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2022年5月14日 (土)

手紙

今年の卒業生から貰った手紙を載せようと思う。毎年何人か手紙をこそっとくれる。インターネットやSNSが発達した昨今に手紙を貰うというのはすごく新鮮であり、LINEで一言二言、何ならスタンプ1つで済ませてしまうことを考えると、手紙の内容以前に手紙を書いてくれたという行為だけでありがたい。封を切って読む前なんかついつい手を合わせて拝んでしまったほどである。もしかしたら授業中に口頭で注意するよりも、手紙にしたためて帰り際にそっと渡す方が効果的かもしれないと思ったりもする。

ブログに載せることを手紙を書いた本人は知らないので、この手紙に書いてあるような信頼関係がこれを機に崩れ去る恐れはある。それでも「褒められて気分がいい」「他の人にも自慢したい」という幼じみた衝動を抑えきれないので許可なしに載せることにする。よって彼女にバレないことを祈るし、彼女のお母さんはこれを読んでも本人には伝えないで頂きたい。もちろん私に対する不平不満もあっただろうが、良い所だけを見繕って、しかもたっぷりアイシングをかけて書いてくれたようだ。とはいえ涙が出るくらい嬉しかった。ありがとう。


園山先生へ

今まで本当にお世話になりました。

私も本当に神戸大に受かると思っていませんでしたが、今合格できたのは先生のおかげだと思います。

中学3年生の時に入塾した時から指導して頂いて、今まで結構色んな塾を転々としてきましたが、東輝を辞めようとは一回も思ったことがありませんでした。

先生や東輝のメンバー全員を信頼していたし、何よりすごく楽しい時間でした。

最初は私1人で、〇〇(生徒名)、△△(生徒名)と3人でしばらく一緒にいてどんどんメンバーが増えて、仲よくなれるか不安だったりしたけどすぐに馴染んで賑やかで本当に人に恵まれたと思います。

ずっと受験は遠いもののように感じていて、6年ぶりに”試験”が近づくにつれてとても不安で、本番(特に共通テスト)は足が震えたし、神戸に一人で行った時も涙がでそうになったりしました。

気持ちが理科大に傾いて早く楽になりたいと考えたこともあったけど、振り返ると東輝の皆のことをいつも思い出して頑張っていました。

神戸大の英語も自信をもって「出来た」と言えるのは本当にひとえに東輝、特に一番先生のおかげです。

農工大から進路を変えたことを後悔したりした時もあったけど、今となるとそれが全部懐かしく感じます。

これから東京を離れることになるし、先生や皆とも気軽に会えなくなるし、叙々苑にもしばらく行けないと思うと寂しくなるけど、LINEなどで疎遠にならないようにしたいです。

本当に4年間ありがとうございました。

これからも東輝は、受験人生の中で一番大切な思い出として残っています。

〇田 〇花 より


注釈①:「叙々苑」とは高級焼き肉店で、クラス全員が第一志望に受かったら、私が全員分をおごる約束をしていた。もちろんそれは叶わなかった。叶わないからこそ約束したのだが。

注釈②: 先日、彼女から連絡があった。友達もでき、バイトも始めて楽しく過ごしているそうだ。そこまで良くはないTOEFLの結果も添えられていた。これから英語の家庭教師もやるそうである。私の教えたことを最大限に活用してほしい。



2022年4月 8日 (金)

雨去って葉桜

今年の結果はかなり良かった!歴代で最高といっても過言ではない!まず早稲田大に3人、慶應大に3人合格したのがすばらしい!またMARCHから人気頭一つ抜け出した明治大にはいっぱい受かった!国立でも最難関の一橋大に受かったし、関西の名門である神戸大にも受かった!また公立ながら超難関であり英語学習者の聖地とされる国際教養大にも受かった!(河合塾によれば、東大文系の偏差値が67.5に対し、国際教養大は67.5~70である。) さらに、法学の最高峰である慶應大の法学部にも受かったし、「法科の中央」と呼ばれる中央大の法学部にも受かった!また立教大の超人気学部で偏差値が67.5と異様に高い「異文化コミュニケーション」に合格した者もいるっ!全員MARCH以上とはいかないにしても、受験生全13人による結果であり、MARCH以上の進学率は90%を超える!こんな塾が他にあるだろうか!?

以上、開き直って自慢してみた。毎年のことながら、受験結果に対して自慢したい自分と後悔したい自分の両方がいる。性格上、口を開けば反省の弁や小言ばかりが出てくる。自分に厳しいというよりは単にネガティブなのだろう。多摩センター駅では選挙が間近なのか、候補者たちがペラペラと自慢ばかりしている。短所やミスを棚に上げて長所や成果ばかりを誇れるのは羨ましい。他塾のように窓や壁面に結果を貼り出すということもできない。そもそも人通りのない路地なので貼りだしても意味がない。また自分が受験して掴んだ合格なら分かるが、残念ながら私は受験の当事者ではない。明らかに彼ら自身が努力した結果であるし、私の指導したことが合格の一助となったとして、それを科学的に証明することはできない。でも、どうしても自慢したかったのでしてみた。

ここからは反省点だ。自分の都合のいい所だけを他人に見せたい気持ちは個人でも組織でも共通ではあるが、まともな教育、ひいては社会全体の利益を考えたら、成功と同様に失敗もちゃんと認める義務があると思う。どこの塾のチラシも、「このように教えたら成績が伸びた」とか、「このような指導法で点数がUPした」「東京大学〇〇人合格」など得意げに発表していて大成功のオンパレードである。当塾のチラシのように(申し訳程度ではあるが)英語指導の課題や改善点のような但し書きさえない。もはやどこぞの国のプロパガンダである。とにかく私にとっての受験とは、彼らのように大成功のオンパレードではなく、迷走、逆走、行き詰まりの連続であることを述べておく。

A君は後期で一橋大に受かった。前期で東大に挑んだが、不合格となり失意の中での受験だった。どれだけ後期で一橋大に受かることがすごいかを説いても彼の慰めにはならない。もう一度チャレンジするかどうかを考え中なのだそうだ。私としては東大の英語は極めて特殊にもかかわらず、その対策に二の足を踏んでしまった。もちろん東大を受ける生徒ばかりではないので仕方のない部分もある。「英語力を高めるだけ高めればどこでも受かる」というのが私の持論であり、それはそれで変わらないのだが、もっと各大学の特徴を細かに分析してみる必要性がある。

Bさんは他の学部に目もくれず法学部一本で受験に挑んだ。ただでさえ早慶は難しいのに、その法学部となればなおさらである。他の学部も受けるなど受験回数を増やしていれば、早慶に合格していただろう。進路指導で他学部を進めるべきだったとは思わないが、本人の希望を叶えてあげるほどの英語力を付けてあげられなかったことが申し訳ない。またBさんに限らずだが、今年は明治大に合格した者が多い。明治大はMARCHの中でも頭一つ抜けた存在ではあるが、早慶にあと一歩届かなかったという悔しい側面があることを忘れてはならない。

Cさんは塾生で一人、何処にも受からなかった。「便りがないのは良い便り」と言われるが、受験に限ってそれは当てはまらない。3月末になっても連絡がなかったので、こちらから連絡してみることにした。すると「補欠発表まで粘ってみて合格したら報告しようと思っていたが、それもダメだった」とのことだった。彼女の心中察するに余りあるが、「今度はちゃんと模試の結果を見せますね」という前向きな返事がきたので少し安堵した。ましになった模試の結果が送られてくるのを心待ちにしたい。

連日の雨で桜は散ってしまった。個人的には満開の桜よりも、これからの葉桜が好きである。葉を生い茂らせていく様子が、ぐんぐん成長していく生徒に重なるからである。受験生たちが去った教室はどこか寂しい。「夏草や兵どもが夢の跡」である。居なくなってはじめて彼らの偉大さを感じるのと同時に、新学年度がスタートして1か月たったが、まだまだ残された塾生たちは自覚なく力なく頼りない。私も花咲か爺さんではないので、一夜にして桜を咲かせることはできないし、ましてや名台詞「枯れ木に花を咲かせましょう」は無理である。というか、しがない爺さんに依存するのではなく、本人自らが弛まぬ努力を日々重ねていくことが何よりも大事だと気づいてほしい。おとぎ話の世界で夢をみるのではなく、現実に花を咲かせるその日まで、今はゆっくり着実に枝葉を伸ばしていくことだ。


2022年2月28日 (月)

2022年 合格結果 (随時更新)

  • <2022年 合格結果> (3/24更新)


    〇〇さん・・・・国際教養大(国際教養) ※1

    〇〇くん・・・・一橋大(経)、早稲田大(理工)、慶応大(理工)

    〇〇さん・・・・神戸大(農)、東京理大(先進工)、明治大(農)

    〇〇さん・・・・早稲田
    大(文化構想、文)、明治大(文)

    〇〇くん・・・・早稲田大(国際教養、人間科学、文)、明治大(国際日本)

    〇〇さん・・・・慶應大(法)

    〇〇くん・・・・慶應大(商)、上智大(経、総グロ、外語)、明治大(経)

    〇〇さん・・・・明治大(法)、中央大(法)、立教大(法)

    〇〇くん・・・・明治大(法)、立命館大(法、経)

    〇〇さん・・・・明治大(国際日本)、立教大(異文化コミュ)

    〇〇さん・・・・明治大(理工)

    〇さん・・・・成城大(社会イノべ)、専修大(ネット情報)


    ※1 Writingのみ指導。
    ※2 延べ人数でない。
    ※3 上位だけでなく、報告のあった全員を載せる。
    ※4 浪人生を含む。



2022年2月14日 (月)

新入生来たれ!

2月14日、ハッピーバレンタインである。「何がハッピーなんじゃい!」「現実はチョコみたいに甘くはないんじゃい!」という突っ込みが受験生から聞こえてきそうだが、大学生になった暁には思う存分に恋にうつつを抜かしてほしい。私自身、先日「渡したいものがあります」と言われドキッとしたら目も当てられぬ模試の結果だった。

さて、来年度の時間割をホームページにアップした。基本的に現高1は現高2クラスの時間になり、現高2は現高3クラスの時間に移る。私1人で2つの教室を切り盛りしているので、申し訳ないが日時の変更は難しい。1月に何人か入塾に関する問い合わせをいただいた。もっと早く決めてお知らせできれば良かったのだが、1月中は受験生が気掛かりで、とてもじゃないが新年度のことなど考える余裕がなかった。2月現在も、いまだ受験戦争まっ只中であり、各生徒の戦況や被害を予測して悶々とする日々ではあるが、来年度のことを後回しにして塾が潰れてしまっては元も子もない。私の方こそ悲しいお知らせをしなければならなくなる。とにかく入塾希望者はホームページ下部の「問い合わせ」から、氏名・高校名(中学名)・志望教室を知らせてほしい。折り返し「面談」と「体験授業」についてお知らせする。必ず返信しているので、何らかの理由で届かないない場合は電話してほしい。

昨年、「最低MARCHには行きたいです!」と勇んで体験授業を受けにきた生徒が、正直哀れなほどにできなかったことがある。授業後の面談では意気消沈し「周りが賢すぎます」と言っていた。「そんなことはない。君ができないだけなんだ」と言いたかったが、保護者の手前言えなかった。彼が「賢すぎる」と言ったその塾生たちでさえ、私に言わせれば未熟であり富士山の五合目である。本人たちもそのことは自覚していて、それはとても大事なことである。まずは井の中の蛙状態から脱却して「自分がどれ程できないか」「いかにヤバいのか」を知ることが受験勉強の第一歩なのだが、彼の場合、その事実を「むしろ周囲が賢すぎるのだ」と捻じ曲げて解釈してしまったわけだ。

彼と同じ轍を踏みたくないのなら、入塾希望者は早く行動に移してほしい。「次の定期試験が終わってから」や「部活の大会が終わってから」とかじゃなく、手の打てるうちに余裕をもって入塾してもらいたい。できる子が駆け込んでくるのなら、まだ何とかなるかもしれないが、まずそんな子は駆け込んでこないのである。高1から高2の前半はかなり肝心なので、できれば高1の春からちゃんと入ってほしい。もっと言えば、英語に苦手意識があったり、基礎から確実に積み上げたいのなら中学から来てほしい。もちろん予備校や塾の中には、「大逆転コース!」や「最短合格コース!」と打ち出したり「今からでも間に合う!」とか謳ったりして、時期を問わずに喜んで受け入れてくれる所もあるだろう。だが、まともな塾や教師は口が裂けてもそんな無責任な(詐欺まがいな)ことは言わない。

OBやOG、またその保護者からの紹介というケースが最近増えてきた。当塾を薦めてくれるなんて涙が出るほど嬉しいし、期待に応えられるよう頑張ろうと心底思うのだが、前述したように間に合う段階で来てほしいし、できれば責任感や意志の強い子、努力のできる子を紹介してくれたらなお嬉しい。中学入試や高校入試で燃え尽きてやる気のない有名進学校の子よりも、普通の公立高校でもやる気のある子、高校受験で失敗してリベンジに燃える子、はきはき喋る子や最低限の礼儀作法をわきまえた子に来てほしい。高望みだろうか?塾生なら分かると思うが、当塾においてクラスメイトの存在は大きい。お互い足を引っ張りあって「腐ったミカン」になることもあれば、相乗効果で皆が「完熟マンゴ―」になることもあるからだ。

先日、「明治大に合格しました」という嬉しい報告が来た。その子の第一志望はまだ先だが、どんな大学であれ合格という響きはイイものである。神がかり的な力が発揮できるようなことはもはや望まない。ただこれ以上ハプニングが起きないこと、そして持てる力がありのままに発揮できることを祈る。ガンバレ受験生!



2022年1月25日 (火)

共通テスト結果

波乱に満ちた共通テストは終わった。「オミクロン株の急増」「東大会場の刺傷事件」「トンガの津波」だけかと思ったら「数学の歴代最低平均点」が待っていた(その後、家庭教師紹介サイトを悪用した「カンニング事件」も加わることになる)。当塾の生徒達も「死にました」「めっちゃ最悪です」「トイレで泣きました」「出題者クソです」と数学がいかに難問(悪問)だったかを(塾に来るやいなや)語り始めた。実社会で数学を活用することを想定した問題作成だったらしいが、正直、嫌悪感や苦手意識をより高めただけでマイナス効果である。私としては「英語がどうだったのか?」を一刻も早く知りたかったのだが、生徒の口から出てくるのは数学の文句ばかりである。まあ英語の不満が出ないということは「英語は大丈夫」ということの裏返しなのだろう。

昨年、「センター試験」が廃止され「共通テスト」が新たにスタートした。
全ての教科を一斉に変えてしまうと猛烈な反感を買うからか、予想していたほどの大きな変化(難化)は見せなかった。2年目である今年、ご存知のように本格的なモデルチェンジとしてまず数学がやり玉に挙がり、この有り様である。それでは、施行3年目である来年はどうなるのか?私の予感ではおそらく英語がマシマシに(大幅に)難化するのではないかと踏んでいる。英語の問題作成者はプライドが高いので、節度のない他大学のようにやたらめったら難単語を使うことで権威を示すことはないだろうが、①「英文構造の難化」②「トピックの難化」③「情報処理(設問)の難化」④「文量の増加」などその他の点でいくらでも難しくすることは可能だ。すでに平均点が60点を超え多少なりとも攻略された感があるので、これ以上の平均点アップは避けたかろう。共通テストになって、これまで以上に「国語力」や「情報処理能力」が求められるようになったので、(手遅れかもしれないが)日頃から読書の習慣をつけておきたい



<2022年 共通テスト結果>

  Reading Listening 合計
Aさん 96 75 171
Bさん 85  92 177
Cくん 92 77 169
Dくん 89 93 182
Eさん 89 88 177
Fさん 87 78 165
Gくん 83 69 152
Hさん 76 54 130
Iさん 91 80 171
Jくん 95 86 181
塾内平均 88.3 79.2 167.5
全国平均 61.8 59.4 121.2

※1/25(火)判明分のみ。
※既卒生を含む。
※多摩教室、調布教室の混合。



2022年1月14日 (金)

合格祈願


ガンバレ受験生!


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2022年1月13日 (木)

腹腹ドキドキ

年末年始は京都に帰省した。亀岡市はかつては10万都市だったが、今では8万5千人くらいにまで減り、以前は賑やかだった駅前もシャッターを降ろした店舗が並ぶ。そこに煌々とミスタードーナツがあるのだが、年の瀬にも関わらず客足は少なかった。80年代の洋楽が終始流れていて、湯気の立つコーヒーを片手にアイシング(砂糖)たっぷりのドーナツを頬張っているとカナダの国道沿いの寂れたダイナーにいる気分になる。温かな店内から外を見るといつの間にか雪が深々と降っている。少し幻想的でどこか懐かしい別世界に迷い込んだかのようであった。いっそこのままボーっとしていようかとも思ったが、ふとテーブルに目を落とすと、そこには添削中の生徒の英作文があり、そのできを見るやいなや一瞬にして現実に引き戻されてしまった。

それにしてもミスドには客が来ない。店員も暇なのだろう、何回もコーヒーのお代わりを注ぎにくる。田舎のミスドとはこんなものなのか?あるいはオミクロン株を過度に恐れているからなのか?コロナ感染者は急激に増えているが、私自身もはやそこまで気にならなくなった。なんならコロナがある方が、むしろ社会全体に薄っすら緊張感があって良いとさえ思う。それは教育の場も例外ではない。生徒たちの勉強に対する意識は少なからず高まった。当たり前に与えられていた勉強する機会が奪われたり脅かされたりしたことで意識の変化があったのか、あるいは見通せない不安定な世の中で生き延びるために「勉強しといた方がいいのかも」という本能的な予感を抱いているからなのかもしれない。

年が明けて1月3日。東京に戻って23時。奥さんと二人で馴染みのラーメン屋に行く。そこはいわゆる二郎系ラーメンの店である。二郎系ラーメンの特徴は、無料で野菜(ほぼモヤシ)、天かす、魚粉、辛さ、ニンニク、玉ねぎを増すことができる。一段階目の増量を「マシ」と言い、さらに二段階目の増量「マシマシ」と言う。私は変化を好まぬ凡人なので、全て普通で注文するのだが、奥さんはそのシステムを最大限に利用し「野菜マシマシの麺少なめ」という型破りな注文をする。うず高く積まれたもやしの山が届くわけだが、それはまるで海面から突き出た氷山のようである。

毎年書いてるが、この時期の私は胃の調子を悪くする。年末年始に食べすぎるせいもあるし、こんな時間にラーメンを食ってるからだというご批判もあろう。だが、受験への不安やストレスがマシマシ、いやマシマシマシマシになるからだというのが大きい。「お宅の生徒は優秀ですね」とたまに言われるが、そんなことはない。ほとんどが寝る間を惜しんでの自転車操業であり、ギリギリの綱渡りであり、土俵際でがぶり寄られている力士であり、一発逆転を狙うギャンブラーであり、片足を棺桶に突っ込んで生死の境を彷徨う旅人(?)である。幸か不幸か少人数授業であるが故に、その苦境や逆境が彼らの何気ない言葉や態度から恐ろしいほど透けて見えてしまうので余計に怖い。なんなら毎年受験を疑似体験していると言っても過言ではない。

空になりかけたキャベジンの瓶に不安を感じ、アマゾンで新たに300錠瓶を注文した。酷い時用にガスター10も常備してある。現在、私の胃の活動レベルは平常時の6割減である。だが、今週は共通テストなので験(げん)を担いでとんかつを食べまくらねばならない。すでに数日前、近くのスーパーで「合格とんかつ弁当」なるものを発見し喜び勇んで食べた。お菓子の「カール」を食べて「受カール」や「キットカット」を食べて「キット勝ッツ」みたいな新参者のダジャレでは効果が薄かろう。やはり願いを聞き届けてもらうには昔ながらの神聖なダジャレ「とん勝つ」しかない。また私の胃痛のように、苦しみの果てにこそ神のご加護があるのではなかろうか。試験当日を含めてあと数回は食べるつもりである。私の胃よ、なんとか持ってくれ。


2021年12月20日 (月)

コロナ禍の卒業生たち

1年365日、受験戦争の最前線で指揮をとる日々にあって、卒業生の訪問(慰問)はひと時の潤いをもたらしてくれる。熱血で人望熱い学校教師ならともかく、場末のしがない塾講師にもかかわらず会いにきてくれるというのは幸せなことである。コロナ禍でなければ、一緒に食事をしたり酒を酌み交わしたりしたかったが、それはまた次の楽しみとして取っておきたい。そんな今年訪ねてくれた卒業生たちを紹介してみよう。

夏頃だったか、2年前の卒業生Kさんが教室を訪ねてくれた。髪にウェーブがかかり、メイクも洗練され、あんなにイモっぽかった(純朴な)子がこんなに変わるものなのかと驚いた。そのKさんは大妻女子高から東京理科大に進学した。昨年はコロナのため、大学には数えるほどしか通えなかったらしい。本屋でバイトをしていると言っていた。単位はいくつか落としたらしいが、何とか進級はできたそうだ。口下手で、天然キャラで、その割に頑固なところは相も変わらずだったが、ここまで腹を割って話したことがなかったので新鮮だった。簿記の2級をとる勉強をしているらしいので、ぜひ次にあうときにその結果を楽しみにしたい。

2月の終わりには、Iさんが訪ねてくれた。弟2人が通っているので、その三者面談に同伴してくれたのだ。中学では生徒会長を務めたこともある彼女は、話す内容が論理的かどうかはさておき、大きい声ではきはきとよく喋り、場を明るくしてくれる快活な子だった。現在は成蹊大に通っている。MARCHを目指して受験したが、あと一歩及ばなかった。本人はずっとそのことを引きずっていて、気まずくて塾に顔を出せずにいたそうだ。私が過度にプレッシャーを与えすぎたせいかもしれないと反省している。久しぶりに元気な顔が見れて良かったし、弟との面談ではあったが、いろいろと頑張っている話が聞けて安心した。覇気のない弟に「もっと大きい声ではっきり言いなよ!」と注意してくれたのだが、私もビクッとなるほどの迫力だった。最近受けた
TOEFLで高得点がとれたらしく、英語に対する自信も回復しつつあるそうだ。

