加えたい単語の候補が640語もある。何とか200語くらいにまで絞りたいのだが、いずれも捨てがたい何かしらの魅力があって、常に迷いと躊躇いの連鎖である。Wカップで日本代表を率いているザックの胸中が痛いほどわかる。

「過ぎたるは、及ばざるがごとし」だと思うので、語彙数は極力抑えたい。短いスパンで何周も繰り返せないものは単語集としての意味がない。それでは高校の二の舞である。市販の単語集の多くは2000語前後だが、私の単語プリントの語数は1300語に過ぎない。竹岡先生の力を借りてはいるが、ここまで精選された単語プリントは他にはない。

昔、カナダのマクドナルドでビッグマックを注文したら、上下のパンにキャベツしか挟まれていなかったことがある。さすがにキャベツだけのバーガーをモサモサ食べるのは嫌だったので、レジに持って行くと、今度は、お詫びの気持ちからか、中のハンバーグが4枚も挟まれて戻ってきた。ラッキーと大喜びして食べたら、その後胃もたれを起こしてしまった。

油しとしとのオールド・ファッションをついばんでいると、その胃もたれの思い出がオーバーラップしてきて気分が悪くなってきた。もし、単語プリントを改訂して以前より640個も増えていたら、生徒も私のように胃もたれを起こして、これまでに覚えたものを吐き出してしまうかもしれない。そうならない程度にまで、頑張って語数を減らそうと思う。

食欲をそそる逸品になるとは思わないが、胃もたれしないのは当然ながら、栄養価の高い逸品になるようにしたい。先人曰く「空腹は最高のソース」らしいので、お腹を空かして待っていてくれればと思う。

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