さらに遡って今年1月には、お笑いトリオ(男子3人)が会いに来てくれた。3人とも桜美林出身である。それぞれに個性があり、ギャグは寒いが楽しい連中だった。それぞれラグビー部、陸上部、吹奏楽部とハードな部活に励んでいたが、定期試験でも授業を休むことなく真面目に頑張った。3人がお互いをライバル視する関係が面白かったし、それが功を奏したのか、それぞれ、明治大、中央大、立教大に進学した。大学生活1年目はいずれもコロナの為ほとんど大学に通えてないということだった。上述した女子2人と違って、そこまで外見的な変化は見られず、ただひたすらにお調子者だったのが懐かしく嬉しかった。野球部に入り大好きな野球を再開したとか、洞窟同好会に入ったとか、東進でバイトをしているとか言っていた。それぞれにお母さんが心配性だったので、受験が終わってさぞほっとされていることだろう。三者面談のたびにお母さんが「うちのおバカちゃんは大丈夫でしょうか?」と言っていたのが忘れられない。

今年9月には、慈恵医大のTさんが来てくれた。正確には、塾生に医学部志望の
子がいるので、その子にアドバイスをしてもらったのである。Tさんは経済的理由から国立大の医学部にこだわっていたが、最終的に国立の弘前大と私立の慈恵医大で揺れて慈恵大に落ち着いた(ちなみに弘前大は最高点で首席だったそうだ)。高額な授業料のため奨学金を借りたらしいし、お父さんも残業を頑張ってくれているらしい。1回生の時は成績優秀者で、一部授業料が免除されて助かったとも言っていた。医者になりたい、人を助けたいという情熱がものすごいので、たぶんお金の問題くらいで立ち止まるような彼女ではない。きっと大丈夫だし、これまで投資した分はすぐに回収できる。現在は奥さんの英会話の授業をとっているので、奥さんから様子を聞いている。その奥さんも大絶賛で「彼女はきっと素晴らしい医者になるわ!」と言っている。

卒業生諸君、別に大きな成果を誇らなくてもいい。悩みを抱えて相談に来たっていい。なんなら漫画やアニメの話でもいい。手紙でもメールでもLINEでもいいので、近況を聞かせてくれると涙が出るほど嬉しいです。まだまだコロナで鬱陶しい世の中ですが、間違っても「自分だけ運が悪い」とか思わぬように。社会の雰囲気やマスコミに煽られて腐らぬように。
ありきたりですが「ピンチはチャンス」です。明るい未来予想図を描いて邁進してください。そして英語を武器に思う存分に活躍してください。


2021年11月16日 (火)

蜘蛛の糸

パソコンのEnterキーが壊れてしまった。押しても感度が鈍く、なかなか入力ができない。せっかくお洒落なカフェで、気分よく仕事をしていたのに最悪である。百歩譲って他のキーが使えなくなるのは構わないが、なんで使用頻度の高いEnterキーなのか。強く押しつけてみたが良くならないので、思い切って引っぱってみたらブチッと取れてしまった。「押してダメなら、引いてみな」と誰かが言ったが、あれは嘘である。仕方がないので、そっとボタンを載せて作業を続けたが、押すたびにその反動でカバーがあちこち跳んでいく。

日常会話で、"enter"という単語はあまり使わない。特に「建物に入る」の意味ではそうである。私だけかと思ったら、意外にも知り合いのネイティブ達もそうだと言っていた。日本人は「入る」="enter"一択であるかのように多用するが、実際は"go into"や"go inside"で済ませてしまう。しかし、パソコンでEnterが使えないと、その"go into"も 使えない(打てない)のである。これまで「普段使わんよ、こんな奴」と散々enter批判をしてきたので、その仕返しなのかもしれない。もう十分ありがたみは分かったので、機嫌を直して元に戻ってくれないだろうか。

ところでenter「入る」と言えば、私も受験生も"enter college"「大学に入る」ことで頭が一杯なのだが、この表現も実際は"get into college"の方が好ましい。そもそも"get"には「手に入れる」「到着する」など様々な意味があるが、いずれにも「苦労する過程」が仄めかされている。例えば"go to sleep"「眠りにつく」より、"get to sleep"「眠りにつく」の方が、寝つけない中、必死に寝ようとする感じが窺える。喫茶店で「コーヒーもらえますか?」と注文する時、"Can I get a coffee?"とは言わずに"Can I have a cofffee?"と言うのは、そこにコーヒーがあるのが当たり前だからである。薬局や文具屋でコーヒーを注文するのなら、説得、口論、殴り合い、警察沙汰などが想定されるので"get"が使えるかもしれない。

そう考えると、やはり「大学に入る」は"enter college"よりも、getを用いて"get into college"と言う方が「苦労の果てにやっと入った」という感じが出てふさわしかろう。当塾の受験生たちもその過程の真っただ中にあり、睡眠時間と魂を削りながら必死に頑張っている。まさにgetにふさわしい活躍ぶりなのだと信じたいのだが、先日やった共通テスト模試が微妙だったのでもっと頑張ってほしい。それなりに英語の読解力はあるはずなので、それを共通テストにカスタマイズしなければならない。英語としてはそこまで難しくはないのだが、情報量の多い文章を早く正確に読むという条件がきついのである。詳しくはまた次のブログで語ろうと思う。

2年前だったか、高2生を敢えてこの時期に受験生クラスに参加させたことがある。いかに実力や熱量に差があるのかを痛感してほしかったというのもあるが、受験生たちの「もっと早くから頑張っておけばよかった」という後悔の弁や「今のうちにしておかないとヤバいことになるぞ」という脅しの声を生で直に聞いてほしかったのである。どんな優秀な子(東大志望)でも、受験までの過程では様々な問題にぶち当たるし、不安や不満、後悔やストレスにまみれることは避けて通れない。「そんなもの何も感じてない」と言う受験生がいたら、それは単純にサボっているのである。とにかく下級生たちにとって、受験生たちの鬼のような形相を拝顔し、耳に媚びりつくような呪詛の声を拝聴する衝撃(価値)はとてつもなく大きい。それはもう、お経を唱えて早く成仏させてあげたいほどである。

どこの学校でも、ほんの一握りの成功者を呼んで「高3の夏に部活を引退してからでも志望校に受かりました」みたいな文武両道アピールや「先生方のおかげで東大に合格しました」みたいなご機嫌とりの体験談を語らせるが、私にしてみれば奇跡体験アンビリーバボーか、通販のわざとらしい感想のようにしか聞こえないのである(学校の先生たちも彼らの存在がむしろ例外的であることは分かっている)。その輝かしい体験談からアドバイスや励ましを得られることもあるが、その弊害として誤った安堵感を抱いてしまう方が問題なのである。私なら受験で何かしら傷を負ったり辛酸を舐めたりしたOB・OGにお願いし、何がダメだったのかの検証を含めて語ってもらう。魂への響き方が違うのである。

とにかく受験生たちは頑張っている。天から蜘蛛の糸を垂らしてあげたいが、私もどちらかと言えば地獄側の人間である。私自身、糸を手繰って登る体力はもはやないので、下から「ガンバレー!」とか「みぎっ、ひだりっ!みぎっ、ひだりっ!」と声をかけることしかできない。大学入試の場合、中学や高校入試と比べて垂らされる蜘蛛の糸は多いので、第2志望、第3志望を含めれば結構な数になる。つまり、ちゃんと実力のある者なら手を滑らせて落ちてしまっても、新たな糸が垂らされて救済される慈悲深いシステムになっているわけだ。それを勘違いしてか「実力が無くても数打ちゃ当たる」と思ってしまう愚か者もいて、当然ながらそんな受験生の糸は容赦なく全てプツリと切られてしまう。それが全員ではないが一定数必ずいることは、毎年下から眺めてきた私が言うのだから間違いはあるまい。


2021年10月10日 (日)

カナダ留学 番外編 ~机を壊した2人~

前回のブログで述べた「机なき部屋」の写真がないかとあちこち探してみた。部屋の全景が分かるものも、段ボール机が写っているものもなかったが、それにまつわる写真が見つかったので、感想や説明を添えて載せてみる。

Cimg0340

↑の写真を見てもらえば分かるが、机がないのでノートパソコンを床に置いている。パソコンの後ろにあるのは洗う前の洗濯物で週1のペースで洗濯していた。どこの家庭にも必ず乾燥機があり、そこにダウニー(柔軟剤シート)を入れて乾燥させるのだが、それ以来ダウニーの匂いがダメになり少しでも匂いがすると吐きそうになる。それはともかく、横になってるのが孫のNathan(ネイタン)で小1くらいだった。寝ている時も「起きてる?」とドアをこっそり開けて入ってくる悪戯っ子だった。この時はパソコンで一緒にジブリの「天空の城ラピュタ」を見ていたが、興味が失せてしまったようだ。

Cimg0323

↑の写真はベッドの上でネイタンと。上の歯がないのでひょうきんである。机はなかったのだが、ベッドはクイーンサイズと大きく快適だった。壁の色がお洒落なのか奇抜なのか分からないが日本ではありえない色だった。左に写ってるのが若かりし頃の私だ。よくYasuと呼ばれていたが、韓国語では「Yasu=モンスター」の意味らしく、毎回「知ってる? Yasuって韓国語でモンスターなんだよ!」と言われるのに嫌気がさして、自己紹介でこちらから「I am a monster」と言うようにしたらすごい驚いていた。今更ながらこの写真を見て確かにモンスターだなと思った。

Cimg0336

↑の写真は孫のAlisha(アリーシャ)と。まだ幼稚園児だったかな。よくスピーキングの練習相手になってもらった。私の英語が拙いから通じないのか、彼女が幼いから通じないのか分からなかったが、よく怒られた。結局なんやかんやで意思の疎通はできていた気がする。2人とも立派な大人になっているだろう。ただしカナダの食生活を考えると太っている可能性が大である。とにかく、この写真を見ても(私の表情を見ても)わかるように、ホームステイは決して嫌なことばかりではなかった。というか、嫌なことも含めて経験すること全てが新鮮だったので、毎日が楽くて嬉しくて仕方なかった。「ウルルン滞在記」の別れの場面で旅人(俳優)が泣いているのを見て理解できなかったのだが、半年後にカルガリーに向かう際には不覚にも泣いてしまった。「もう会えないかも」と思うとどうしても涙が溢れてくるのである。塾生には「私のような」とは言わないが、ぜひ留学やホームステイ体験してほしい。きっと人生観が180°変わるはずだ。



2021年9月30日 (木)

カナダ留学 到着編&ホームステイ事情

「日本から手ぶらできたのか…」ホームステイファミリーは、ウエストポーチ一つで玄関に佇む私を見て驚いていた。我ながらとんでもない留学生が来たなと思った。ノートパソコンも電子辞書も何もかもコーディネーターさんの車の中である。お土産も手元にないので「どうか、これで一つよしなに」の挨拶もできない。すぐに電話をしてもらったので荷物は翌日に届けられ、「一つよしなに」の儀式は一日遅れでとり行われたのだが、もはや想定していた効果を期待できるものではなかった。今振り返ればこれは波乱に満ちた留学生活の幕開けにすぎず、仮にお土産がタイミングよく渡せていたとしてもこの先の様々な衝突は避けられなかったと思う。

ホームステイの不満を書くと「我儘が足りないんじゃない?」とか「運が悪かったんじゃない?」とか思われるかもしれないが、実際には、留学生がお互いのホームステイ先の不満を言い合うのは日常茶飯事であり、言語や文化の違う(おそらくは違わなくても)他人と暮らすというのは得てしてそういうものである。「ウルルン滞在記」のような短期間の滞在なら、相手の嫌な部分を知らないままで済むかもしれないし、番組スタッフがそれなりに選りすぐったステイ先を用意すると思うのだが、現実の留学はもっとシビアなのだ。

ホームステイ事情として、まず知っておかなければならないのは、彼らの第一の目的は「お金」である。もちろん文化的な交流やら、布教活動の一環やら、単なる世話好きやら、受け入れる表向きの理由は様々だが、留学生を受け入れる動機の根幹にはお金がある(日本で日本人家庭が外国人留学生を受け入れる事情とはまったく違う)。1人の留学生を受け入れると月800~1000ドル、日本円で8万~10万円の収入になる。ウイニペグのある家庭は、地下に部屋を増築して4人もの留学生を受け入れていた。つまり副収入として毎月32~40万円が入ってくるわけだ。ただ断っておくが、そのような家庭が必ずしもダメなホームステイ先だとは限らない。実際にその家庭も「面倒見がいい」ことで知られ、留学生が順番待ちするほどに人気があったからだ。留学がもっと盛んなバンクーバーやトロントでは、家の敷地に留学生用のプレハブの家をわざわざ建てて、そこに留学生を詰め込めるだけ詰め込む家庭もあった。私たちはそんな悪評高きホームステイを「豚小屋」と呼んでいた。

ホームステイファミリーに、日本人留学生は好まれる傾向にあった。中国人や南米人は自己主張が激しいし、門限やお風呂の時間などその家のルールを守らないことが多い。韓国人も同じく自己主張は強かったし、同族意識や自国文化を引きずり過ぎる傾向にあった。日本以上に年功序列にうるさく、また食事にキムチが欠かせないのか「冷蔵庫や部屋がキムチ臭くてたまらない」という嘘のような本当の話も聞いた。一方で日本人はというと「郷に入っては郷に従え」の精神が根底にあるのか、比較的家のルールは守るし、自己主張は控えがちである。よってステイ先と衝突するリスクは少なく、彼らにとっては扱いやすい存在だった。(その当時の個人的見解です)

「それが良いことなのか」と問われれば「否」である。実際に我慢をし過ぎて精神的に病んでしまう日本人留学生は多い。そうならない為にも、「いい子ちゃん」にならず、ステイ先に対してそれなりに主張や要望を通すことは重要である。具体的には、お風呂に入る時間や門限、勝手に冷蔵庫を開けて中のものを食べたり飲んだりしてもいいのかなどである。それらを初日のうちに確認し、すぐさま遠慮せずに実行しなければならない。引いて待つのではなく、彼らの生活圏に積極的に踏み込んで行くのである。数日の滞在ならともかく、数か月も一緒に生活するとなると、他人行儀のまま振る舞い続けるのはさすがにもたない。途中から態度をガラッと変えるのも変なので、なるべく始めから大胆に行動していった方が得策なのだ。「ずっと良い子でいよう」「ニコニコしていよう」「イエスマンに徹しよう」と思うのは厳禁で、お金を払っているんだから主張すべき所は主張するという姿勢が大事である。

話はカナダ到着の初日に戻る。京都卸売り市場でのバイト経験から、どんな理不尽なことにもめげない自信があったが、用意された自室に行くとベッドやタンスはあるものの「机」がない。心を落ち着けてどんなに見回してもない。もう少しで「カナダに何しに来たと思ってるんですか?勉強でしょ!部屋に机がないってありえないんですけど!」と突っかかりそうになったが、初日から揉めるわけにもいかず、またそんな英語力もなかったし、トランクに忘れた荷物のことで気力も失っていたので、弱々しい笑顔で「どこで勉強したらいいですか?」と訊くのが精一杯だった。すると台所のテーブル(=食卓)を指さされ「ここでやればいいのよ」と言われた。

普段なら泣き寝入りするはずの私だったが、それをきっかけに頭の中の何かがプチンと切れた。それを了承し、「その言葉に二言はないよな!」とは言ってないものの、毎日3,4時間キッチンテーブルを占拠した。むしろ自室で勉強するよりもはかどったし、発音を矯正してもらったり、質問もその都度訊けたりしたので良かった。また、結果的に引きこもりにならずに済んだので、精神衛生上にも良かったのかもしれない。後日、やっぱり自室に机が欲しくなった私は、近くのショッピングモールでダンボールを拾ってきて机を手作りした。その出来に満足していたが、教会の帰りに遊びに来た孫2人によってすぐさま破壊された。それ以来、自室に机を持つ夢は諦めた。



2021年8月24日 (火)

夏の終わり

ああ、ブログの更新が滞っている。毎週ブログを書いていた昔の自分が信じられない。三者面談と夏期講習の準備に追われ、また空いた時間もついついオリンピックを見てしまい(今は甲子園を見ている)ブログを書く暇がない。このブログを楽しみにしている数名の為にも筆を執ろうとするのだが、心にゆとりがないのでオリンピックへの皮肉しか出てこない。日本人選手の活躍を見てもっと感動するかと思いきや、どこか心の底から喜べない自分がいた。コロナによる日々の精神的ストレスのせいもあるが、そのコロナによって明るみに出たオリンピックの闇(利権絡みの諸問題)にうんざりしたからというのが大きい。生徒たちの前で「金持ちになって塾を建て直してくれ!」と正直に言う私の方がよっぽどまともだと思うのである。

先日、夏バテ解消の為に、大好物のトウモロコシを食べようと近所のスーパーに走った。興奮気味に売り場につくと、一人のお婆さんが実の詰まりを確認するためか、トウモロコシの皮を片っ端から剝いているのを見て卒倒しそうになった。剥き出しになったトウモロコシは何とも哀れである。もはや買う気は失せてしまったのだが、このまま帰るわけにもいかず、代わりにアイスクリームを買うことにした。カナダでは4リットルのバケツ入りアイスをスプーンで直に掬って食べていたほどにアイス好きである。その中でもマイブームの「スイカバー」を買う。箱の中にはスイカバー3本とメロンバー3本が入っていて、両方とも種がチョコレートになっている(すばらしい)。本物のスイカもメロンも嫌いなのだが、スイカバーはなぜか好きだった。あまりにも好きすぎて、現在、昼にメロンバー夜にスイカバーのサイクルになっている。奥さんに夏バテの原因は「それでしょ」と言われた。

夏の三大祭りの一つ「三者面談」は概ね終わった。わざわざむさ苦しい所まで足を運んでもらい申し訳ない。しかも報告する内容が内容ならばなおさら申し訳ない。冷たい麦茶でも出せれば良いのだが、常温の水しかない。正直に良いことも悪いことも言うようにしているが、それゆえに衝撃を与えてしまい、目の前で小競り合いが始まることもあれば、その場で笑って済ませていたお母さんに家に帰ってから鬼のように怒られたという生徒もいた。褒めるだけなら楽なのだが、注意喚起、手遅れ宣言などを告げるのは、私の方も精神的ダメージを被る。面談後も言わない方が良かったのではないかと自問したり、もうちょっとオブラートに包んだ言い方はなかったのかと後悔したりすることも多い。

また三者面談の場合、保護者の前で生徒の名前を呼ぶのが難しい。いつもの調子で名字を呼び捨てにしてしまい、お母さんも「はい」と反応してしまって「すいません…」ということがある。また最悪の場合、本人にため口で話していた勢いのまま、お母さんにもため口になってしまうこともあった。決してわざとではないのだが、どうか無礼な言動をしていたら私の方こそ注意喚起をしていただきたい。面談でお見せした模試の結果は、あくまで参考である。それが生徒の実力を100%反映したものではない。日頃の授業で生徒たちの一挙手一投足を見ているので、点数に反映されていない部分もしっかり評価し伝えるよう心掛けている。

8月半ばの「夏期講習」が終わると共に、心なしか夏の暑さは和らぎ、セミの鳴き声にも勢いがなくなった。すでに夏の終わりというか、すでに一年の終わりすら感じる今日この頃である。毎年言っているが、ここから受験まではあっという間なのだろう。夏期講習に参加した生徒諸君はお疲れ様だった。「多摩と調布の対抗戦だ!」と煽りすぎたせいで全体的に委縮してしまい、初日はすごく授業がやりにくかった。「向こうの教室の人たち賢そうです」「あっちの〇〇くん頭いいですね」と決してそんなことはない生徒にビビっていたのが面白かった。「隣の芝生は青い」ならぬ「隣のメガネは賢い」のである。講習期間中は単語テストを毎日したので「しんどい?」と訊くと「全然です」と言ってくれた頼もしい一年生もいて感心した。コロナのせいで遠出が減ったのか出席率が高くて嬉しかったが、その分旅行やら合宿やらのお土産がもらえなかったのは残念だった。

生徒の中には当塾の授業が大好きなマニアックな子がいて、講習の予定を立てていた6月に「夏期講習やるけど来る?」と聞くと「死んでも行きます!」と涙がちょちょ切れそうなことを言ってくれた。しかしその後、吹奏楽部のコンクールが講習日と重なることが分かり、かわいそうに「死んでも行きます!」と言ってしまった手前、もはや「休みます」とはなかなか言えなくなってしまった。図らずも「講習に来る」か「死ぬ」かの二択を迫られることになってしまったのである(もちろん「休んでもいい」と私は言った)。結局、その子はコンクール参加後に急いで授業に来てくれた。私の授業がそれほどまでに好きなのか、あるいは散々いじられて引くに引けなくなってしまったのかは分からない(後者だろう)。コンクールの結果は銀賞だったらしいが、私は金賞を贈りたい。




2021年6月30日 (水)

夏の三大祭り

夏、故郷京都では、日本3大祭りの1つ「祇園祭」がある。正直、宵山などは鉾は動かずじっとしているだけだし、本番の山鉾巡行も何かダラダラしていてスピード感がないので、これといった見所はない。人の流れに身を任せて、ダラダラと露店で買い食いする程度である。なので数日前にふらっと四条通りに出かけてみる方が、準備中の山鉾をじっくりと眺められるのでお勧めである。コロナ禍なので昨年に引き続き規模を小さくして行われるとは思うが、神聖な儀式である以上、世俗的な露店や観光客が減った方が原点回帰できていいのかもしれない。さて、これから当塾においても「夏の3大祭り」がある。①塾内模試、②三者面談、③夏期講習である。盛り上がっていこう!

まず7月に入ってすぐに(塾内だけの)「模擬試験」を行う。高1から高3までの全員が同じ試験(過去のセンター試験)を受ける。この模試の醍醐味は何と言っても下克上の要素を多分に孕んでいる点だ。きれいに3年→2年→1年と固まって並ぶことが理想だが、現実はそう甘くはない。センター試験は良質な試験なので、学年の垣根など無視して実力順に点数が並ぶ。3年生は最低でも8割、できれば9割を超えてほしいし、絶対に下級生に抜かれることのないように。2年生は前回(1年時)の悲惨な結果から、どうか大幅に成長した姿を見せてほしい。1年生は塾内で最下位をとらないように頑張れ。ちなみに、去年から「多摩教室」vs「調布教室」といった団体戦の様相も帯びていて、体育祭みたいでワクワクしている。

2年前の高3生(男子)が、その模試後に「試験中真っ白になりました…」と真っ青な顔をして言ったのを覚えている。ひょうきん者でムードメーカーだった彼が、その日の帰り道、人目をはばからず泣いていたというのは当時のクラスメイトから(こっそり)聞いた話である。本番のセンター試験では余裕で9割を超え(確か189点だった)、第一志望の立教大の観光学部に進学していった。かの日の号泣事件は笑い話と為りえたわけである。とにかく、入試本番のプレッシャーなどこの比ではないのだから、今のうちにプレッシャーに耐性をつけておくべきであり、今回の模試はそんな「ワクチン接種」的役割がある。また、努力不足やさぼり癖のある子へ悲惨な現実をつきつける「ショック療法」的役割も担っている。

その模試が終わると次に待つのは「三者面談」だ。日頃の授業の様子(単語テストがいかに悲惨か)を、もちろん先ほどの模試の結果も含めてお伝えする。単語テストの点数を親に隠したり嘘をついたりしている者もいるようだが、この面談でバレてしまうので、日頃から嘘をつかないようにするか、嘘をつかなくてもいい点数を取るかを心がけてほしい(後者をお勧めする)。受験生に関しては「子供に全て任せています」というのであれば二者面談でもいいかなと思っているが、それ以外の学年は保護者と私で挟み撃ちにしたいので三者面談でお願いしたい。

この時期になると毎回のように言ってる気もするが、三者面談は緊張で胃が痛くなるほどに苦手である。たまにお父さんお母さん共に参加されて3:1の構図になり、もはや私の方が面談されているような気になることもある(最大で兄弟も加わり、5:1となったこともある)。生徒にプレッシャーに耐性を付けろと言っておきながら、私自身いつまでたっても三者面談のプレッシャーに耐性が付かない。なので生徒諸君は「もうすぐOne Pieceの100巻が出ますね」などと漫画の話をして場の空気を和ませてほしい。ただし、その時の保護者の顔色次第では「こんな時に漫画の話をするな」と一喝するかもしれないが。

最後にやって来る祭りは「夏期講習」である。お盆の1週間に行う予定で、高1年から高3年まである。基本強制ではないのだが、普段から頑張っている子が参加して、普段頑張れていない子が参加しない場合、社会の縮図を見ているようでやるせない気分になる。また、部活を理由に休むのもダメとは言わないが、たかだか部活の練習に私の授業が負けたとのかと思うと少し悲しい気分になる。一方で受験生に関しては「来なくていい」「来てはいけない」という子もいる。それこそ「他に優先すべきこと(教科)があるでしょ」「英語は大丈夫だから他をがんばれ」という子もいるわけだ。そのように私に言われるのなら(英語は)一人前である。

講習の詳しい日時などは追ってお伝えするが、「多摩教室」と「調布教室」と合同で行う。公平を期すために、講習の前半は「多摩」で後半は「調布」でみたいなことになると思う。その際申し訳ないが、電車移動をお願いしなければならない。自粛続きで旅行のできない昨今、「電車で小旅行しているのだ」と思い込んで楽しんでみてほしい。なんなら授業後に現地のマックやミスドに寄って「どこ受験するの?」「分からない所があったんだけど質問していい?」「先生むかつくよね!」などと日頃話せていないクラスメイトと仲を深めてみるのもいい。とにかく、別の校舎の生徒達と学ぶことは刺激になるはずで、どんな化学反応が起こるのか楽しみである。



2021年5月30日 (日)

カナダ留学 旅立ち編

おそらく、コロナが一息つくと、日本を含めて世界各国で留学ブームになる。例えば、留学すると圧倒的に日本人より韓国人の方が多いことに気付くのだが、その原因の一つに兵役義務の存在がある。彼らは貴重な人生の2年間(たいていは大学在学中)を辛い軍隊生活に捧げなければならない。その失われた2年間を取り戻すために、より積極的に、より有意義に人生を送ろうとして、留学を決意する者が多く出てくるわけだ。おそらくコロナの影響で、少なからず似たような意識の変化が日本人にも起こるのではなかろうか。コロナが終息するやいなや、その反動で皆が一斉に留学を決意し、留学したくても「応募が殺到して1年待ち」なんてことにもなるかもしれない。さらには、その人気の高まりに乗じて、授業料や渡航費の大幅な高騰もあるかもしれない。そんな留学したくてもできない状況にイライラ、ウズウズしている人のために、私の留学体験を紹介してみよう。

私が「留学しよう」と決断したのは、確か大学院卒業を控えた秋だった。すぐにでも留学したい気持ちはあったが、現実的な問題としてお金がなかった。そこまで散財する性格でもなかったが、留学にはかなりのまとまった額がいる。また、それなりの成果を上げるまでは帰ってこないつもりだったのでなおさらである。つまり、お金があればあるほど、それに比例して長く滞在できるシステムだった(最終的には5年近く滞在できた)。そこで、これまでの塾講師のバイトに加えて、京都の卸売市場で朝5時から午後2時まで働いた。時給は良かったが、筋骨隆々のおじさん達に理不尽に怒鳴られるし、汗まみれの泥まみれだし、10キロを超える大根やキュウリ(の箱)をトラックに積み上げて配達するの繰り返しなので筋肉痛でボロボロだった。とはいえ、そのおかげで体力面だけでなく精神面でもすごく鍛えられたし、何より留学の覚悟も揺るがぬものとなった。

さて、バイトと並行して留学先を考えなければならない。イギリスの英語は堅いし、そもそも生活費や授業料が比較的高いので却下。オーストラリアやニュージーランドは割安だが英語の訛がきついので却下。アメリカはイギリスとは逆に英語が砕けすぎている気がするし、なんか犯罪とかに巻き込まれそうで怖かったので却下。一方で、カナダは値段もお手頃で、安全なイメージもあるし、話される英語も英国ほど堅くもなく米国ほど砕けてもない。よって全ての項目で平均点以上である(と思い込んで)カナダに決定した。そしてカナダの中でも「クマのプーさん発祥の地」「オーロラが薄っすら見える」「カナダ第6の都市」「-40℃オーバーを体感できる」でお馴染みのウイニペグ市を選んだ(その後カルガリー→エドモントン→再びウイニペグと移ることになる)。日本人の多いバンクーバーやトロントは絶対に避けたかったし、授業料や滞在費が他の都市よりもかなり安く抑えられるのが決め手となった。

大学院卒業から半年後の9月、ようやく出発の時を迎える。これまで海外旅行さえしたことないのに、いきなりの長期留学である。ビビらないはずがないのであり、機内に乗り込むとすぐにセンチメンタルな気分になった。(すごく早いが)いわゆるホームシックである。窓の外を眺めていると両親の顔が浮かび、頭の中で「世界ウルルン滞在記」のテーマ曲が流れ始めた。バンクーバーまでの国際線は日本人も多かったが、その先の国内線に乗り換えると、もはや日本人の姿は皆無だった。心細さが倍増したせいか、もはや「ウルルン滞在記」が大音量で流れっぱなしである。機内アナウンスの英語は早くて聞き取り辛く、どことなく機械的で冷たかった。添乗員には愛想の欠片もなく「これでも食っとけ!」みたいな感じで、やたらでかいクッキーを渡された(気がした)。クッキーを頬張りながらいじけて外に目をやると、ロッキー山脈だろうか、眼下に真っ白な氷河が広がっていて、とても感動した(慰めてもらった
)のを覚えている。

ウイニペグ空港には、コーディネーターの女性が迎えに来てくれていた。ど緊張の中、(機内でシュミレーションしまくった)一連の「ナイス・トゥ・ミーチュー」の挨拶を済ませる。ホームステイ先まで送ってくれることになっていたのだが、あろうことか運転席に乗りこもうとしてしまい「運転したいの?」と笑われてしまう(カナダは左ハンドルである)。カナダでの初笑い、いや、初笑われである。車内で取り留めのない会話が行われるも、慣れない英語に加え、疲労やら緊張やらで私の脳みそは臨界点をオーバーして煙が出ていた。許容量以上に何度も聞き返したり、分からないまま勘で答えたりしていたので、かなりお粗末な会話だったと思う。ホームステイ先に着いて車から降りると、彼女は「またね!」と言うやいなや、ウエストポーチ一つの私を残して去っていった。私の荷物はまだトランクに載ったままである。(つづく)



2021年4月 9日 (金)

受験の感想

TVのCMで「四〇学院のおかげで、私は東大に受かりました!」と情けないことを言っている(言わされている)東大生がいた。「そんなわけないやん」と心の中で突っ込んでいたが、あまりにもしつこく流れるのでだんだん腹が立ってきた。100歩譲って、その四〇学院の経営者がそう言わせようとするのは分からなくはない。それがビジネスだからだ。しかしながら、そう言わされてる東大生の方が許せない。自分が発言したことに対する影響力を理解せずに無責任なことを言っているのである。個人的な知り合いに「あの塾お勧めだよ」と言うのはよいが、不特定多数が視聴するTVでは、誤解を招く規模もリスクも桁違いである。大学に受かって嬉しいのは分かるが、おだてられて調子にのってる場合ではなかろう。たとえ東大に合格しても、人として不合格である。せっかく東大に受かったんだから「立つ鳥跡をにごさず」であってもらいたい。

今年の受験の感想を一言で言うと「思ったより良かった」である。ゆえに今年の桜は少しほっとした気持ちで眺めることができた。ありがとう受験生。彼らが高3に上がるまでは、5年に一度やってくる不作の年か、あるいは10万年に一度の氷河期かとさえ思っていたのだが(すまん)、予想に反して全員が頑張ってくれたのである。野球でもボクシングでも真剣に応援すると負けるというジンクスがあるので、過度な期待はしないことにしていたし、昨年の生徒があまりにもできたので大きく下回る結果になるだろうなと思っていた。また、コロナウイルスや入試制度の改悪などの逆境も重なり、ストレスまみれの一年だったというのもある。なので、今年の受験生は本当に頑張った。どうか胸を張って大学生活を謳歌してほしい。そんな彼らの中で、(何を書いても苦情のこなさそうな)3人を紹介してみよう。

明治大に受かったA君は中1から通ってくれた最古参である。ハリーポッターみたいなメガネっ子でかわいらしかったが、今やラドクリフ君と同じようにすっかりおっさんになってしまった。授業後に残されて説教されたり、お母さんにゲームを取り上げられたりと意志薄弱なA君だったが、高2の後半ぐらいから、人が変わったように自律して勉強するようになった。それからの成長(特に読解)には目を見張るものがあった(本人も「コツを掴みました!」とか言っていた気がする)。受験勉強から解放された今、どうか倒れるまで大好きなゲームをやってほしい。が、そのせいで留年することだけはないように。彼のニコニコ、いや、デレデレした顔を見れなくなるのは寂しい。

上智大に進学するO君は高1から通ってくれている。M星高は正直そこまで良い印象はなかったのだが、こんな子もいるんだなと感心したのを覚えている。スキー部に所属していて、いつも骨折しているイメージがある(実際にそんなわけはないのだが)。そのことをからかっていたら、私自身、靭帯が断絶してしまい歩けなくなってしまった。彼の迎えの車に同乗させてもらった際には、「すまんかった」と(心の中で)何度も詫びたことは記憶に新しい。外国語学部でロシア語を専攻するらしいが、何かと厳しいことで有名な学科なのだそうだ。それゆえにお母さんは不安そうだったが、言語の才はあるので頑張ってくれるだろう。「外交官になったらカッコいいのにな」とか勝手に期待している。

調布教室のM君は法政大に受かった。H王子J践の普通科だったのに受かった。と言うと意地悪く聞こえるかもしれないが、彼の頑張りを強調するためにはこの言い方が一番妥当なのである。高3の夏前に体験授業を受けに来たが、あまりのできなさにショックを受けて帰っていった。調布教室が開校したばかりだったので、そっちなら一から教えられるということで南大沢からわざわざ通うことになった。とにかく時間がなかったので、通常の3倍から4倍の量の単語の試験をこなしていった。授業時間でこなせない文法等はテキストを指示して家でやっていた。また素直な性格で、私の言葉を信じて読解の復習等もしっかりやっていた。お母さんは「そこまで人気がなかったから受かったんです」と仰っていたが、そんなことはない。実力でつかみ取った由緒正しき合格である。何よりも、私の求める以上の努力で応えてくれたので、彼の合格は東大に匹敵するほどに嬉しかった。

他の生徒(特に女子)については怒られるかもしれないので、許可が出たら書くかもしれない。京大の農学部に受かった生徒も感想文を書いてくれたので、いつか載せようと思う。また卒業生たちは、時間ができたらで構わないので大学の様子などを知らせてほしい。君たちがこれからどんな試練にぶち当たるのか、そしてどう乗り越えるのか(あるいはどう挫折するのか)、その後の人生譚を聞くのが非常に楽しみである。とにかく、英検準1を取ってない者は早々に取って、大学在学中に1級を目指せ!TOEICは1回目で700点、最終的には900点は超えろ!とだけ言っておく。当塾で培った英語力に自信を持ったらよいが、決して慢心することなかれ。君たちの英語力はまだ富士山のに二合目にすぎないのだから。

2021年3月12日 (金)

2021年 合格結果 (3/21更新)

<2021年 合格結果>


〇〇さん・・・京都大(農)、東京理科大(理Ⅰ)

〇〇さん・・・東京農工大(工)、東京理科大(理Ⅰ)、明治大(理工)

〇〇さん・・・埼玉大(経)、中央大(商)、学習院大(経)

〇〇くん・・・東京都立大(シス)、法政大(シス)、中央大(商)

〇〇くん・・・上智大(外国語)、明治大(文)、立教大(現代心理)

〇〇さん・・・明治大(文)、明治学院大(社)、國學院大(文)

〇〇くん・・・明治大(数理)

〇〇くん・・・法政大(経)、成蹊大(経)、東洋大(経)

〇〇さん・・・国際医療福祉大(心理)


※ 延べ人数ではない。
※ 生徒全員を載せている。
※ 浪人生を含む。
※ 調布教室の開校は昨年夏だった。時間があれば…。
←でも、3/17法政大に追加合格!
※ 女子の頑張りが目立った。

 

 



2021年2月27日 (土)

新年度の授業

入試は全て終わり、あとは結果待ちである。後期日程までもつれ込みそうな生徒はいないので、おそらく3月中旬には全ての受験結果が出揃うはずだ。この時期は特に気もそぞろで、何かしら連絡はないかとしきりにスマホをチェックする自分がいる。今年も例にもれず胃痛に苛まれているのだが、「キャベジン」では心もとないので「ガスター10」のお世話になっている。受験を全て終えた受験生諸君は本当にお疲れ様だった。浪人のN坂さん、N本さん、そして現役のN野さんも、久しく顔を見てないが元気だろうか。下手に連絡してもプレッシャーを与えるだけなので、教室からひっそり応援していたが、努力が報われる結果となることを心より願っている。

新年度のクラスは3月4日(木)スタートする。ただし、新高1は、調布教室が3月18日(木)、多摩教室が3月16日(火)にスタートする。ここ最近、入塾に関する問い合わせをいただく。「どんな塾ですか」と尋ねられたが、「ホームページを読んでください」とは言えないし、「うちの子でも大丈夫かしら?」と訊かれたが、「会ったこともないので答えようないです」とも返せない。失礼のないよう丁寧に対応しているつもりだが、営業トークが苦手なのでぶっきらぼうな物言いになっていたら申し訳ない。いきなり教室に訪ねてこられる方も中にはいるが、それはなるべく避けていただくとありがたい。都合よく私の手が空いているとは限らないし、いきなりだとあたふたして精神衛生上よくないのである。一方で「いつもブログ読んでます」「ファンです」とか言われると悪い気はしない(マスクの下はにんまりである)。むしろ「授業を30分延長してあげましょう!」とか思ってしまう。

一クラス最大で8人なので、席数が埋まり次第、入塾できなくなる。以前、来ている子に「クラスが満席になったらどうするんですか?」と聞かれたので、「じゃあ、Jリーグみたいに入れ替え制にしよう」と言ったらすごいブーイングを浴びたことがある。もちろん冗談ではあるが、それくらいのプレッシャーは常に感じてほしいし、この席は絶対に譲らないという気持ちで勉強してほしいとは思う。入塾に際して学校名や偏差値、英検の取得級などによる敷居は設けていない。たとえ現状の学力が低くても「これから頑張る!」「必死についていく!」などモチベーションの高い子なら喜んで歓迎する。高校受験で失敗した者も、リベンジする気で頑張ればいい。当初はクラスで下の方であったとしても、まじめに取り組めば高1の終了時にはその差は埋まっている。

良くも悪くも日本は学歴社会である。とりわけ大学の名前は人物を測る1つの主要なステータスであり、就職活動など人生の時折で大きく影響してくる看板である。どれだけ名だたる中学や高校に通おうが、結局は最終学歴である大学の名で上書きされてしまう。それなのに、大学受験に対してあまりにも意識が低く、お粗末な準備で臨む高校生がなんと多いことか。親が舵をとる中学生活とは異なり、高校生活では自らが自らの舵を取り始める。それは大学受験においてもこれからの人生においても必要不可欠な成長過程なのだが、どうも舵を任された途端、勉強を二の次にした生活(自分に甘い生活)に舵を切ってしまう子が多いようである。「30年間ずっと勉強しろ!」と言っているのではない。たかだか3年のことである。この数年を頑張らなかったが故に望まぬブラック企業に就職し、そこで30年間漂流する方がよっぽど酷ではなかろうかと私なんか思うのである。



2021年1月30日 (土)

最後の直線

週末に競馬があるのだろう。隣に座ったおじいさんが、競馬新聞を穴が開くほど真剣に眺めている。新聞に書かれた様々なデータを考慮し、必死にレースの展開を読もうとしている。職業病だろうか、そんなおじいさんが、判定リサーチを眺めて苦悶してる受験生の姿に見えてくる。そのおじいさんのように、判定リサーチをひたすら眺めては、先の展開をあれこれ予想したい気持ちも分からなくはない。が、まずは勉強の手綱を緩めないことであり、自らにひたすら鞭を入れ続けることである。

共通テストの結果は悲喜こもごもだが、これからの頑張り次第で、結果はいかようにも変わる。悲観的にならずにやれば意外と変わるものである。競馬なんて最後の直線で順位は大きく入れ替わるし、ゴールを切るまで結果は全く分からない。ぎりぎりで差し切って勝利するレースは結構多いのであり、そんなレース展開に何度も煮え湯を飲まされた私である。E判定からひっくり返して国立大に受かった強者も現実にいるし、国立前期を含め2月は全滅だったが、粘りに粘って3月の国立後期で蘇った不死鳥みたいな者もいる。ただし繰り返すが、レース展開もくそも、そもそもの学力が足りなければ意味がないのであるから、まずはしっかり勉強することだ。

共通テストの当塾(多摩教室のみ)の平均点は、英語(R)が87,4点(最高98点)で、英語(L)が81,5点(最高92点)だった。全国平均は(R)が60点、(L)が57点らしい。去年までのセンター試験が200点満点なのを思うと、スケールダウンした感じがして面白みに欠けると思うのは私だけだろうか。内容も以前の華やかさはなくなり楽しいものではなくなった。民間試験の併用を前提にしたテストであるから、その利用がなくなった今年はある意味半身不随のような試験であり、正確に英語力を測ることなどできていないのである。それに輪をかけて、コロナ禍を理由に二次試験を実施せず、共通テストの結果だけで合否を出してしまおうという怠慢な大学もあるのだからなおさらバツが悪い。

現在は、個人面談をして受験する大学の最終確認をしている。2月から私大の入試が本格的に始まる。生徒の中には5日連続で受験という子もいる。受験回数(チャンス)を増やしたいという気持ちも分からなくないが、過密日程はなるべく避けたい。日々の入試にただ明け暮れていると肝心の2月後半で学力が落ちてしまう。「受験の合間の時々勉強」ではなく、「勉強の合間の時々受験」が好ましい。2月の間もたっぷり勉強して、少ないチャンスをものにする方が上手くいくと思うのである。とはいえ、本命一点だけに全てを賭けるというのも無理な話であろう(私の競馬歴でも一点買いはない)。だから「数打ちゃ当たる」作戦に出るのも分かるのだが、それは学力が相応のレベルに達していることを前提にとれる作戦であることを肝に銘じておいてほしい。まずは必要科目を1ミリでも成長させることが大前提である。

競走馬と違って、人はゴールが見えるとどうしても気が緩む。何度も同じようなことを言うが、ゴールを駆け抜けるその時まで、勉強の手綱を緩めずに厳しく鞭を打ち続けることだ。それは学校でも塾でも親でもない。自らで自らに振るうのである。さあ、最終コーナーを回り最後の直線。レースは最後の最後まで何が起こるか分からない。


2021年1月16日 (土)

受験の心得(再up)

受験シーズン到来である。その開幕戦である「共通テスト」が間もなく始まる。「一世一代の大勝負」のような重苦しい雰囲気がなぜか漂うが、この共通テストで全てが決まるわけではない。というか何も決まらない。私大を第一志望に掲げるのなら、別に共通テストなどスルーしても構わないのであり、むしろ、試験後にへこんでグズるくらいなら受けない方がましだと言ってもよい。確かに私大にも「共通テスト利用」入試があるが、それは大学側がおいしく利用するのであって、受験生側はただおいしく利用されていることが多いのである。もちろん、国立大志望者にとっての捉え方は少し違う。共通テストが全てではないが、点数によっては、大勢を決する「関ケ原の戦い」となりかねない。せめて2次試験で挽回できるような点数を持ち帰ってきてほしい。

志望校の難易にかかわらず、受験生である以上、精神的にかなり苦しい時期を送ることに変わりはない。しかしながら、この暗澹とした状況が未来永劫続くわけではない。止まない雨はないのであり、どんなに長いトンネルもいつかは抜けるのである。そして3月にはもう塾に来なくていいのであり、4月には大学生になって満開の桜の下を歩いているのであると信じたい。

<受験の注意点>試験会場では、周囲の他の受験生にビビらないことだ。やたらペチャクチャ喋っている受験生がいて、中には試験に出そうな内容を「これ出るよ!」と確認し合ったりしているが、耳を傾けないことである。「自信のない奴ほどよくわめく」と思っておけばいい。また、やたらと落ち着いていて、風格を漂わせた受験生もいるが、ただ単に老け顔のおっさん浪人生である。リラックスする程度に友人と言葉を交わすのはよいが、まずは何よりも試験前に心を落ち着かせて自分の世界に浸ることが重要である。何なら缶コーヒーを飲みながら、英字新聞を読むくらいの余裕がほしい。その方がよっぽど周囲がビビってくれるのではあるまいか。

試験の合間(休憩)は、肩を回したり、お茶を口に含んだりするなどして、頭を休ませてほしい。そうでないとその日の最後まで集中力がもたなくなる。また、直前の試験のことは頭から消し去ること。手応えがなかったり、ミスに気づいたりしてしまっても、気にしないことである。後々意外と大した傷口でないことが判明することもあるし、勘で書いたものが運よく当たっているかもしれない。なんなら「この俺様で間違えるくらいだから、みんなも間違えてる」と思っておけばよい。また、休憩中に「どうだった?」「できた?」「最後の答えは4だよね?」みたいな感想を語り合うような愚かなことはしないことだ。へこんで次の試験に悪影響をきたすだけである。とにかく頭をリセットして次に備えよ。

全ての試験が終わった後は、ズバリへこまないことだ。いや、へこんでもいいが、もう一度やる気に火を灯して立ち上がることである。というか、共通テストで「めっちゃできた!」という感想を抱いて帰る子などほとんどいない。皆、何かしら致命的なミスを犯し、何かしら心に傷を負っている。その状況からいかに早く立ち上がるかが大事である。

帰宅後、その日はゆっくり休んでもよい。ただし、翌日から、次に向けて猛勉強を再開せよ。共通テスト後に、へこんだり気が抜けたりして勉強が手につかなくなる生徒がいるが、入試本番はこれからである。「共通テストリサーチ(合否判定表)」をずーっと眺めてウジウジすることのないように。ここから一般入試までの間に、いかに頑張れるかどうかが勝敗のカギであり、まとまった勉強時間の取れる最後のチャンスでもある。繰り返すが、共通テストで勝敗はまだ何も決まっちゃいない。さっさと立ち上がって勉強することを約束してほしい。



2021年1月15日 (金)

未来への号砲

今年の正月は京都に帰省するどころか初詣にも行かず、元日は「実業団駅伝」、2日は「箱根駅伝」、3日も「箱根駅伝(復路)」とずっと走りっぱなしだった。もちろん私が走ったわけではない。テレビで見ていただけであるが、各走者の苦痛に顔を歪めて走る姿をずっと見ていると、こちらも何となく足首が痛くなったり、学生時代のマラソン大会を思い出して憂鬱になったりした。この時期、受験生達は寸暇を惜しんで最後の追い込みをかけていることと思うが、箱根駅伝はちょっとくらい見た方がいいかもしれない。持てる力の最後の一滴まで絞り尽くして激走し、たすきを渡すとともに倒れ込む。そんな姿に「甘えるな自分!」「もっと頑張れ私!」と否が応でも鼓舞されるはずだ。

高3の授業は、年をまたぐかまたがないかで全然違う。はるか対岸の火事であった場所に船は接岸したのである。そして下船を迫られつつある受験生達の表情にも緊張と覚悟の色が浮かぶ。「まるで切腹前の武士のようでな面持ちである」
と言ったら怒られるだろうか。場を和ませようと「ここらで一発…」と冗談めいたことを言ってみるも誰も笑わない(ショックや照れを隠せるのでこういう時にマスクは便利である)。それはさておき、つい先日、共通テスト前の最後の授業があり、そこで予想問題をまるまる一本行った。いつも危なっかしい男子が9割を越えたのが嬉しかった。エンジンがかかった際の男子の成長には目を見張るものがあるのだが、「そもそもエンジンをかけるのが遅い」「エンジンが完全に温まる前に入試」という残念な側面もある。

さあ、明日は共通テストであり、長い受験シーズンの始まりである。
正直言って奇跡は要らないし、(神様に)これまでできなかったことをできるようにしてほしいとも思わない。ただ望むのは、彼らの持てる力がありのまま発揮されますようにということである。それだけ彼らの英語力に対して(私自身)信頼を寄せているわけだが、何が起こるか分からないのが受験であり、英語以外の教科に不安要素があるのも事実である。また今年は入試制度の改変(改悪)やらコロナ禍やらで例年以上に外的ストレスが多かったのは否めない。それを跳ね返す強靭な精神力を持ち合わせていると信じたいのだが、どうしても「あかん…」とくじけそうになった時には、私が魂を込めて作った「なにくそ鉛筆」を握りしめて「なにくそ!」と頑張ってほしい。


2020年12月31日 (木)

さよなら2020年

早いもので2020年も終わろうとしている。今年は京都に帰らず東京にいる。「Go to トラベル」を利用して賢く安く帰省しようと計画していたが、ご存知のように目前で中止になってしまい、世の中もすっかり帰省を許さぬムードになってしまった。こんなことならいっそのこと年末年始に「Go to 塾」キャンペーンでも打ち出せばよかった(ただの冬期講習である)と思ったが、すでに遅しである。まあ無理に押し通しても、生徒の反感を買うだけなのは目に見えているし、民意を汲まずに支持率を下げてる菅さんみたいにはなりたくないのである。仕方がないので、年末年始は近くのミスドに通うしかない。とりあえず一人で「Go to ミスド」キャンペーンである。もし相談や質問等で私に会いたければ(暇ならば)ミスドを覗いてみてほしい。結構な確率で私に会えるのではなかろうか。

受験生たちは自転車操業で頑張っているだろうか?体調を崩さぬよう、生活のペースを乱さぬよう、でも死に物狂いで頑張ってほしい。コロナの収束と共に楽しい大学生活を送るためにも、今は存分に苦しんでほしい。1日2題は読解に触れるように。また単語やイディオムはどこかの段階で完璧にしておくように。急ぐあまり雑にならないように。ストレスのあまり食べすぎないように。コロナでお年玉が少なくても嘆かないように(いずれ大金持ちや大富豪になれば余裕で回収できるのである)。とにかく、英語に関してはすでに授けるべきものは授けたつもりだ。その確固たる英語力がきっと君たちを助けてくれると信じている。それではまた来年。お互い良い年になりますように。



2020年12月13日 (日)

合格通知?

今日、明治大学の日本国際学部に通うT君からメールが来た。
コロナ禍で文句を言ったりへこたれたりする人間が多い中、希望を胸にこつこつ頑張っている姿を思うと感動した。
私も見習わないといけない。


園山先生

ご無沙汰しています。
すっかり寒くなりましたが、その後足のお怪我の具合はいかがでしょうか。
大学間協定留学の学内選考に通過しました!!!!!!!!!
問題がなければ、2021年秋~1学年間、ウィーン大学に留学します!!
先生に(恥ずかしい)英訳を見ていただき、ご指摘いただいたお陰です。
ありがとうございます。
流石にちょっと…でしたので、期限ぎりぎりまで英訳に打込みました(^^;)
大学では来年の6月下旬までに留学の可否を判断する…との事です。
でも今回、選考通過したことは自信にもなりましたのでこのまま努力を続けるつもりです。
これからドイツ語教室に通い、料理にも挑戦します!
先生の留学時のお話を詳しくお伺いしたいので、ぜひお会いしていただきたいです。
まずは、報告でした。
また、ご連絡させていただきます!
本当に、ありがとうございます。



2020年11月29日 (日)

しんどいけど楽しい

昨年の高3生が卒業していく際に、感想文を書いてもらった。そこで嬉しかった言葉があった。それは「しんどかったけど、楽しかった」という言葉だった。世の中にはしんどいだけの授業はいっぱいあるし、楽しいだけの授業もいっぱいある。だが、しんどく、かつ楽しい授業はそうなかろうと思う。確かにそこそこ変な先生なので、そういう意味で楽しんでいただけたのかもしれない。それはそれでありがたいのだが、分からなかったことが腑に落ちた時や、太刀打ちできなかった読解が読めるようになった時などに「楽しさ」を感じてくれていたのなら、涙が出るくらいに嬉しい。己の成長を実感できるならば 、その過程にあるしんどさも「楽しい」のではなかろうか。

去年の受験生たちの表情を見てほしい。なんて楽しそうなんだろう!そして、なんて私はオッサンなんだろう!悲しくらいにオッサンである。とにかく、彼らは死ぬほど頑張ったからこの顔なのだ。現受験生、後輩諸君はこの顔を目指して日々頑張ってほしい。あまりにも良い写真なので許可なく載せたが、ダメなら消すので言ってほしい。みんな元気かな?


Thumbnail_img_001【高3Aクラス】

Img_1386【高3Bクラス】



2020年10月25日 (日)

足首のケガ

Go toトラベルなどの「さあ、出かけよう!」という世の流れとは逆に、足首を痛めて全く動けなくなってしまった。歩こうと足を踏み出すと、足首の関節に異物が挟まって噛み合わないかのように激痛が走る。あまりにも痛く、一歩も歩けないほどだったので、渋々病院に行くことにした。靴下を脱ぐやいなや、すぐに「靭帯が完全に切れてるね~」と言われた。「足首が抜けたような感じがしました」と言うと、「そんなのありえないよ。オモチャじゃないんだから」と医師は失笑していた。「どんな感じ?」とあんたが訊くから答えたまでであって、しかも「抜けた」とは言ってない。ちゃんと「抜けたような感じがした」と言ったではないか!と心の中で怒りながらも、この状況下では、さすがの私も平身低頭にならざるをえない。医者と学校の先生だけは、巡り合わせが悪かった場合、諦めるしかないのである。

レントゲン写真を見ながら、あれこれ説明された後、「ギプスで固定して松葉杖を使ってもらいます」と言われた。すぐに塾の行き帰りの不安が脳裏を過ったので、「松葉杖ってどれくらいの距離歩けるもんですかね?」と尋ねると、「歩かないためにギプスで固定するんだよ、分かってる?」と再び失笑されてしまった。一々言うことが癪に障る医者である。医者の後ろに立っていた看護師が、会釈しながら「うちの上司がすいませんね」と(辟易した感じで)苦笑いになったのがまだ救いだった。それからベッドに横になると、私のお気に入りのユニクロのズボンがビリビリ破られて、あっという間に足首はギプスで固定された。そして、松葉杖の練習を一通り終えると、会計を済ませて病院を後にした。私の松葉杖デビューは雨の中で、傘を差すこともできず、ずぶ濡れになりながら家路についた。


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さあ、問題は塾の授業である。休んだところで授業を代行してくれる先生はいない。奥さんはいるが、英会話は教えられても平常授業は無理だろう。これが専制君主的ワンマン塾の宿命である。私が滅びたら塾もまた滅びるのである。ふと「盛者必衰」という言葉が浮かんで世の無常を憂いたくなったが、悲しいかな、私は「盛者」ではなく「貧者」である。ともかく、大事を取ってその日は休みにし、その翌日はオンライン授業を行い、翌々日には何とか40分歩いて調布教室に赴いて授業を行った。その日の帰りは、無理を言って生徒の保護者に家の近くまで送っていただいた(H君ありがとう)。

それからの1週間は大変だった。多摩教室でも何人かの生徒(の保護者)に無理を言って送っていただいた(O君、Iさんありがとう)。快くOKしてくれたとはいえ、私が同乗していて、
さぞ気まずかっただろう。「変なこと言うなよ先生…」「分かってるよ、今ここで揉める気はない…」という暗黙の了解があった気がする。突っ込んだ話をするとおそらくは毒舌になり、途中で降ろされてしまうかもしれない、いや途中で降ろされるのならまだしも、すごい辺鄙な農村で蹴り出されてしまう恐れすらあった。というのは冗談として、足が痛すぎて深い話をする気力がなかったというのが本音である。万全の体調の時に改めて、言うべきことは言おうと思う。

現在、ギプスは取れている。痛みは無くなったが、腫れはまだ残り、足首がぶらぶらして上手く歩けない。通塾にいつもの1,5倍くらいの時間と体力を消費する。とはいえ、少しずつマシにはなってきているようで、「金木犀の香りが漂う季節か~」などと足の痛みから気を逸らして風流に浸る余裕も出てきた。余談だが金木犀の匂いを嗅ぐたびに、トイレの芳香剤を連想する。トイレの嫌な臭いを消すための金木犀が、逆に金木犀からトイレを連想してしまっているのである。本末転倒の良い例だと思うのだが、自分の感受性が豊かなのか乏しいのかは判断の難しい所である。

乞田川沿いの道を足を引きずりながらゆっくり歩いていると、正面から散歩中の犬がやってきた。なるべくまっすぐ歩きたい私にとっては極めて邪魔な存在である。なぜに足を引きずるこちらが、小便スポットを探しているだけの犬を迂回せねばならぬのか。たかだか数歩の迂回だとしても、今の私にはかなりきついのである。また、ある時など、ミニチュアダックスが乳母車に乗せられて、颯爽と私の脇を追い抜いていくではないか。乳母車に犬を乗せるという発想自体前々から気に入らなかったのだが、乳母車から眠たげな表情で私を睨め上げていた怠慢な犬に怒りが沸いた。犬語は分からないが「自分の足で歩かんかい!」と心の中でワンワン吠えた。その後しばらく、デジャブのような感覚に襲われ、どこかで聞いたことあるような台詞だったなと思っていたら、私が生徒たちによく言う台詞だった。



2020年9月20日 (日)

こんな感じで

7月に、1年生から3年生まで塾生全員に(調布教室も含めて)過去のセンター模試を行った。その結果をここで発表するわけにはいかないので、昨年の3年生の「高1冬」から「センター本番」までのセンター模試の変遷を載せてみた。こんな感じで成長してくれたらと思う。

名前 高1 冬 高2 夏 高2 冬 高3 夏 センター本番
Sくん 192点 174点 186点 195点 196点
Tさん 169点 173点 184点 185点 180点
Iさん   89点 138点 150点 142点 168点
Yくん   97点 117点 128点 132点 173点
K.Sくん 100点 125点 147点 163点 192点
K.Kくん   89点   84点 124点 143点 156点
K.Yくん   87点 110点 150点 171点 189点
Mくん 119点 157点 156点 156点 188点
Nさん ... 105点 146点 150点 170点


<個人的なつぶやき>

●どちらかと言えば、入塾した順にできる傾向にある(通っている高校のレベルとか地頭が良いとかはそこまで関係ない)。
●もう少し正確に言えば「入塾時期」×「人間性」である。素直な人間が一番だ。
●高1の段階でも、高得点は採れる。
●高1の段階でできない子も、3年間頑張れば高得点は採れる。
●つまり、高1の段階で天と地ほど点数差があっても、3年間頑張ればセンター試験では差はつかなくなる。
●きちんと授業に参加し、言われた課題をこなしていれば自ずと点数は上がる。
●センター試験はよく練られた試験なので、(特にできない子の)実力はそのまま点数に反映されやすい。
●180点(9割)で満足するのではなく「20点も落としてるやん私」と謙虚になってほしい。
●どれだけできるようになってもやはり人、ミスをする。過去にセンター本番で満点を採った塾生はたった1人しかいない。
●本番でどれだけ緊張しても、体調を崩していても、居眠りしても、160点(8割)は超える絶対的な英語力を身に付けてほしい。
●高得点者ほど回答時間が余る傾向にある。10~20分くらい余る。逆に「時間が足りない」と漏らすのはできない証拠である。

●センター対策(というか受験全般)に
「楽して」や「短期間で」みたいな魔法はない。こつこつ積み上げるしかない。
●日頃の単語試験もろくに合格できない者が、受験で合格できるわけがないのである。
●高1、高2生は10月にもう一度、別の模試を行おうと思う。夏休みを挟んで成長の跡が見られるか楽しみである。
●調布校生負けるな!
●多摩校生も頑張れ!




 

2020年9月 7日 (月)

挨拶しましょ

学生の頃、強制的で心こもらぬ「挨拶運動」が嫌いだったが、現在、挨拶できない人間はもっと嫌いである。夕方18時前、生徒が「こんばんは」と言って入ってきた。次の子は「こんにちは」である。さらに次の子は「こんにち…こ、こんばんは」だった。前の2人が異なる挨拶をした為に混乱したのかもしれない。私は動じることなく、三者三様に「はい、こんばんは」「はい、こんにちは」「はい、こんにちばんは」と返した。確かに「こんにちは」から「こんばんは」へといつ切り替えれば良いのか私にも分からない。もしかしたら、季節やら日の入りやらで変動するルールが存在するのかもしれない。寒い冗談を言ってしまった後に「おやすみなさい」「さようなら」とか挨拶されたらすごく嫌だが、とりあえずは挨拶してくれたという事実が大事であって、言葉そのものはどうでもいい。何なら「ちわー」とか「ういーっす」とかでもまあ構わない。

授業の終わりに「お疲れ様でしたー」と私が言うと、「ありがとうございましたー!」と生徒達が返してくれる。別にそういうマニュアルがあるわけでも、そういうお願いをしたわけでもない。多分、私に「お疲れさまでしたー」と不意に投げかけられて、なにかしら返さなければならなくなった。コンビニ店員の挨拶のように無視を決め込みたいが、相手が先生だしそれも気まずい。それなりにおっさん(年上)だから、そのまま同じように「お疲れさまでしたー」と返すのも失礼である。じゃあ少し癪だが、あの万能なマジック・ワードを言っとくか、1、2、3、ハイっ「ありがとうございましたー!」という感じで、それが日々繰り返され、やがて暗黙の了解となり、途中入塾者もそれに追随するようになった。もちろん冗談のつもりなので、これを読んだ生徒は「もう挨拶なんてしてやらない!」と怒らないでほしい。

カナダ人は日本人以上に挨拶にこだわる印象がある。相手が顔見知りならばなおさら、例の「How are you?」のやりとりを含めてかなり長尺になる。もちろん、そんなに気分がすぐれなくても「Fine/Good/OK」などで済ませてしまう。「Not good」(良くないです)とか正直に答えた暁には、相手は「Why?」と尋ねざるをえなくなり、数分間の立ち話へと突入することになる。
さっとすれ違いたいのにすれ違えないので、急いでいる相手にしてみればいい迷惑であり、目的地にたどり着くのはいつのことやらとなる。失敗談を含め挨拶にまつわるエピソードはたくさんあるが、特に思い出深いのは、バスの運転手と交わした挨拶だろうか。毎朝必ず「Good morning!」と言ってバスに乗車し、降りる時も「Thanks!」と言って降りていた。もちろん運転手の方も(グラサンに髭で怖いのだが)挨拶をきちんと返してくれたし、降車時にはいつも「Have a good one!」(今日も良い日を!)と言ってくれた。その魔法の言葉のおかげか、どんなに気分がへこんでいる朝も、バスから降りると気分が軽くなった。

たかが挨拶だが、されど挨拶である。塾の教師が挨拶など生活面に対して口を出すのはどうかとも思うが、どれだけ英語が使いこなせても、挨拶や礼儀作法のままならない人間は国際人になれないと思っている。英語を話す際は少しぐらい横柄になってもいいと勘違いしている人もいるようだが、そんなことはない。大胆になることと横柄になることとは違う。そういう私自身も調子に乗ってしまった一人であり、運転手に「Have a good one!
」(いい日を!)と言われて、壮大に「Have a good life!」(いい人生を!)と言ってみたり、その道のプロなのに「Drive carefully」(運転気を付けてね)と余計なお世話なことを言ってしまったりした。留学生によくある、自分の殻を破ろうとして勘違いし、調子に乗りすぎた瞬間である。運転手は笑ってくれていたが、今思うとすごく恥ずかしい。

授業がいくつも重なった日の22時過ぎはしんどい。若い頃よりも疲労を感じやすくなった気がする。どう頼めば奥さんはマッサージしてくれるだろうか、あれこれ
考えてみるも良案は浮かばない。どの案も結局は奥さんの怒った顔に帰結してしまうのである。そんな疲労困憊で精根尽きかけた私の体に、塾生達のあの「ありがとうございましたー!」がじわじわと染み込んでくる。そして、明日を生きる活力を与えてくれる…というのは言いすぎだが、少なくとも家路につく為の元気くらいは与えてくれる、というのは本当の話である。



2020年7月20日 (月)

喫茶店での一コマ

調布駅近くにある「シャノアール」という喫茶店を訪れた。BGMにジャズが流れている店内は驚くほど静かであり、コロナ禍にあるので客達はお互いを慮ってか、節操なく大声で話す者は誰一人としていない。それぞれがお互いに干渉せぬよう、朝の平穏なひと時を静かに楽しんでいるようだった。流れるようなピアノの調べに乗せて、パソコンをたたく私の指もどこか軽やかである。時にコーヒーを啜りながら、穏やかに流れる時の波間にたゆとうのは何とも気分がいい。しかしながら、そんな幸せも束の間、映画や漫画でよくあるプロローグのように、「平穏な日常とは突如思いがけぬ存在によって踏みにじらてしまうもの」ということを、これから思い知らされることになる。

来客を知らせるチャイムが鳴り、女性6人組が勢いよく入店してきた。鼻息荒く店内を歩く様子は「風の谷のナウシカ」の激昂したオウムの群れを思わせる。彼女たちは席に着いてマスクを剥ぎ取ると、いかにも「喋りにきたで~!」という感じでウズウズしている。近くのサラリーマンはそれを察知してか、作業をやめて荷物をまとめ始めた。6人はそれぞれ手にアルコール消毒をしながら「今日も200人超えたんだって~!」「やばいよね~!」「やだ~!」とコロナ談義を始めたのだが、マスクをせずに喋っていることに違和感を感じてる者は誰もいない。私は心の中で「じゃあマスクをとるなよ!」と何十回も突っ込んでいた。

彼女たちの核爆発のような笑いが静かな店内にこだまし、聞きたくもない下世話な話が嫌でも耳に入る。もはや(お洒落を気取って)ピアノジャズにうっとり酔いしれている場合ではない。やがて彼女達の子供の話が始まったが、これもなかなかに聞くに堪えない。いかに勉強ができないか、学校のテストの点数が悲惨だったかといった「うちの子ダメ合戦」に発展していく。1人がエピソードを披露するたびに大きな笑いが起きる。「笑ってる場合じゃないやろ」と喉まで出かかったが、群れをなした女性は怖いので、あくまで心で思うだけでお口はチャックである。彼女たちの隣には、最も感染を避けるべき80歳くらいのお婆さんが座っていたがお構いなしのようだ。私は幸運にも7、8mほど離れた席にいたが、それでも念のためにマスクを装着した。また、作業していたノートパソコンの画面を防波堤にしようと垂直に立ててみた。が、11インチの画面では首から上は丸見えであり、気休めにもならなかったのは言うまでもない。

1時間半ほどして十分に喋りつくしたのだろうか、まるで闘いを終えた力士のように口数は減り、当初の殺気はすっかり消えていた。すると一人また一人とごそごそと再びマスクを装着し始めたのである。その場に居合わせた客(と店員)全員が、おそらく心の中で突っ込んだに違いない、「今頃付けるんかーい!」と。吉本新喜劇を見て育った私なんか、ずっこけて席から滑り落ちそうになってしまった。屋外のほうが熱中症の心配もあるので、距離を保てばマスクなんてしなくても良いのである。一方、店内でそれだけ長い時間、顔をつき合わせて喋るんだったら、それこそマスクをしなければならないだろう。彼女たちの後ろ姿を見送りながら、母親って大変なんだなと同情しつつも、当塾の生徒がこんなデリカシーのない大人にならないでほしいしと思ったし、子供が勉強できないことをネタにして笑いをとるような親にはならないでほしいと心底思った。

当塾も、備品の消毒、時々の換気、席の間隔を十分に保つことに気を付けながら、もちろん生徒も私も常時マスクをしている。生徒の健康を守るためというのもあるが、まず真っ先に重症化するのは私なので自らの身を守りたいというのもある。マスクをして3,4時間喋り続けると、呼吸はだんだん深くなり、もはや水泳のような息継ぎとなる。酸欠なのか目が霞み、頭も少しくらくらする。呼吸のしやすいマスクみたいなのがあればぜひ教えてほしい。また、最近やたらと吹き出物ができるのだが、これもマスクのせいだろうか。特に髭剃り後など口の周りが真っ赤になり、まるで泥棒みたいである。一方で、マスク着用の二次的なメリットとして「マスク美人」という言葉もあるようだが、私には関係ないらしい。悲しいかな、マスクを付けてどれだけ顔の表面積を覆い隠しても、全くもって男前にはならない。


2020年6月27日 (土)

英語って難しい

問:「ステファンがいつ来るか教えてくれる?」を英語で表現した場合、次の2文のうち、どちらが好ましいか?(大学入試問題改)

A:When's Stephen coming?

B:Please tell me when Stephen will arrive.

まず、問いに間違いがある。人名"Stephen"の読み方は「ステファン」ではなく「スティブン」である。名前の発音を適当にごまかす(軽んじる)生徒が多いが、もう少し名前の読み方には配慮した方がいい。実際のコミュニケーションで名前を間違えることがいかに失礼で、その場の空気を凍り付かせてしまうかは、国を問わずどこでも同じである。私はカナダで"Yasu"と呼ばれていたが、後ろにアクセントを置いて「ヤスゥー!」とまるで"Yahoo!"みたいな発音をされて気分を害したことがある。"Mike"を猫か何かのように「ミケ」と発音したり、"Jane"を別れの挨拶のように「じゃーね」と発音するのは論外として、受験生であっても"Lincoln"を「リンコルン♪」とメルヘンチックに発音する生徒がいたりする。正しくは「リンカーン」。メルヘンとは程遠い髭だらけのおっさんである。また先日も英作文で、"Jill"の代名詞に"He"を使った失礼極まりない生徒がいたが、Jillは女性の名前である。とにかく、人名であっても「まあいいか」とならずに、きちんと辞書で確認することだ。

さて本題に戻るが、おそらく大学側が用意した正解はBであり、世間の英語教師も賢い生徒もおそらくはBを選ぶ。しかしながら、ネイティブスピーカーであればおそらくAを選択する
。なので「ネイティブなのに得点できない」という本末転倒な事態が起きる。英語学習者にはお馴染みのBであり、英語を学べば学ぶほどBを選びたくなるのだが、残念ながら日常で使われる英語よりも、はるかに堅苦しく不自然である。まず「Please+命令文」は丁寧な依頼表現として日本でも広く教えられているが、実際にそこまで丁寧ではなく、むしろ失礼に聞こえてしまうことも多いので避けた方がよい。というのも、たとえ"Please"が付いたところで「命令文」であることに変わりがないからであり、相手側にYes、Noの選択の余地がないからである。なので相手に選択権を委ねる「疑問文」を使うほうがよっぽど好ましい 。

ちなみに、中2で"Will you~?"を「~してくれませんか?」と習うのだが、これも同じく命令的な響きがあるので使用は避けた方が無難である(「~してくれや?」という感じ)。たとえ、"Will you please~?"とpleaseを付けてもダメである(所詮、Pleaseは添えられたパセリ程度の存在であり、サンドイッチの根本的な味を変えるわけではないからだ)。また"Would you~?"という表現も、"would"は"will"の弱い版(過去形)だということを考えれば、同じく避けた方がよい。使用可能な場面もあるにはあるが、"Could you~?"という極めて安全な表現があるのに、なぜに敢えて危険を冒す必要があるのか?ということである。塾生には繰り返し言うことだが、「知らないものは使わない」「知っているものも石橋を叩いて渡れ」という慎重な姿勢が大事である。

次に(少し難しいかもしれないが)論点2として、when節中の"will"も不自然である、と言うと首を傾げる生徒(や教師)がいる。というのも『未来のことを表す場合でも、時や条件の副詞節の中ではwillを用いない』という文法規則を習う(呪文のように刷り込まれる)からである。そうすると生徒だけでなく教師も「それならば、それ以外の場合は全てwillが必要である」という間違った解釈に達する。つまりBの文のwhen節は副詞節ではなく名詞節なので、「じゃあwillが必要だ」と決めつけるわけだ。しかし実際にBの文は、すでにスティブンが来るのが分かっていて、それがいつなのかを知りたい場合に発せられるはずだから、willは使われそうにないのである。よって"will arrive"を"is arriving"などに変えたほうがよいだろう。

ちなみに、上述の『未来のことを表す場合でも、時や条件の副詞節の中ではwillを用いない。代わりに現在形を用いる』という呪文(説明)も不完全である。せっかく覚えるならば『未来のことを表す場合でも、時や条件の副節の中ではwill、wouldを用いない。代わりに現在形か現在完了形を用いる』とすべきだろう。以上、解説を終わるが、このように文法であっても、実際の使用に即してあれこれ考えていくことが必要である。もちろん、そのような理想にはある程度目を瞑って、とにかく詰めこまなければならないという受験事情もある。私も大学受験塾をうたっている以上、背に腹はかえられないので、「これは使わんけど、試験では出るよ」「悪魔に魂を売って覚えよう」などと一言添えて教えている。

生徒側にしてみても、以上のような話を「なるほどな」と聞くためには、それなりの基礎的な英語力を培っていなければならない。高校2、3年生であるにもかかわらず、ここまでの話を聞いてもチンプンカンプンな個所があるならば、どこか基礎力が欠けている可能性がある。文法書でも構わないが、まずは面倒くさがらずに何でも辞書を引くことだ。使用法の違いやニュアンスの違いなどつぶさに説明してくれていて、市販の参考書よりもはるかに正確である。何なら「教師や私の言うことなど信じなくてもいい、辞書だけを信じろ」と言っても過言ではない。また、昔のように堅苦しく無機質なものではなく、血の通った楽しいコラムも挟んであって、学校の授業がつまらない時にはぜひ辞書をパラパラ読むのをお勧めする。ただし私の授業では悲しくなるのでやめてほしい。


2020年5月27日 (水)

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コロナの情報は日々更新され、それに混じって不確かな情報や憶測が飛び交う。なので奥さんは、国民全員が一律10万円もらえることさえデマだと思っていた。あるいは単純に安部さんの言うこと(為すこと)が、信じられなくなっただけなのかもしれない。私としては、いっそこのまま奥さんにデマだと思ってもらう方が、もう10万円私の懐に入るのでありがたい(が、どうせバレるだろうし、バレた時の仕返しが怖い)。10万円は確かにうれしいが、それを手放しで喜ぶほど私もバカではない。子供が母親の財布からお金をくすねるのと同じで、そんなことしても晩飯のおかずや戸棚のおやつが質素になるだけであり、結局自分に返ってくるのである。

政府から例のマスクも届いたが、誰がどう見ても小さい。奥さんは、マスク姿の安部さんや、(仕方なしにマスクを着けている)安部さんシンパの議員をTVで見かけるたびに爆笑している。私はそれを傍らで見ているので、笑われると分かって着ける気にはなれない。というか、すでに笑われる不安材料をいくつも抱えているのに、これ以上別のことで笑われるのはごめんである。それでも、デザインも色も極めて平凡であり、ブランド名の刺繍もタグも付いていないのに、一目で「アベノマスク」とバレてしまう点はすごいと思う。すごくシンプルなのに、すごく存在感があるわけだ。カリスマ芸能人が着けていたら若者を中心に流行ったかもしれないが、残念ながら発信源(モデル)は安部さんである。これでは着けることが罰ゲームになってしまう。

ここ最近、コロナのおかげでずっと家にいるので、暇を持て余しては自分のブログを読み返している。昔に遡るほど何を書いたか覚えておらず、それはそれで読者の視点から客観的に読めて良かった。「イケてるつもりで書いてるなー、イケてないのに…」とか、「すごい上から目線やなー、説得力ないのに…」などと顔を赤らめたくなる個所が多々あったが、ごくたまに「へ~なるほど。良いこと言ってるやん」と感心させられる所もあった。生徒のダメ出しばかりでなく、もっと良いとこも書かなきゃなーと思ったり、たまには真面目な英語の話をして威厳を回復させなきゃなーと反省もした。

自慢じゃないが、有名な塾の経営者が書いた本を読んでみたという保護者から、「あんなの内容がスカスカで読めたもんじゃないです。先生のブログの方がよっぽどマシですよ」と褒められたことがある。決して「面白い」とも「為になる」とも言われたわけではないのだが、
それ以来、ひょっとしたら大手出版社の編集長の目に留まって、このブログが「書籍化→ドラマ化」という道をたどるかもしれない、と少しドキドキしてる自分もいる。なので、細々とではあるが諦めずに何かしら書いていこうと思う。

夢のような話はさておき、また内容が面白いか面白くないか、為になるかならないかはともかくとして、基本的に私一人で切り盛りしている塾なので、他所のブログや著書のような「それは代表者の考えであって、他の講師にまで浸透していないでしょ(結局、言ってる人とやってる人が違うでしょ)」みたいなズレはそこまでないと思う。過去のブログをいくつか遡って読んでもらえれば、私がどのような人間で、どのような授業を行っているのかが多少なりとも見えてくるのではなかろうか。と言っておいて何なのだが、どうしても「カッコつけたい」「クールに見られたい」という気持ちが働いてしまうので、その辺は割り引いて読んでもらえれば幸いである。



2020年5月19日 (火)

読者確認?(5/29に1人増)

ここ最近、とても珍しいことに(3人の別の人間から)続けざまにメッセージが書き込まれていた。普段、「誰が読んでいるんだこんなブログ」とか「反社会的なこと(学校批判とか)書いても読者がいないから炎上しないし」とか思っていたが、今回のことで「読者が何人かはいるらしい」ということが分かって良かった。生存者確認の「生きてる人いますか?」ならぬ「読んでる人いますか?」といった感じである。私は単純な人間なので、多少でも読者がいると分かると張り切って書こうと思えるし、もっと為になることや興味深いことを書かなきゃなーと使命感に燃えることができるのである。

とにかく、メッセージを残してくれた3人が、三者三様に嬉しいことを書いてくれていて、
パッサパサに乾いた私の心に少なからず潤いを与えてくれた。本人の許可はとってないが、見せびらかしたいので、ここで改めて紹介したい。



「5年前に引っ越していった生徒」から (2020年4月26日)
先生お久しぶりです!中2までお世話になっていたY本です。みんなのことが気になって見に来ました。私も晴れて大学生になれたことを報告にいきたかったのですが、また今の状況が好転した時に、ということで、その時を楽しみにしてます!先生もお元気で‼

私の返事 (2020年4月17日)
久しぶり!元気そうで何よりです!奥さんともたまに話をしますよ。ワンピース読んでますか?高校3年間どう過ごしてきたか、ぜひ教えてくださいね!こんな世の中ですが、卑屈にならずにがんばってください!また会えるのを楽しみにしています‼



「今年の卒業生」から (2020年5月1日)
Y城です。今日初めて先生のブログを読んでみました。すごい面白いので全部読破してしまいました笑 コロナで大変ですがおかげさまで大学生として頑張れてます!本当に約3年間お世話になりました僕自身出来の悪い生徒でいろいろと迷惑をお掛けしましたがそれなりに結果を残せて良かったです。また英会話でお世話になるかもしれないのでその時はよろしくお願いします!

私の返事 (2020年5月6日)
頑張ってるか?大学の授業はオンラインかな?塾もオンライン授業してます。「こんなアナウンサーいたら嫌やな~」と思いながら画面の自分を見てショック受けてます。この先の経済を考えると、就職難になりそうだから、勉強はしっかりな。英検やTOEICもどんどんチャレンジすること。また何かあったら声かけてください!



「塾講時代の旧友」から (2020年5月14日)
どうもご無沙汰です。久々に更新されていたブログを読んで(半月に1回くらい実は巡回して楽しんでます)、諧謔の感じが相変わらずでほっこりしていました。その感じだとコロナに感染することはなく元気で過ごされているみたいでそれもホッとしています。学習塾もこの状況ほんと大変だろうけど(そして解除されてからもいろいろ大変そう)、お体気をつけてねー。

私の返事 (2020年5月16日)
K田君久しぶりです!会おう会おうと言いながら、なかなか会えないですね。このままでは一生会えない気がするので、今度は絶対会いましょう!じゃあ「今度」っていつなんだ?と問われれば困るのですが。年末年始は京都に帰るので、K田君の都合があうようなら会いましょう!M本君やIさんを含め帰り道に語らったことを今でも思い出します。あの時は若気の至りというか、言いたいことをオブラートに包まずバンバン言ってましたね(私だけ)。コロナは(自分よりも受験生が)大変ですが、厳しい状況下であるほど英語教育においては本物と偽物がふるい分けられると思います。世間の塾選びの目も厳しく慎重になるでしょう!うちは「分かる人には分かる塾」だと思ってるので、むしろ好都合だと思ってます。K君もそろそろいい歳だから、仕事で無理せず身体に気をつけてね!人生を楽しんでください!



「2年前の卒業生」から (2020年5月28日)
O塩兄です。久しぶりにブログを見て先生がお元気(?)そうなので安心しました。相変わらずキレッキレのブログの内容で面白かったです。コロナの自粛を機に僕はプログラミングを始めました。和太鼓はイベントも練習も行うわけにはいかずしばらくおやすみ中で、新しい趣味を見つけた気分です。コロナで大学の授業もオンラインになりました。そのせいで英語のやり取りが大幅に減って、どんどん英語力が落ちていって絶望してます。もしかしたら、またお世話になるかもしれません。また、ご連絡します。

私の返事 (2020年5月29日)
元気そうで何よりというか、大学を辞めずに通っていると聞けて安心しました。大学の授業はつまらぬものもあるかと思いますが、それでも頑張って通ってください。そしてなるべくなら良い成績を修めて(首席で)卒業してください。これから景気が悪くなって就職難な時代がやってくると思うけど、ドバイや佐渡島での経験やそれによって培われた感性が助けてくれると思います。その辺の同年代の2倍くらい人生経験が豊富なのではないかな?俺が面接官ならO塩みたいな人間を採るけどね。お父さんお母さん、弟にもよろしく伝えといてください。また暇なときは塾に顔を出してね。


2020年5月 3日 (日)

オンライン授業中

現在、コロナにより、5/6まで高校生に限ってではあるが「オンライン授業」をしている。個人的には頑固おやじのラーメン屋(?)のように「休む」か「やる」かの二択しかなかったのだが、(毎日のようにオンラインでミーティングしている)奥さんの「意外とうまくいくよ。やってみたら?」という提言により、オンライン授業に乗り出したわけである。仮に授業を休止したところで、5/6以降、元に戻る保証はない。いやむしろ、政府の体たらくぶりをみている限り、この先も同じような状況に陥る可能性の方が高い。平常授業とまったく同じ内容、同じ効果を求めることはできないにしても、緊急時の代替策として備えておく必要はありそうである。

オンライン授業の媒体には、"zoom"というソフトを選んだ。使用するまでに複雑な手順を踏む必要もなく、思っていたほどの技術的障害もない。思っていたより快適だとは思うが、当然ながら普段の授業を超えるものではない。私は手間暇かけるのが好きなので、例えば、英作に取り組む際には少なくとも「解く→回収→添削→返却→解説」のプロセスを踏む。「解説」の際には解説プリントだけではなく、生徒の回答を1枚にまとめたプリントを配って皆で吟味しあう(突っ込みあう)。このような生徒とのやりとりが多い授業を、オンラインで展開するのはなかなか難しい。

とはいえ、ずっと家にいるという刺激のない日々にあって、時々のオンライン授業はとても待ち遠しい(と思うのは私だけだろうか)。慣れぬ当初は、生徒に「後ろのカレンダー3月ですよ」と指摘されて恥ずかしい思いもした。私だけではない。生徒の中にも、逆光で顔が影になりもはや誰なのかわからない子や、ホラー映画のように突如画面が大きく揺れたかと思うとプツッと切れてしまう子、あまりにも下からのアングル過ぎて鼻の穴が丸見えな子など、それぞれに素人感が満載であった
。また、飼い犬や飼い猫が映り込んだり、保護者や兄弟喧嘩の声が聞こえたり、ぬいぐるみや本棚の本が気になって紹介してもらったりということもあった。それらがダメだと言っているのではない。むしろ生徒の違った一面が垣間見えて、新鮮でとても楽しいのである。

そう考えると私の絵づら(画面)は面白くない。単なる老けたおっさんが壁の前にいるだけである。花を活けた花瓶でも、画面の端に映るように置こうかと思ったが、どこかあざといし、そもそも気持ち悪い。PC画面上には生徒に混じって一人だけおっさんの顔(私)が並ぶので、一瞬ビクッとして「なんだ自分か…」という情けない思いをしたこともある。とにかく、今回のことで「オンライン授業」は(代替策として)意外に使えるという収穫はあった。また一方で、どれだけテクノロジーが進歩してオンライン授業が流行ろうが、教室での対面授業を超えることはないという確信も抱いた。なので一刻も早くコロナが収束し、自分の顔を見てびっくりすることのない平和な世の中(平常授業)に戻ってくれることを心より願う。



2020年4月 1日 (水)

後くされ?受験後記

卒業生(昨年度の受験生)たちは元気だろうか?粛々と自宅待機に励んでいるだろか?そんな彼らの受験を思い返しながら、後腐れのある感想を徒然と書いてみようと思う。

受験生は14人と例年より数が多く、また「難産になるだろうな」と覚悟した(そして実際そうだった)子が多かったので、今年の1月~3月はやたら長く、ゆえに辛く感じた。胃の調子を崩しては「キャベジン」のお世話になり、口内炎や吹き出物に苛まれては「チョコラBB」に助けてもらう日々だった。3年間、同じ釜の飯を…とは言わないまでも、膝と膝を突き合わせてきた仲であるから、保護者ほどとは言わないまでも、一人一人の受験に胃が痛くなるのは当然である。塾の講師はもっと実務的で図太い精神の持ち主だと思われるかもしれないが、私は顔に似合わず意外と繊細で感傷的なのである。

ブログやホームページの受験結果の一覧を見て、「全体的にレベルが高いですね!」と評されたり、「医学部!ありえない!」「早慶!すごいですね!」「MARCH!いいな~!」などの羨む声を耳にしたりしたが、その結果に対して本人が満足しているかどうかは全く別の話である。大満足の結果としての早稲田進学者もいれば、悔しい結果としての早稲田進学者もいるわけで、「全員が行きたい大学(第一志望)に合格したか?」と詰問されれば唇を噛みしめてNoと答えるしかない。受験生全員の桜が咲くことはなかったし、また桜の咲いた者でも「5分咲き」やら「8分咲き」などその枝ぶりは様々であった。なので、塾の宣伝上「すごいでしょ」という厚顔ぶりをかましているが、実のところ内面はそうでもない。というか、むしろ後ろめたさすら感じている。

大学受験は難しく複雑で、そう甘くはない。コロナを引き合いには出すのは不謹慎かもしれないが、その見積もりの甘さはコロナの拡大予測に匹敵するほどである。そして(一部の)周辺の塾や大手予備校の発表する合格者数や実績アピールは、実際の悲惨な現状をひた隠そうとする中国政府のようですこぶるたちが悪い。合格者の実名や顔写真を載せたり、嘘くさい感謝の言葉を書かせたり、大手(東進)などは「MARCH合格者、〇万人!」ともはや天文学的数字を並べたてたりする。そもそも「昨年よりも実績が下がりました」という塾・予備校もあって然るべきなのに、なぜか無い。おそらく、各塾・予備校の発表する合格者数を合算すれば、正規の数を上回るのではなかろうか(実際に大阪で問題になった)。商売上、世間にアピールしなければならないのは分かるが、(不合格や不満足な結果となった受験生を余所に)はしゃぎすぎたり、誇大広告になったり、勘違いさせたりするのはよくない。などと思ったりするから、私は商売人としてもう一つ芽が出ないのかもしれない。

とぶつぶつ言っているが、とにかく受験生と保護者の方には、感謝の念でいっぱいである。何よりも、私自身、恩師である竹岡先生のように優れた参考書を世に出しているわけでもない。教室そのものもハイセンスなオフィスビルというよりは寺小屋風だし、授業内容もAIによる膨大なデータに依るものではなく私の経験と直観に基づくものである。「ホテル最上階の洗練された三ツ星フレンチ」というよりは、「頑固おやじが切り盛りしている下町のラーメン屋」といった感じである。それでも彼らが、その味を美味いと言って、3年間足繁く通ってくれたのだと思うと涙がこぼれそうになる。確かに指導者として「味」だけは誰にも負けないつもりだが、はるばる町田、狛江、橋本、世田谷などからこんな場末のラーメン屋に3年間も通ってくれたかと思うとなおさらである。しかも多摩センター駅から塾まで徒歩10分と微妙に距離があり、「ヒラメ筋(ふくらはぎ)が発達しました」とこぼした女子もいて、なんか申し訳ない。

彼らの受験結果もさることながら、そんな彼らと会えなくなることの方が実は辛かったりもする。基本、私一人できりもりしている塾なので、時に彼らに世間話の相手になってもらったり、塾の運営上のアドバイスをもらったりした。たまにおふざけが過ぎてからかい過ぎることもあったし、逆にからかわれて腹を立てることもあった。私が勢いに任せてしょうもない冗談を言ってしまっても、私を傷つけまいと(顔を引きつらせながら)笑ってくれる優しい子もいた。彼らが塾に来なくなってしばらく経つが、「ああ、なんて楽しく幸せな時間だったんだ」と今さらながら痛感させられるのである。

彼らは人生の次の段階へと進むが、私は同じ場所に留まって、彼らの背に手を振り見送るだけである。私一人だけが取り残された気がして、すごく寂しくて心切ない。私は「待って」と叫びたい気持ちを抑えながら、彼らの姿がはるか遠く見えなくなるまで手を振り続ける。どうか私の教えたことが、君達のこれからの人生で少しでも役立ちますように…、誰か一人でいいから、びっくりするくらいの金持ちになって塾を建て替えてくれますように…と心より祈りながら。


2020年3月10日 (火)

大学入試 合格結果

<2020年 大学合格結果>

※ 延べ人数ではありません。
※ 浪人を決めた生徒以外、全員を載せています。
※ 浪人生を1人含みます。  



● 〇〇さん  弘前大(医)、慈恵医大(医)、順天堂大(医、補)

● 〇〇さん  一橋大(商)、早稲田大(商、文化構想)

● 〇〇君   早稲田大(先進理工)、上智大(理工)、慶應大(薬)、東京理科大(理工)

● 〇〇君   首都大(法)

● 〇〇さん  東京理科大(経)

● 〇〇君   明治大(国際日本)

● 〇〇君   明治大(経)、立教大(法)、立命館大(法、経、産社)

● 〇〇君   明治大(商)、中央大(商、経)

● 〇〇君   立教大(観光)、法政大(国際、人間環境)、関西学院(外語、政策)

● 〇〇君   中央大(総合政策)、法政大(法、社会)

● 〇〇さん  法政大(社会)

● 〇〇さん  関西学院大(文)

● 〇〇さん  成蹊大(文)、専修大(国際)





2020年3月 2日 (月)

高校入試結果

今日は都立高校の合格発表でした。


<2020年 高校合格結果>

● 〇〇君 (鶴牧中)   八王子東高

● 〇〇君 (鶴牧中)   町田高

● 〇〇君 (上柚木中)  拓殖第一高



2020年1月26日 (日)

センター試験 感想

今年は暖冬だと言われているが、なぜか「センター試験」当日は雪が舞っていた。英語は少し難化したのか、平均点は去年から7点下がって116,3点だった。一方、塾内の平均は176,5点と好調で、180点以上が5人、最高は196点という結果だった。それを伝えると、受験生達から「すげえ」という声が上がったのだが、その点数を取った本人たちが驚いているのは変な感じがした。私自身、「全国的に見ても、こんな塾ないだろう」と自慢したいのだが、他の教科でこけたり、英語であっても「取り損ねたな」という生徒もいたりして、今はまだ自制したい。受験が無事に終わったら、もっと声高に自慢しようと思う。だから受験生たち、頑張ってくれ!
 

 

2020年1月17日 (金)

2020年 受験生諸君へ

受験シーズン到来である。その開幕戦である「センター試験」が間もなく始まる。「一世一代の大勝負」のような重苦しい雰囲気がなぜか漂うが、センター試験で全てが決まるわけではない。というか何も決まらない。私大を第一志望に掲げるのなら、別にセンター試験などスルーしても構わないのであり、むしろ、試験後に凹んでグズるくらいなら受けない方がましだと言ってもよい。「センター利用」とは大学側がおいしく利用するのであって、受験生側はただ利用されていることが多いのである。もちろん、国立大志望者にとっての捉え方は少し違う。センター試験が全てではないが、点数によっては、大勢を決する「関ケ原の戦い」となりかねない。せめて2次試験で挽回できるような点数を持ち帰ってきてほしい。

志望校の難易にかかわらず、受験生である以上、精神的にかなり苦しい時期を送ることに変わりはない。しかしながら、この暗澹とした状況が未来永劫続くわけではない。止まない雨はないのであり、どんなに長いトンネルもいつかは抜けるのである。そして3月にはもう塾に来なくていいのであり、4月には大学生になって満開の桜の下を歩いているのである(と信じたい)。

<受験の注意点>
試験会場では、周囲の他の受験生にビビらないことだ。やたらペチャクチャ喋っている受験生がいて、中には試験に出そうな内容を「これ出るよ!」と確認し合ったりしているが、耳を傾けないことである。「自信のない奴ほどよくわめく」と思っておけばいい。また、やたらと落ち着いていて、風格を漂わせた受験生もいるが、ただ単に老け顔の浪人生である。リラックスする程度に友人と言葉を交わすのはよいが、まずは何より、試験前に心を落ち着かせて自分の世界に浸ることが重要である。以前、冗談で「英字新聞をガバッと開いて周囲をビビらせよ!」と言ったが、本気にしないように。

試験の合間(休憩)は、肩を回したり、お茶を口に含んだりするなどして、頭を休ませてほしい。そうでないとその日の最後まで集中力がもたなくなる。また、直前の試験のことは頭から消し去ること。手応えがなかったり、ミスに気づいてしまっても、気にしないことである。後々意外と大した傷口でないことが判明することもあるし、勘で書いたものが運よく当たっているかもしれない。なんなら「自分でさえ間違えるくらいだから、みんなも間違えてる」と思っておけばよい。また、「どうだった?」「できた?」「最後の答えは4だよね?」みたいな感想を語り合うような愚かなことはしないことだ。凹んで次の試験に影響するだけである。とにかく頭をリセットして次に備えよ。

試験後は、ズバリ凹まないことだ。いや、凹んでもいいが、もう一度やる気に火を灯して立ち上がることである。というか、センター試験で「めっちゃできた!」という感想を抱いて帰る子などほとんどいない。皆、何かしら致命的なミスを犯し、何かしら心に傷を負っている。その状況からいかに早く立ち上がるかが大事である。

帰宅後、その日はゆっくり休んでもよい。ただし翌日から、次に向けて猛勉強を再開せよ。センター試験後に、凹んだり気が抜けたりして勉強が手につかなくなる生徒がいるが、入試本番はこれからである。「センター・リサーチ(合否判定表)」をずーっと眺めてウジウジすることのないように。ここから一般入試までの間に、いかに頑張れるかが勝敗のカギであり、ここで一気に上位者や浪人生を差し切りたい。

<2月に入って>
一般入試が開始される2月、しっかり勉強することである。入試当日は、その行き帰りを含めて半日、下手したら丸一日潰れてしまうこともある。帰宅後、疲れてただ寝るだけということにもなりかねない。それが連続してしまうと勉強のペースが乱れしまい、最悪の場合、2月の中旬から後半にかけて学力が低下し始める。試験を受けることに終始するあまり、勉強時間が取れなくなってしまうのである。2月は「学習時間を十分に確保」することを念頭に置いてほしい。

塾は2月に入ってもある。合格するまである。他所のように途中で手を離すことはない。というか、むしろ掴んで離さない。とことん最後まで付き合うので安心してほしい。生徒によっては、入試日と重なることもあるだろうが、来れる日はなるべく塾に顔を出してほしい。英語は放置すると驚くほど低下するので、維持する為にもなるべく授業に参加することだ。また、私自身、顔を見せてもらって言葉を交わさないと心配だというのもある。

中高6年間、高校3年間、顔をつき合わせてきた。英語の右も左も分からず不安に満ちて入塾してきた顔が、いつの間にやら凛々しく逞しくなった。時に、あんなにかわいかった幼顔が、「こんなにもおっさんになるのか」と驚かされたりもする。もう英語に関しては、私のレベルに追いつき、私の教えることは何もない。と言いたいが、まだ歴然とした差はあり、教え足りないことはいっぱいある。それでも、私の授業にここまでついてきた君たちは偉い!健闘を祈る。

2020年1月12日 (日)

お知らせ

新しいホームページを公開しました。
基本的には以前と同じ構成ですが、内容に大幅な変更を加えました。お時間のある時にぜひご一読ください。


https://www.tohkienglishschool.com






2020年1月10日 (金)

年末年始の私

年の瀬、顔に似合わずクリスマスが大好きなので、控えめながら教室にクリスマスの装飾を施した。進学塾の宿命として、過度にデコレーションすることは許されない。威厳やら品格やらが損なわれてしまうからである(元々そんなものないでしょ、と言われそうだが)。なので、クリスマスの世界観を存分に演出しているケーキ屋などを見ると、「ええな~」と羨む声が漏れそうになる。かと言って、私がサンタの帽子を被って授業したり、BGMにマライアキャリーの「恋人たちのクリスマス」を流したりするわけにもいくまい。受験生の怒りを買うだけであり、私がどんなに良いことを言っても、ありがたみが半減してしまう。とにかく、受験生に「クリスマスだからといって浮かれるな!」みたいなことを言っておきながら、私こそが一番浮かれていたのである。

正月はというと、例年どおり京都に帰省した。京都はどこもかしこも由緒ある神社だらけで、初詣に行くにも、選り取りみどりである。とはいえ、やはり職業柄、菅原道真を祀った「北野天満宮」に行くことにした。同じく道真公を祀った九州の太宰府天満宮も有名だが、京都人は北野天満宮の方が本家であり、ご利益は上だと言い張る。「余裕がある」から来れるのか、「余裕がない」から来たのか分からないが、受験生と思しき姿があちこちにあった。参道の両脇には、旨そうな匂いを漂わせる屋台がずらっと並んでいて、本来の目的を忘れさせようと参拝客を誘惑していた。まるで煩悩に揺らいだ参拝者を落とそうとする「神様のテスト」のようである。少し恐ろしくなって、目もくれず足早に通り過ぎようとしたが、参道の半ばでふと一緒に来ていた奥さんを見ると、悲しいかな、手に「りんご飴」が握られていた。

受験生全員の合格を祈ったあと、本殿横の販売所で受験生たちに合格鉛筆を購入した。私の恩師である竹岡広信先生は、三菱鉛筆の持ち手の部分をカッターで平らに削り、そこにペンで「なにくそ!」と書いた鉛筆を受験生に配ってくれた。少し下品で乱暴な言葉かもしれないが、その短い一言にすべてが詰まっている気がした。北野天満宮で買ったお守り以上にありがたかったし、先生が削った跡に触れ、少し滲んだ文字を見てはとても勇気づけられたのを覚えている。私もいずれそうしたいと思うが、今はまだ菅原道真の方が私よりもご利益がある。いずれ竹岡先生のように、道真をも凌駕する英語教師になったときには、「なにくそ鉛筆」を授けようと思う。

2019年11月19日 (火)

種々の予防接種を

November(11月)も半ばだが、塾生諸君は「No勉バー」になっていないだろうか?こんなことを言うと顰蹙(ひんしゅく)を買い、品性を疑われるのでなるべく避けたいのだが、そうかと言って「枯れ葉舞う季節となり…」みたいな時候の挨拶もどこか陳腐である。歳を重ねるにつれて、あれほど嫌っていた「親父ギャグ」に染まっていく自分が恐ろしい。恐ろしいと言えば、世間では少しずつインフルエンザが流行の兆しを見せている。受験生はすでに「予防接種」を済ませただろうか?「どうせ打っても罹るから」や「毎年打たなくても罹らないし」などとブツブツ言わずに、さっさと打ちに行くことだ。たださえ、大学に受かるか受からないかの瀬戸際の戦いをしている最中に、これ以上不安要素を背負ってどうするのか。

今月末に、センター試験の「プレ模試」が控えており、あんなに沢山あった模擬試験もこれで終わりである。受験本番に向けて臨戦態勢なわけだが、この時期に「果報は寝て待て」のような余裕のある受験生は誰もいない。むしろ、寝る間を惜しんでの「自転車操業」である。実際に当塾の生徒の誰一人として第一志望でA判定の出ている者はいないし、B判定もそんなにいない。異常事態のように思われるかもしれないが、これが意外と健全なのである。現状に余裕があったりA判定がとれているのは、順調な浪人生か、そもそもの志望校設定が低過ぎる現役生である。この時期の理想としては、C判定の上位からB判定が望ましい(E判定はさすがにヤバい)。そしてここから一気に浪人生に追いつき追い越す。1年という(とてつもない)ハンデがある以上、経験を含め、現役生が浪人生に勝る部分はほとんどない。敢えてあるとしたら、怖いもの知らずに突っ込む「勇気」だけである。しかしながら、その勇気でもって、手綱を引くことなく必死にムチを入れ続ければ、最後の直線で「奇跡の末脚」が炸裂して浪人生を差し切れる。

10月に、高1~高3(の一部)を通して同じ模擬試験をやってみた。高3生に限っては、行う前に、これでもかとプレッシャーを与えた。「下級生に負けたら知らんよ~」「人生を占う大一番だね~」「結果はブログにアップしようかな~」など、世間ならパワハラで訴えられそうなことを散々言う。本番にプレシャーに負けて撃沈した受験生を何人も見てきたので、今のうちに「予防接種」をしておこうと思ったわけである。見事私のプレッシャーに負けて、「頭が真っ白になりました」と大幅に点数を落とした生徒もいたが、それはそれで良い。本番でこうなるよりもましである。

高1生や高2生の結果は、あまりよろしくなかった。「受験なんてまだ先の話でしょ!」「この程度のノリでやってればMARCHくらい楽に行けるでしょ!」と(言ってはいないが)今の受験生が聞いたら怒り狂いそうなことを思っているはずなので、目を覚ませとばかりに同じ模試を課してみたわけだ。来たる日の為の「予防接種」と言っても過言ではないのだが、その効果のほどは本人次第である。とにかく存分にショックを受けてほしいので、高3とは対照的に試験後に散々プレッシャーを与えた。それなりの国公立大や難関私大に受かる生徒の多くは、高1の段階からすでにセンター試験で8割を超えている。それは決して冗談ではない。以下は、過去の「高1生」たちがセンター試験を受けてみての結果と感想だ。(恩師である竹岡広信先生 提供)

英語:167/200点 国語:143/200点

感想:初めは167点をとって、すごく満足した。「俺はまだ1年生なのにこんなにとれる」と。けれども、今日先生の話を聞いて天狗の鼻を折られました。英語+国語で350点以上とらなければならない。僕は310点だったので全然ダメだということが分かりました。センターの過去問をドンドンやって、180点以上を常にとれるようになります。

英語:186/200点、国語:144/200点

感想:英語では発音問題で間違えたことが、最も大きな反省点となった。リスニングにおいては、もっと自分から発音し続けることをしなければできないと思う。リスニングの教材を一つ持ってそれを繰り返してやることで定着させたい。国語は古文+漢文をもっとやらないといけないと思った。全体としては、数学は9割以上とれたが、国語が非常に足を引っ張ているので、そこをやらないといけない。

英語:152/200点 国語:145/200点

感想:正直、自分の力のなさに驚いた。これ程までにできていないとは。この程度の点数で「京大!東大!」などと言ってると思うとお笑いの域だと思う。正直、かなり自信を失ってへこんだ。英語は、まず単語がわかっていない。読めない単語が多すぎる。だから長文も読めない。まず単語をなんとかすべきだ。テストだから勉強するのではなく、自分の力のために勉強すべきだと、当然のことを今、認識した。「東大に行きたい!」なんて言っていいような人間でなかった。

英語:192/200点 国語:158/200点 

感想:1年の段階で「全く知らない」というような問題がなかったのに驚きました。1年生からしっかり基礎を固めるのが大切なんだと再確認できました。ただ、基礎的な問題なのでもっと点をとる余裕があったのではないかと思い反省しています。もう一度各教科の1年間の復習をし、見直しをしっかりしてちゃんと身に着けて2年生に進級したいと思います。

英語:168/200点 国語:172/200点

感想:英語の筆記でアクセントを間違えてしまったので、プリントを見直したり、ちゃんと辞書をひいたりしなければと痛感した。リスニングが良くなかった。日頃から英語を聞く量を増やそうと思った。声に出して読むことも忘れずにやろうと思った。友達の点数と見比べても、あまり良い結果ではないと思うので、反省すべき点をしっかり反省して、精進していきたいです。

英語:182/200点

感想:今回受けて、改めて自分の単語知識の無さを認識させられました。語法や発音、アクセント問題を間違えてしまいました。センターレベルであれだけ間違ったので、本当に焦らなければならないです。普段の自分の怠けが出たと思います。「小テストで合格点取れればいいや~」などと思っている場合ではないと思いました。私達のセンター試験までもうあと2年を切ってしまっているのに、ちゃんと間に合うかどうか不安です。

 

 

2019年10月20日 (日)

トライ熱

ラグビーワールドカップの様に、このブログにも熱狂的なファンがわんさかいる…ことはないのだが、仮に少しでも心待ちにしてくれている方がいるのなら、更新が長らく滞っていて申し訳ない。「本職である授業やその準備に精を出すあまり、ブログを書く時間がないんだろうな」と思っていてくれたら嬉しい。

日本の活躍が続くラグビーワールドカップであるが、実施期間はおよそ2か月と意外に長い。私の住む調布駅周辺も東京スタジアムが近いということもあって多くの外国人サポーターを見かける。私が帰宅する深夜になると、しっかりと酒の入った外国人たちが奇声をあげたりタックルしあっていたりと、ラグビーワールドカップという前提がなければ、カナダの治安の悪い地区(だいたいチャイナタウン付近)のようである。リュックをひったくられたり、マリファナ中毒者に追いかけられたりしたのを何となく思い出した。個人的には、地元開催でそれに呼応して盛り上がるというよりも、なるべく早く終わって静かな日常に戻ってほしいという気持ちの方が強い。

ラグビーのルールそのものにも気にくわない点がある。ボールを敵陣に持ち込んで地面に付ける得点の方法を「トライ」と言うが、トライの意味する「挑戦・試み」とは得点までの過程にこそあるわけであって、なぜその結果であるゴールが「トライ」なのか!とイライラしていると、奥さんに「トライの由来:昔はトライだけでは得点にはならなかった。あくまでキック・ゴールにトライ(挑戦)する機会が与えられただけであった」というWikipediaのページをスマホで見せられて、「ううう…」と怒りのやり場を失って苦悶する。

それから数日が経って、私の消沈していたラグビーへの怒りの炎は、再び「トライ」にロックオンして大きく燃え始めた。知恵を絞って(?)いざリベンジの時である。呆れずに聞いてほしい。トライ(try)は英語の語源的には数字の「3」を意味する。なのでトライで3点入るのなら分かるのだが、なぜに5点も入ってしまうのか! 日頃授業で、「tryをトゥリーと読んでごらん。トゥリー、トゥリー、スリー。ほら、threeになるよね」と(しょうもないことを)照れながら言っていた私が嘘つきみたいではないか!といった感じである。ご承知の通り、もはや怒ること自体が目的と化してしまい、もはや言ってることは無茶苦茶である。

もう少し語源の部分をちゃんと説明するならば、まず、-tri-は「3」を表す。triangle(三角形), triathlon(トライアスロン), triceratops(トリケラトプス:角が3本の恐竜) なども同じく「3」を意味する-tri-が含まれている。次に、tryには元々「裁く」という意味があり、それはtryの名詞がtrial(裁判)ということからも分かる。それでは、なぜ「裁く」や「裁判」が「3」と結びつくのか? 察しのいい人ならすぐ気付くかもしれないが、単純に「裁く人間(裁判官)が3人だった」というそれだけのことである。ローマ時代の末期に「三頭政治」という政治体制があり、3人の有力者とその一族によってローマ国内は牛耳られていた。そして彼らの支配は、政治や経済だけではなく「司法(裁判)」にも及んでいたというわけである。

ともっともらしく説明してみたが、現代の英語話者がtryという単語を使う際に一々こんなことを考えているはずがないのであり、またラグビーのトライのように元々の意味を失って記号化されたものなど、英語に限らず日本語も含めて数知れずである。語源はあくまで意味を掴むヒントでしかなく、現在使われている意味に必ずしも大きく影響を残しているわけではない。なので固執しすぎるのはよろしくないが、知っていれば英単語を覚えることが何倍も楽しくなる。

それでは「個別教室のト〇イ」の「トライ」はどうだろう?素直に考えれば命令文で「やってみて!」ということだ。以前は生徒一人に教師一人という「完全1:1」をうたって他と差別化していたはずなのに、いつの間にか「1:2」のコースを売りにしているみたいである。確かに近くの教室の看板をよく見ると「個別教室のト〇イ+」と後ろに「+」が付いていた。昔カナダの「1ドルショップ」に、1ドルより高い品が紛らわしく並んでいたので店員に文句を言ったことがある。すると外の看板を指さされ、「1$+」と書いてあったのを思い出した。もし実際に「1:2」だったとして、それを非難するつもりは全くない。むしろ足せば、語源通り「3」になるので、私としては腑に落ちてうれしい。

 

2019年9月10日 (火)

夏の終わり

生徒諸君は夏期講習お疲れさまである。学校の誰も得しない講習や予備校の帯に短しみたいな講習はいやなので、目的を明確にかつ細分化して量(時間)もがっつり行った。「どこが夏休みなんだよ!」「休んでねえよ!」「夏休みの方が平常より忙しいわ!」と夏休みとは名ばかりで勉強漬けという矛盾に文句を言いたくなっただろうが、私も同感である。それでも理性で蓋をして「やらなきゃやばいよな」という思いに駆られたのもまた同感である。夏休みを迎えるにあたって「備えあれば憂いなし」といきたいところだが、まだまだ皆が「備えがないので憂いだらけ」であった。やがて秋になり冬が来る。イソップ物語のキリギリスになってしまわぬよう、早く備えは万全にしておきたい。

よって私の夏は全て夏期講習に捧げた。実は授業時間よりも授業時間外の準備に多くの時間を割くので、授業数が増えた分、通勤時間を含めて朝から晩まで英語漬けになった。そんな中にあって、唯一の夏の楽しみが「甲子園」だった。こう見えて(隠れ)甲子園ファンなので、この夏も端切れのような僅かな時間ではあったが、甲子園中継や熱闘甲子園!(ダイジェスト番組)に夢中になった。涙腺が緩くなったのか、彼らの純粋でひたむきな姿に涙がこぼれそうになることもあったし、縁もゆかりもない都道府県の球児の為に天に祈ったりもした。

確か甲子園の準決勝だったか、星稜高校のバッターが大きなフライを打ち上げた。テレビカメラはボールを追いかけ、やがて捕球する外野選手を映す。何気ない試合の一コマに過ぎないのだが、ふと外野選手の背後のフェンスの文字に目がいった。スポンサーである有名企業に混じって、でかでかと「東進ハイスクール」とあるではないか!思いがけぬ所で商売敵との遭遇である。戦闘モードのスイッチが入ってしまった私は、「教育に携わる企業が甲子園のスポンサーになってどうする!」「甲子園こそが勉強を犠牲にして部活に専念してもいい風潮を生み出した元凶ではないか!」などと、私自身甲子園ファンであることはすっかり棚に上げて悪態をついてしまった。それにしても、もし私に同じ資金力があるなら、当塾名は書かなくていい。ただフェンス一杯に「勉・強・き・ば・ら・ん・か・い!」とぜひ書いてもらいたい。

職業上、試合中のふとした時に球児達の進路が心配になることもある。甲子園という大舞台で活躍した彼らの場合、ドラフトにかかる者は僅かだとしても、大学からの推薦が貰えたりと将来の進路はそれなりに確保できるものなのかもしれない。一方で、甲子園に出ることの叶わなかった世の多くの野球部員たちには「受験」という厳しい現実が待っているわけだが、引退の夏から受験勉強を開始したところで受かる大学などたかが知れている。3年間365日、厳しい練習に明け暮れても夢叶わなかったのに、なぜ受験ならそれが叶うと思うのか。その情熱の半分、いや三分の一でもいいから勉強にも注いでいたらMARCHくらい余裕で受かるのに、と思ったりするわけである。「勉強だけが全てじゃない」が、まったく勉強しなくていいわけじゃない。学生の本分はやはり勉強であり、甲子園を目指すことはその免罪符にはならないのである。

このように批判めいた感想ばかりが出てくるあたり、私は真の甲子園ファンでないのかもしれない。とはいえ、彼らの必死のプレーや試合後の涙を目の当たりにすると「お疲れさん」「よく頑張ったな」というアンビバレントな感情を抱かずにはいられなくなる。それは彼らの夢に向かうひたむきな姿勢と努力は、土俵は違えど私が見てきた歴戦の教え子達のものと同じだからだ。もちろん、逆のことも言える。野球でなく勉強に全情熱を注ぎ、甲子園ではなく東大を目指すのも青春だし、胸を張って誇れることなのだ。だから、ぜひ当塾の受験生たちには、無事志望校に合格することはさることながら、その後の人生で甲子園以上の大舞台で活躍できるよう精一杯勉強してほしいと思う。

 

2019年8月 3日 (土)

まだまだこれから!

受験生に負けじと睡眠時間と食事以外は、授業の準備や自らの英語のブラッシュアップに追われている。授業後も近所の喫茶店に赴き、深夜まで受験生の顔を思いうかべながら英作文のチェックを行う。成長の跡や努力の甲斐の見られるものは「〇〇さん…やるやん!」と心の声で褒め称え、あまりに酷いものや手を抜いたものは「〇〇君…むかつく…」と心の中で憤り罵る(そして血圧が上がる)。それにしても、アイス・コーヒーの飲み過ぎでお腹の調子がよろしくない。それにお小遣いも不安になってきた。喫茶店ではなく東進や河合塾の自習室が使えるよう誰か紹介してくれないだろうか?一人くらい私のようなおじさんがいた方が自習室の雰囲気も引き締まると思うし、質問があればその予備校よりも簡潔に答えてあげられる自信はある。ただ気味悪がって誰も近づいてこないかもしれないし、警備員につまみ出されるのがオチだろうが。

三者面談の予定も残り僅かである。保護者の方には、ただでさえ暑い中、こんなむさくるしい所に来ていただき申し訳ない。しかも「単語試験が最悪です」みたいな辛口のコメントが待っているかと思うと、軽やかな足取りでというわけにもいくまい。ただ少しだけ安心していただきたい。実は私の方も3者面談は大の苦手なのである。授業では泉のように的確な言葉が湧いて出るのだが、面談となるとその弁舌さは影をひそめる。とりわけ初対面の面談などは人見知りも甚だしい。誤解されぬように言っておくが、私は無感情な人間でもなければ(むしろ情は厚い方である)、決して怒っているのでもない。ただ恐ろしく緊張しているのである。なので居合わせた生徒諸君は、気を遣って「先生、今日は暑いですね~」などとその場の雰囲気を和ませてみてほしい。

その三者面談に先立って、高2生と高3生にマーク模試を一本やってみた。最高得点者が195点(1問ミス)、2位が184点、3位が175点という具合いだった。やはりこの時期、140~150点で足踏みしてしまう生徒が多い。入試も半年後に迫っているので、さっさと160点の壁を越えて、いずれ180点の壁も超えて欲しいのだが、まだまだ勉強量も考えも甘いのだろう(単語試験の結果だけでも分かる)。センター試験程度の英語は、才能など無くても断固たる意志と弛まぬ努力ができれば8割くらい余裕で超えるのである。11月頃には、仮に10回受けたら10回とも9割を超え、どんない劣悪なコンディション(高熱を出して意識が飛びそうな状態とか)でも8割を超えるくらいにまで極めてほしい。そして、センター本番では、塾内平均が170点以上には持って行きたい。

通っている者はすでに分かっていると思うが、当塾はその辺の予備校よりもレベルが高いし厳しい。自分で言うのもなんだが、おそらく東京でも数少ないまともな塾だと思う。鉄緑会や平岡塾などの都内の名だたる塾にもそこまで負けてはいまい。
なので「東輝塾生」として誇りを持ってほしい。途中入塾して必死に後ろからついてきている比較的新参の生徒も、志望校との差がなかなか縮まらない古参の生徒も、焦る気持ちはあるだろうが「急がば回れ」である。塾を信じて、まずは「言われた通りのことをやる」ことだ。それくらい英語に関しては信頼に足る塾のつもりある。この夏と受験までの残り半年、当塾の授業に喰らいついて頑張れば、まだまだ飛躍的に伸びる。

2019年7月 3日 (水)

夏の予定

ほぼ夏期講習の予定が組み終わった。今年の作成のテーマは「脱、合わさらん」である。毎年のように予定を組むやいなや「学校の夏期講習がありまして…」「部活の合宿がですね…」と生徒たちの様々な予定とバッティングしてしまい、夏期講習の日程表は直しに直しを入れて真っ赤っかになる。それを眺めながら、「合わさらんな…」「やっぱ合わさらん…」「こことここが合わさらん…」とブツブツ言っているうちに、もはやその表のことを「合わさらん表」と呼ぶようになってしまった。そして今年こそは、この「合わさらん表」と決別したいのであるが、果たしてうまくいくだろうか…。

夏期講習と言えば、某塾の「アルプスの少女ハイジ」のテレビCMを毎日のように目の当たりにする。ビジネスである以上、世間の注目を惹こうと奇抜なCMを作るのは分からなくもないが、教育者として彼らと同じ土俵で仕事をしているのかと思うと虚しくなる。また、以前豪華ホテルでの合宿をうたっていたが、生徒に媚びを売っているようでそれも気にくわない。私なら豪華なホテルなんかではなく、比叡山の延暦寺で行う。朝から晩までの学習を中心に、5時起床、雑巾かけ、お堂で座禅、精進料理、訓話の拝聴、写経体験、滝行、など心を磨くイベントをふんだんに盛り込む。ディズニーランドを超える刺激的なアトラクションに参加でき、ミッキーやドナルドよりもレアな徳の高いお坊さんと出くわせるわけである(すいません…)。

冗談はさておき、当塾の「今」から「夏休み」までの流れとしてはこんな感じだ。7月初旬に、全学年共通してマーク模試を授業で行う。その結果を参考に、7月中旬から3者面談を行う。それと同時に夏期講習がスタートする。まずは「自由英作」の講習が始まる。国立大の入試はもちろんのこと、英検、GTEC、TEAP、TOEFLなどの各検定試験でも必要不可欠であり、英語特有の論の運び方を身につける。次に「中級読解」と「上級読解」がスタートする。準1レベルの読解を早く正確に読めるかどうかがMARCH以上に受かるラインになる。いまだに処理速度が遅く処理精度の低い生徒は、この夏に何とかしなければならない。8月の中旬になると「上級英文法」が始まる。解答を導くまでの思考のプロセスを入念に確認にし、他の選択肢がなぜダメなのかをしっかり考える癖をつけたい。

高1、高2生は日頃あまり取り組めていない「英文法+英作文」の授業を行う。受験生のこの時期になってあたふたしたり、絶望感に包まれたりすることのないように、英語はどの教科よりも先行して得意になっておいてほしい。また彼らの入試制度は改変されて、「Reading+文法」に偏重していた入試から、Speaking、Listening、Writingにも平等にスポットライトが当たるようになる。これまでの受験生達のように「(出ないから)まあいいか」と目を逸らさずに、きちんと取り組まなければならないわけだが、それらは「技能」である以上一朝一夕では身につかないし、実際のところ、(学校は論外として)英会話学校でも習得はかなり難しい。

それでも少しでもましにしたいのなら、当塾の英会話の授業を受講してみてはどうだろうか。セールス・トークは大嫌いだし苦手なのだが、医科歯科大などで教鞭を執っている奥さんの授業は比較的お勧めできる、というか、(私が言うのもなんだが)もったいない気さえする。私も習いたいのだが、どうも夫婦の関係で教授のやりとりすると喧嘩になってしまうらしい…。とにかく、ペラペラしゃべれるようにはならないが、やってない人との差はものすごく付けられると思う。

もちろん夏期講習は任意であり強制ではない。夏期講習など必要ないと思えばやらなくていいわけだし、本人が得しないような授業はこちらからご免である。過去にもやる理由を見いだせずに夏期講習をしなかったこともある。毎年各クラスや各生徒の状況を鑑みながら「夏期講習が必要か?」「必要なら何をすべきか?」「どれだけやれば効果が出るのか?」を考えるわけである。必要ない生徒にはこちらから「取らんでもいいんじゃない」とか「他にやるべきことあるやろ」とか提言するようにさえしている。

生徒の英語力は誰よりも(もしかしたら本人よりも)把握しているつもりだ。他所の予備校や個別指導塾のように直に授業もしていない人間が面談であれやこれやと分かったような口をきくのとは違う。「近い距離」でずっと見てきているので各生徒の現状は熟知している。誤魔化したり取り繕ったりしてもバレている。そして、もっと言ってしまえば、これから先どこまで成長可能で、どの程度の大学に受かるかというのも見えてくる。それはもう恐ろしいほどに見えてしまうこともある。

 

2019年6月15日 (土)

O君の帰還

「日本に帰って来ました!塾に寄ってもいいですか?」と2年前の卒業生O君から電話があった。和太鼓のパフォーマーとして中東のドバイに行っていたのだが、1年ぶりに帰ってきたらしい。そう言えば、彼の弟からもらった今年の年賀状には、「兄は大学を休学してドバイに行っています」と書いてあった。彼の性格を考えると、南極だろうがアマゾンだろうが、どこに行こうと驚きはしないのだが、それよりも「退学」ではなく「休学」という言葉が書かれていたことに、ホッと胸をなでおろしたのを思い出した。

高校時代はいろいろ問題を抱え、それ故に親にも心配をかけたO君だった。彼のモチベーションの波は、近年の不安定な株価のように予想だにせず上下して、ある日、リーマンショックなみに大暴落したことがあった。それでも、そもそも言語習得のセンスに長けていて、高い集中力を長く持続できるタイプだったので、立ち直れば「MARCHには受かる」という確信はあった。早稲田には不合格だったが、それでもMARCHにはいくつか合格し、青山学院大学の国際学部に進学した。

太鼓を叩くのが三度の飯よりも大好きで、中学でも高校でも太鼓部に所属していた。確かに、ねじり鉢巻きにふんどし姿が似合いそうなきりっとした男前である。男性なら自分自身のふんどし姿を、女性なら家族の男性陣のふんどし姿を想像してみて欲しい。とてもではないが「似合ってるね」という感想は出て来まい。というか、すごく気持ち悪い。「ふんどし」というより、ひ弱な力士の「まわし」のようである。とにかく彼は「the太鼓」や「Mr.太鼓」という存在であり、それに相応しい生き方をしていた。

その電話から数日後、O君は授業後の私を訪ねてくれた。私の性格を熟知しているようで、開口一番に「すみません!お土産はないんです…」と謝ってきた。それから、本当は買っていたが荷物の重量の関係で没収されてしまったとかなんとか言っていたが、そんなことはもはやどうでも良かった。確かにお土産が貰えなかったことはショックだったが、それより「そういう人間に見られているのかオレ…」というのが悲しかった。「本当にすいません!」「次は絶対買ってきますから!」と何度も謝られる度に、より一層悲しくなるわけである。

ドバイには万博のようなテーマパークがあり、その中の日本パビリオンで太鼓を叩くというものだった。渡航費、住居費は出たらしいが、しばしば給与の支払いが滞り、運営会社に直談判しにいくという苦い(逞しい)経験もしたそうだ。とにかく、そんな(人気講談師の)神田松之丞ばりの迫力ある講談(苦労話)を聞いて、私は終始ドキドキ、ニコニコしている好々爺だった。恵まれた日本社会でぬくぬく育った若者が、世界で苦労する話は爽快であると言ったら語弊があるかもしれないが、彼のように壁にぶち当たっては悩み苦しみ、それを必死に突破しようとする人間が私は大好きである。

追伸:ドバイの生活で英語力の不足と必要性を身をもって痛感した彼は、奥さんの英会話の授業をとりたいということだった。もちろん大歓迎である。

 

2019年5月28日 (火)

気まずい沈黙

雰囲気の良い喫茶店で、コーヒーを飲みながらオシャレに仕事をしていると、パリン!と乾いた音がした。どうやら、お婆さんが手を滑らせてグラスを割ってしまったらしい。騒がしかった店内は静まり返り、周囲の客は皆そちらに首を捻ったのであるが、まるで「金縛り」にかかったかのように誰一人として動けない。お婆さんが、ゆっくりしゃがみ込んで割れたガラスに触ろうとしてようやく、少し離れた席のサラリーマンが「危ないから触らない方がいいですよ」と駆け寄って行った。「都会の人間も捨てたもんじゃないよな」と思わせる心温まる光景になったはずなのだが、どうしてもあの「金縛り」が気にかかる。時間にして10秒から15秒くらいだろうか、何とも無視できない「妙な間」があったのである。

すぐに駆けつけることができなかった。躊躇してしまった。その場に居合わせた客の多くが、罪悪感とは言わないまでも、後味の悪さのようなものを共有していたように思われる。私はというと、そんな喪に服した空気に同調することなく、ある小さな奇跡に喜んでいた。先程から読んでいた英文のタイトルが、なんと"Bystander Effect”だったのである。それは「傍観者効果」という意味であり、(詳しくはWikipediaで調べてほしいのだが)まさにその時その場所で私が体感したことであった。もう少しで「 あっ!!」と叫びそうになったし、マンガの登場人物が閃きを得た時のように、私の頭上で豆電球が💡っと光ったのではなかろうか。

"Bystander Effect"の話は、高3の授業で最近やったばかりである。その読解の冊子も終わりに近づいていて、それ以降は、同レベルで文量が1,5倍の物や英検1級の読解を行う予定である。この頃になると英語力とはまた別に、多少なりとも「(素の)語彙力」と「(素の)国語力」が必要になるのは言うまでもない。「傍観者効果」という社会心理学的な用語を知らないのはともかく、「傍観者」という言葉を知らない生徒がいたのは驚きだった。
他にも例えば、経済の話で「中国には巨大な塩の市場がある」の「市場」の意味が分からなかったり(塩専門のスーパーがあると思っていた)、太陽光発電の仕組みの話で「タービン」が何なのか分からなかったり(男性の名前だと思っていた)、砂漠に暮らす部族の話で「灌漑」を知らなかったり(悲しいかな漢字も書けなかった)、ということがあった。そういう私自身も「仰向けになって下さい」と言われると、「ん?(どっち?)」となり冷や汗ものである。なので、人のことはとやかく言えないのだが。

このような時、先程の喫茶店の状況よろしく、その場に「気まずい空気」が流れることがある。これを英語では"pregnant pause"と言う。私がカナダに留学した当初、調子に乗って(シュールな)冗談を飛ばしていたのは以前のブログにも書いた通りなのだが、その後にやって来る「気まずい空気」を幾度も経験したというのは、(忘れ去りたいが)忘れられない思い出である。その際の対応策として、前もって辞書で調べておいた"awkward"(気まずい)という単語を使って、"What an awkward silence!" (なんて気まずい沈黙なんだ!)と言うようになった。それにより自虐的な笑いが欲しかったというよりは、ふわふわ漂う「気まずい空気」を一刻も早く回収したかったのである。

しかしながら、芸人のギャグと同じように、さすがに何度も同じ表現を使用すると鮮度が落ちてくる。ミスを相殺するどころか、下手をすればミスの上塗りになってしまう。そこで(私が日本語を教えていた)Winnipeg大学のカウンセラーに事情を説明してみたら、「笑いなんてなくたっていいじゃないか!」「芸人じゃあるまいし!」「何しに(カナダに)来たんだ?」とか言われて涙が出そうになった。
しかし負けじと「日本人は控え目だと思われがちだが、一部の地域の人間は「笑い」というものにとてもうるさい。水を飲まなければ生きていけないように、笑いがなければ生きていけないのだ。そしてそれは「気まずい沈黙」を死ぬほど恐れることにも繋がるのだ。理解しがたいのは分かっている。けど、そこを何とか頼む…」と力説したら、困り顔で"pregnant pause"という表現を教えてくれたのである。ちなみに、こんなカウンセリングは始めだったらしい。

"pregnant"は「妊娠した」という意味で、そこから「(得も言われぬ空気を)孕んだ沈黙」という感じである。余談だが、一度"A ghost is flying through our classroom!"(霊が通ったよ)と言ってみたことがあるが、まったく通じなかった。あとカナダ人は「流す」ということをしてくれないので、下手なことを言うと「今のはどういうことだ?」「説明してくれないか?」と徹底的に追及され、針の筵と化すので気を付けたほうがいい。このようにモヤモヤした留学初期を過ごしたわけであるが、やがて私の中に英語の回路が出来上がると、長尺な台詞を言うよりも、肩をすくめながら一言"You see"(ほらね…)と言ったり、しかめ面で"Beyond description”(筆舌に尽くしがたい…)と言ったりする方が笑いが起こる(場が上手く収まる)ことを知ったわけである。

現在の私はというと、紳士らしく品のある冗談をたまにボソッと言う程度である。というのも、私以上に(意図的か天然かはともかく)ボケボケな生徒が結構いるので、私が突っ込み役に回らねばならないからだ。ゴーストバスターズが(背負った掃除機で)悪霊を吸いこむかのように、たまに生じる「気まずい空気」を必死に吸い込んでは浄化している。そんな心中…ご察しいただきたい。

2019年4月13日 (土)

梅に鶯、桜に何だっけ…

乞田川沿いの桜も満開になり、そこを飛び交う鳥たちも賑やかである。ただ悲しいかな、その鳥が何なのか名前が出てこない。くちばしの黄色い鳥が、毎年のようにちょんちょん土手を跳ねまわっているのだが、いつも名前が出てきそうで出てこない。まさか飛ぶ鳥を捉まえて「名前何でしたっけ?」と訊くわけにもいくまいし、近くを歩く年配の方に尋ねてみるのも一か八かのようで何処か気が引ける。こうなると、もはや風流を味わうどころではない。自分の脳みその方が心配である。春だからといってボーッとしている場合ではない。

前回に引き続き、もう一つ鳥の話をしよう。「私は5年前に小鳥を飼っていた」をある授業で英語で書かせてみたことがある。すごい解答の1つに、I had small chicken 5 years ago.というものがあった。この英文がどこが変なのか分かるだろうか。まず、「小鳥」に
chicken「鶏(にわとり)」はさすがにまずかろう。仮に家で鶏を飼っていたにしても、せめてa chickenかchickensのようにaか複数のsを付けなければならない。冠詞も複数のsもない裸のchickenは、食肉としての鶏、つまり「鶏肉」を意味する。そうなるとhaveは「食べる」の意味でもとれるので、この文は「5年前に私は少量の鶏肉を食べてしまいました」となり、まるで菜食主義者の懺悔みたいになってしまう。

やはり「鳥」はbirdであり、じゃあ「小鳥」は"a small bird"で良いかと問われれば、これもまだどこか変である。確かに日本語では「小鳥」というが、鳥は全般的に小さいものであるから、よほど他とは違って小さいんだということをアピールする必要がないならsmallはつけなくていいだろう。つまり、指でつまめるような小豆サイズの鳥がいたとしたら、a small birdと呼んでもおかしくない。普通のサイズの鳥に対してa small birdと呼ぶのは、どこか蛇足の感が否めないのである。

鳥と言えば、カルガリーに滞在中、ホームステイで出される食事が半月に1度くらいの頻度で「KFC」(ケンタッキーフライドチキン)だった(ちなみに「ピザ」と「宅配中華」も同頻度で晩の献立に盛り込まれていた)。別に嫌いではなかったが、その当時のカナダで「遺伝子操作で脚が6本ある鶏なんだよ」とか噂されていたので何処か精神的に気持ち悪かったし、何よりも「油(脂)」の過剰摂取による胃への負担で単純に気持ち悪くもなっていた。いったん、キッチンシートでとんとんしてから食べたいと思ったし、日本からのお土産に楊枝屋の「油取り紙」をあげたけど、(摂取する油の量を鑑みれば)「あれ意味なかったな」と思ったりした。

小さい頃から野菜嫌いで、あんなものウサギや虫の食うものだと思っていた私だったが、「KFC→ピザ→宅配中華」の波に翻弄されるたびに、野菜の存在意義を見直すようになり、野菜を欲するようになった。KFCの巨大なバレル(樽)に控えめながら付いてくる「コールスローサラダ」をこの時ほど愛おしく、ありがたく思ったことはなかったのではあるまいか。皮肉かどうかはともかく、カナダでの食生活が私の野菜嫌いを治す一助となったのは間違いない。

ホストファミリーは6匹の犬(と2匹の猫)を飼っていて、獲物を狙う狼の群れのごとく、KFCのウイング(手羽先)やハワイアン(ピザの一種)やジンジャービーフ(宅配中華の人気商品)を頬張る私に、ヨダレを垂らしながら距離を縮めてくるのである。最終的にぐるりと取り囲まれた私は、敵意と羨望が入り混じった鋭い視線に晒されながら、ただ黙々と食べるのであった。胃壁がボロボロの私の本心としては、半分くらい犬にくれてやってもよかったのだが、「人間のプライドが許さん!」みたいな胡散臭いポリシーから決して与えはしなかった(ホストマザーにも「ダメよ」と言われていたので)。

また鳥と言えば、カナダでは日本ではあまり馴染みのないターキー(七面鳥)もよく食べた。特に感謝祭をはじめ祝祭日には好んで食べられる。詳しい調理法は分からないが、ローストされたターキーにグレービーソースをかけて食べる。最初こそ、その珍しさと何処となく気品溢れる姿に「美味い」と勘違いしてしまったが、口の中の水分を全て持っていかれるパサパサ感にうんざりするようになってきた。しかも、ターキーが一度食卓に並ぶと、その後数日間のランチは、決まってターキーサンドイッチになることを意味した。出来立てホヤホヤでさえパサパサなのに、それ以降のものとなるともはや歯ブラシを食べているかのごとしである。

とにかく、この食生活のままでは死ぬと思った私は、大胆にもその名に「安全」を付したSafe Wayというスーパーで、私自身の安全の為に袋入りの「みかん」を購入しては机の引き出しに入れて食べていた。そんな「甘酸っぱい」思い出もある。

 

2019年4月 4日 (木)

燕とヤクルト

「燕(つばめ)」は英語でswallowと言う。日本では春から夏にかけてお馴染みの鳥であるが、当塾の単語の試験においてもお馴染みの鳥(単語)である。見出し語の欄にswallowとあり、その横の意味欄には「1:を飲みこむ 2:燕」と書いてある。こちらとしては、まずは「燕」よりも「飲みこむ」を覚えて欲しいので一義目に「飲みこむ」を持ってきたのだが、生徒の心理からすれば「つばめ」の方がはるかに覚えやすいのだろう。悲しいかな、(「飲みこむ」を無視して)「つばめ」の方を回答欄に書く生徒があとを絶たない。そのテストの返却時に「次からは『飲みこむ』の方を書くように。というか、せっかくなので『つばめ』も『飲みこむ』も両方とも書こう。あっ、ちなみに『つばめ』は漢字で書かなきゃ減点ね!」と釘をさしておくのが、毎年の習わしになっている。

たしかにswallowという1つの単語に、
「飲みこむ」と「つばめ」という全く関連性のない意味があることは不思議であり、また学習者泣かせでもある。同じ多義語であっても、それなりに説明のつくものはいい。例えば、sanctionという語には「制裁」と「認可」という真逆のような意味がある。私自身この単語と初めて出くわしたとき、思わず溜め息まじりに「どっちやねん…」と心の中で呟いたほどである。ただsanctionの-san-は、sanctuary「聖域」、sanitation「公衆衛生(聖なる状態)」、insane「正気でない(聖なる状態でない:inは否定)」にあるように「聖なる」を意味する。つまりsanctionとはそもそも「神の聖なる審判」の意味であり、その裁きが「よし、許す!」の場合は「認可」の意味になり、「許さん!」の場合は「制裁」の意味になるわけだ。このように根っこが繋がっていれば、逆の意味であってもそれなりに納得がいくのである。

しかしながら、このswallowに関してはお手上げである。もちろん「ツバメ」も餌やら何やら「飲みこむ」だろうが、それなら別にスズメだってヒバリだって良いではないか(ちなみに「スズメ」はsparrowといって、これまた似ていてややこしい)。むしろ「ツバメ」なんて雛にエサをやる為に、一度呑んだものを吐き出してるイメージの方が強い気さえする。「そういうものなのさ!」 「肩の力を抜けよ!」と、カナダでもよくネイティブに言われたが(はぐらかされたが)、こういう時にだけ何故か、私の中の「きっちりしい」の虫が騒ぐのである。

全ての英単語に対して、正しい情報に基づいた明快な説明ができるにこしたことはないが、残念ながらそれは不可能である。正直に言えばネイティブに「なんで(この場面で)この単語を使っちゃダメなの?」と尋ねたことの5分の1くらいは「そんな言い方はしないから」「何となく違和感があるから」としか返ってこない。言語の習得には得てしてそういうグレーでシビアな側面がつきまとうものであるが、そういう時にはその語にまつわる「簡略化した語源の話」「トリビアな小話」「カナダでの失敗談」「語呂合わせ」などを披露して(お茶を濁すようにして)いる。少なくともそうすることで、無機質なアルファベットの並びに見えてしまう英単語に、何かしら「個性を見出す」ヒントになるかもしれないからだ。

これは、担任が新学期になってまずクラス全員に「自己紹介」をさせるのと同じことである。彼らはそこで語られる趣味や特技、部活動での活躍、ユーモアのセンスなどをヒントに、一刻も早く生徒全員の顔と名前を一致させ、また大まかな人となりを掴まねばならない。英単語も右に同じである。読解中にある単語に出くわして、「こいつ誰だっけ?見かけたことはあるんだけど…」と5秒経ってその名前(意味)が出てこないようならアウトである。

例えば、先程の"swallow"に関していえば、少しでも印象に残るように次のような話を授業でするかもしれない。

プロ野球の「ヤクルト・スワローズ」というチームを知っているよね。その球団マスコットが燕の「つば九郎」なのは、swallows(スワローズ)がそもそも「燕」を意味するからなんだ。あと「ヤクルト」と言えば、整腸作用のあるビフィズス菌飲料として有名だね。あれって量はかなり少ないけど、ごくごく「飲みこむ」ものだよね。僕はヤクルトが好きなので、もっと2リットルサイズとか出ないかなと思っている。あるいはファミレスのドリンクバーに並んでたら最高なんだけど。え?ビフィズス菌の過剰摂取で逆にお腹が痛くなる? と、とにかく…、以上のことから分かるように、このswallowという単語は「がヤクルトを飲みこむ」と覚えよう!

生徒:「なんだよ…親父ギャグならぬ、先生ギャグか…聞いて損したぜ」みたいな気まずい沈黙が流れる。

おっ…面白いくないことは分かっている。だけど、このように、こじつけて覚えることも大事なんだ。もしかしたら「ヤクルト・スワローズ」という球団名も、当時の社長あたりが相当ダジャレ好きでそのように名付けたのかもしれない。部下や役員たちの反対を押し切ってね。だってそうじゃないと、周りが「虎」「龍」「巨人」「星(以前は鯨)」の中にあって、「燕」はありえない。「鯉(カープ)」も酷いけど、最近は1億円する錦鯉もいるらしいし、燕よりは貫禄あるしね!

あとそれとね、日本語で「飲みこむ」ことを「嚥下(えんげ)する」と言うの知ってる?その漢字をよく見てごらん。燕がいるよね。理由はまったく分からないけど、英語だけではなくて日本語でも同じように「燕」と「飲みこむ」はなぜか結びついているんだ。このような現象をsynchronicity(偶然の一致)と言うけども、例えば他にも「タヌキ寝入り」のことを英語ではfox sleep(キツネ寝入り)と言ったりする。面白いよね!

というように、たったswallow一語だけでも話はつきないし、これで二度とswallowのことは忘れないだろう。ただ、脱線のし過ぎには注意しなければならないが。

2019年3月12日 (火)

ほころぶ桜

家を出て近くのスーパーでお昼の弁当を買う。それから京王線に乗り、多摩センターに向かう。袋に入れてもらった弁当は当初こそ平衡に保たれてはいたが、駅の階段に差しかかる頃から怪しく傾きはじめ、ホームに着く頃には縁起のいい茶柱のように見事な縦になっていた。おかずのチキンもポテトサラダも漬物も混ざり合ってライスの上に乗っかかり、もはや何かの丼みたいな感じである。電車内で慎重に据え直すも、多摩センターについて勢いよく席を立つやいなや、一瞬で縦になってしまった。

バランスを保つことは何においても大事であるが、極めて難しい。学業においてもこれまた然りである。英語における4技能のバランス。受験に必要な7科目のバランス。部活やゲームやスマホをいじくる時間と勉強時間とのバランス。もちろん、ここで言う「バランス」とは同質同量を意味するものではない。なので「文武両道」という妄言をバランスが取れた理想の高校生活だと勘違いしないでいただきたい。両道(1:1)と言っている時点でもはやバランスは破綻しているのである(というか、両道にさえなりきれていない生徒もいる)。学生の本分は学業であるから、両道などではなく、「学業主道」でたまに部活動くらいが理想のバランスであろう。

今年の受験も終わり、見事に桜の咲いた生徒もいれば、桜散る結果となった生徒もいる。受験生全員の桜が咲くことでもあれば「よし集まってパーティーしようぜ」とかにもなるのだが、塾を開校して以来そんなことは一度もない。毎年必ず誰かは散るのであり、1人でも散ると何処か気が引けてしまうのである。もちろん、いつの日か受験生全員の桜が咲いた暁には、咲き乱れる桜の下で宴会でも開いて、(ノンアルコール)ビールでも酌み交わしたいと思う。

今年の受験生は、(正直に言えば)例年になく大変だった。これほどまでに「勉強しろ!」「復習しろ!」と言い続けた学年はなかったのではなかろうか。確かに生徒一人一人は性格の良い子たちばかりだった。彼らが親戚の子なら「勉強頑張ってる?」とさりげない一言で済ませて、後は一緒にオセロやトランプでもして楽しく過ごせたかもしれない。しかしながら、上述したような勉強のバランスがとれず、またそのバランスを管理する精神力が弱かったので、しばしば厳しく説教もした。

受験生の皆が皆ではないし、また受験生に限らず他の学年の生徒にも当てはまるのだが、「努力を厭う子」、「あるいは努力をしていると勘違いしている子」が多くなった気がする。言い古された(年寄りの)小言のように聞こえるかもしれないが敢えて言いたい。彼らの中には「そもそも勉強(英語、文法、数学、etc...)が苦手なんです」と漏らす生徒もいるが、実際はそうではない。私に言わせれば、彼らは勉強が苦手なのではなく、自分を厳しく律することが苦手なだけなのである。

正直、第一志望に合格していった生徒はどうでもよい。その結果は彼ら自身の頑張りによるもので、私の力でも何でもない。功に溺れることなく自信をもって引き続き大学でも頑張ればよい。一方で浪人生や思うような成果を挙げられなかった生徒は非常に気がかりである。その結果に至った責任の一端はもちろん私にもある。同じような(あるいはそれ以下な)1年を過ごしてしまわないだろうか、ちゃんとした学習計画や勝算はあるのだろうか。その辺のしょうもない予備校の口車に乗ってしまわないだろうか。

先日も、「いろいろ悩みましたが、やっぱり浪人します」という連絡が入った。その(少しだけ元気になった)声色は、春先のほころぶ桜を予感させたので、「そうか、頑張れよ」とだけ返しておいた。しばらくして「親とお礼に行きます」と返事が来た。本当にお礼参り(報復)をされるならともかく、感謝されることなど何もないので心苦しい。それでも我儘が1つだけ許されて、「何か欲しいものはありますか?」と問われれば、こう答える。少しでもましになった模擬試験の結果がほしい。



2019年3月10日 (日)

2019年入試結果

今年の受験も終わりを迎えた。現在把握しているのは以下の通り。結果だけを見るとそこまで悪くないのだが、浪人生らの活躍によるところが大きい。とにかく現役生はいろんな意味で大変だった(本人たちも自覚していると思うが)。また追々、一年を振り返って思うところを書いてみようと思うし、彼らの正直な感想も載せてみたい。

<2019年 入試結果>

●●さん 昭和薬科大(薬)
●●さん 早稲田大(商)、早稲田大(教育)、明治大(商)
●●さん 東海大(社会文化)、武蔵野大(文)
●●さん 工学院大(先進工)、横浜薬科大(薬)
●●さん 同志社大(政策)、成蹊大(法)、東洋大(法)
●●くん 湘南工科大(工)
●●さん 東京外大(国際社会)、ICU(教養)、上智大(外国語)
●●さん 学習院大(教育)、法政大(?)、津田塾大(総合政策) 
●●くん 首都大(経済)、明治大(経営)
●●くん 東北大(工)、慶應大(理工)、青山学院大(工)

※報告を受けた順。
※浪人生を含む。
※浪人生になる者もいる。





2019年2月23日 (土)

新年度の心構え

三者面談が行われている。生徒の思いがけない一面を聞けたりするのは楽しいのだが、やはり楽しいだけではダメなので、英語については正直に弱点やこれからの課題を述べて、志望校と本人の実力との間にいか程の距離があるかを理解してもらう。「何をやればよいか」は普段から言っているので分かっているはずで、そんなことよりも念を押して確認したいのは「遂行力」である。目標やら学習計画やらを綿密に立てるのに、テキストやら赤本やらを買い漁るくせに、結局中途半端にしかやらずじまいな生徒を何人も見てきた。

もう3月。当塾も新学年度を迎える。新高3生は、これまでなら英語や数学などの主要教科に集中していた勉強時間や労力を、他の科目にも上手く分散していかなければならない。言いかえれば、それと引換えに英語や数学は多少ペースダウンしなければならないわけだが、いまだに英語で8割を越えず、数学で7割を越えていないのなら、それはかなり厳しい。そこにさらに部活動が絡んでくるのなら、「棺桶に片足を突っこんでいる」どころか、すでに「棺桶にすっぽり入って蓋をされ、小窓から外を眺めている」という感じになる
だろうか。

一方で新高2生は、(英語に関しては)12年間で一番の踏ん張りどころであり、この1年でかなりの成長を遂げなければならない。その理由は上で述べた通りであり、十分に成長できなかった者が受験でどうなるかは言わずもがなである。難関国立大に受かっていくような子は、高1の冬の時点ですでにセンター試験は160(8割)点を超える。それに遠く及ばない子は、まずはやるべきことをサボらずにキチンとこなしていくことだ。ちなみに昨年の高1のトップは192点だった。

新高1生はと言うと、中3から上がる子は1人なので、どんなクラスになるかはまだわからない。中学の内容が抑えられていれば現状の学力はそこまで問わないが、モチベーションのある子が望ましい。以前「高1生、4人に1人、家で勉強せず」みたいな新聞記事があった。高校入試後に燃え尽きたり、反動的に「部活を
頑張ります」「青春を謳歌します」みたいなノリがどうしてもある。人生においての頑張りどころは、高校入試ではなくて大学入試なのだが、その割に高校3年間の過ごし方が残念というか悲惨過ぎる子が多いわけである。見方を変えれば、頑張らない生徒が大勢いるからこそ、(才能がなくても)頑張ればチャンスが生まれるのだが、悲しいかなそのことに気づける子は少ない。

そもそも中2、中3クラスを設けたのは、
まともな英語の基礎を備えて入ってくる高校生が殊のほか少ないからである。どれだけ名門の学校に通っていようが、そこでどんなけ難しいテキストを使っていようが、英検2級や準1級に受かっていようが関係ない。やってることや持ってる資格は立派でも、実際それ相応の実力が伴っていないことが多いのである。中学生に望むのは、(当たり前に思えて意外と難しいことかもしれないが)中学生の内容をとりこぼしなく完璧に仕上げて欲しい。そして、負の遺産を高1に持ち上げず、スムーズにスタートが切れるようにしてほしい。

当塾はその辺の「やる気スイッチ」を押すことを売りにするようなレベルの低い塾ではない。本能むき出しで生きる野生動物ではないのだから、理性をしっかり働かせて、やる気スイッチくらいは自分で押してから来てほしい。その代わり、これまで知らなかった英語の魅力に気づいたり英語の成長を実感したりすることによって、やる気の火種を大きくしてあげることはできると思う。






2019年1月22日 (火)

センター試験後の話

センター試験が始まって、そしてあっという間に終わった。まだ受験生の授業はないので、結果は聞いていない。おそらくは、希望を次に繋いだ者もいれば、絶望の淵に立っている者もいるわけだが、そんな後者の生徒のために「励まし」と「センター後の心構え」を個人的な視点で述べてみる。

正直言って、大学を受験する生徒
の多くは(国立大志願者を除いて)、センター試験を受けなくてもいい。もちろん受けるのは自由だし、センター利用の入試方式を導入している私大がほとんどだから、それを利用しない手はないのも分かる。2月からの一般入試に先立って大々的に行われるし、なぜか皆受けるし、高校も受けろと言ってくるし、何といっても受験回数が増えることで、合格のチャンスが増えるかもしれないからだ。

ただし、上手くいかなかった(思うような点数が採れなかった)場合に、そこまで凹むかというほど凹む人間がいる。二次選抜のある国立大志望なら分からなくもないが、それ以外の人間は別に悪くても、一般入試で頑張ればいいではないか。むしろこのタイミングで凹んだり、ボーダーが気になったりして、その後の勉強が手に付かないことの方が問題である。

そもそも、事前の模試でB~E判定しか出ていない際どい大学を、センター利用で受けるようなことは普通しない。受験スケジュールが過密になるのを避けるために、絶対に受かるだろうというような(わざわざ受けに行くのが面倒臭いような)滑り止めの大学をセンター利用で受けるのである。上位の難関大学をセンター利用で受けても、そもそも採る枠が少ないし、全ての教科で9割近い高得点を揃えなければならない。なのでハードルは非常に高く、試合巧者な浪人生が枠の多くを占めていくのである。言い換えれば、このような厳しい条件のセンター利用で受かるくらいの実力があるならば、一般入試で受けても大概は受かるのである。

このように、センター試験に期待を寄せ過ぎる受け方をしてしまった生徒は、この大事な時期に大きくペースを乱されてしまう。そして気づく、
受験料で儲けたい大学にとってのいい鴨となってしまったことを。あるいは痛感するかもしれない、一つの試験(センター)の点数で、出願した全てが落ちるというギャンブル的なリスクを。

なので、私大受験者はセンター試験の存在をなるべく無視することだ。「受けない」という選択が現実的に無理ならば、精神的に左右されない心構えを端からしておくことだ。センター試験はゴールではない。浜松や米原のような通過駅である。なるべく速度を落とさず通過して、目的地である新大阪(2月の本番)に一刻も早く向かわねばならない。新富士駅で富士山を眺めながら駅弁を食ってる場合ではないのである。

敢えてもう一度繰り返すが、センター試験を引きずらないように。ここで緊張の糸が切れたり、勉強の手を止めたりする者はそれこそ2月の本番で落ちると思え。センター利用が不合格でも、堂々と一般入試で受けて合格すればいいではないか。凹んでいる国立大志望者も、2段階選抜(足切り)はないのだから、実力差のはっきり表れる二次で逆転すればいいのである。それだけの話であり、それだけの英語力は授けたつもりである。足を止めずに最後まで走り切れ。

2019年1月18日 (金)

謹賀新年

今年最初の授業で、高2生がそれぞれに「明けましておめでとうございます」と言って入室してきたときは、「さすが高校生」と思ったし、根拠は全くないが「こういう事がきちんとできる生徒は受かる」と思った。昨年末にも、「今年一年ありがとうございました」と挨拶して帰っていった生徒がいたが、面と向かって言われると恥ずかしいものである。いつもなら電光石火のごとく何かしら突っ込み(気の利いた一言)を返すのだが、「んん…こちらこそ」と訳の分からぬ返事をしてしまった。

さすがに高3生(受験生)は余裕がないようで、神妙な顔つきの者が多かった。晴れやかに「おめでとう!」と言おうものなら「何がめでたいんですか?」「明けましてだと?何も明けてないよ!こちとら未だ真っ暗だよ!」と噛みつかれそうだった。一人の生徒が「明けてしまいました…」と、まるで
パンドラの箱でも開けてしまったかのように言ったのが(個人的には)面白かったのだが、笑うのは自重した。

あまりに神経質や悲観的になるのもよくないので、精神状態を上手くコントロールすることだ。「笑う門には福来たる」の精神だけで何とかなるほど現実はそう甘くはないが、感情のコントロールが上手くいかずにメダルを逃したオリンピック選手が大勢いるのもまた事実である。これまで志望校に受かっていった卒塾生達は、少なくとも受験直前での感情のコントロールが上手くできていた。

高1生はどうだろうか。残念ながら「明らかに(年末年始)英語に触れてなかったよね」というようなブランクを感じさせる生徒がいた。海外旅行に行こうが、家でダラダラしようが好きなように過ごせばいいのだが、「やることはやれ」である。高3の授業後すぐに高1の授業があったのだが、あまりにもだらしなかったので説教した。いまだ自分のレベルがどれだけ低くて(考え方も実力も)、どのレベルにまで到達せねばならないかを肌で感じてもらう為にも、近々高2のクラスに一人ずつ参加してもらおうと思っている。

高2生もこの時期になると、できる子とできない子の学力格差が大きくなっている。悲しいかな、「できる子」ほどより努力を重ね、「できない子」ほど努力を避ける傾向にある。入試本番まであと一年しかない。というか、夏休みに完成して9月の模試で結果を出さなければならないから、実質あと7ヶ月くらいである。遠い「対岸の火事」であったはずの場所に、今まさに舟を接岸しようとしている。中には何の装備もなく真っ裸のまま上陸しようという強者がいるが、このままでは上陸した途端に黒焦げである。

とにかく、「片足を棺桶に突っ込んでいる」という自覚を持って寸暇を惜しんでやることだ。特に昨年の夏以降に入塾してきた生徒達は明らかに力不足である。他の生徒よりも大きく出遅れているのだから当然と言えば当然である。「あの人すごいなー」じゃなくて、その人に早く追いつき追い抜かなければ、MARCH以上に受かりたいなんてもっての他であろう。それ以外のエンジンのかからぬ生徒も含めて、いい加減に現状の(楽な)居場所に甘んじず、早く重い腰を上げることだ。努力することでも負けたら、どこで勝てるのか?さっさと上位の人間に喰らいつかんかい!である。

以上、新年明けての授業の感想だ。私のように「正月に食べ過ぎて胃が消化不良を起こしてしまいました」はあるのに、「正月に勉強し過ぎて頭が消化不良を起こしてしまいました」はない。というか勉強してない人間ほど(頭の)消化不良を起こしている。毎回の単語試験も、授業の復習も、中期的にやっとくように言った文法課題も、しっかり咀嚼して一つ残らず消化吸収することだ。きっちりそれができれば普通に東大に受かるくらいの授業にはなっている。頼むから、私の正月時の胃のように、消化不良を起こしては下痢ばかりすることのないように。これまでのことは「水に流す」ので、これからは性根を入れて頑張ることだ。




2018年12月18日 (火)

授業を休むなら

ふつう、「○○なので、授業に行けたら行きますが、もしかしたら行けないかもしれません」といった場合、(私の)統計学上ほぼ来ない。単に引け目を感じるからそのように言葉を濁しただけであって、本心ではすでに休むことに決まっているか、8割がた休む方に気持ちは傾いている。その奥ゆかしさを否定するわけではないが、この弁を最後にもう欠席連絡はしなくていいと思うのはやめてほしい。こちらとしては、「来る」という含みを持たされているので、「来ない」とは思いながらも、もしかしたらを想定して授業の準備をせねばならない。なので、再度きちんと欠席の連絡を入れるのがマナーであろう。

それとは逆のこともたまにある。先月だっただろうか、「やるやん、こいつ!」と思わされたことがあった。ある生徒が修学旅行の帰りにダイレクトで塾の授業に来たのである。絶対来ないだろうと思っていたし、実際に来てからも「今日くらい家でゆっくりしたらいいやん・・・」と思ったのだった。一応他の生徒の手前もあり、これが当塾生としてあるべき姿だの、これで単語の試験の勉強もやってきてたら良かっただの、
鬼のようなことを言った気がする。

勘違いしないように言っておくが、どうしても休まなければならない事情もあろう。私だって体調を崩したら休む。また普段から定期テストで1回くらい休むのは構わないと言っているし、修学旅行だってお土産がもらえるから喜んで送り出す。しかしながら、中にはたかだか定期試験などで2回も3回も休む生徒がいるわけである。その行為そのものよりも、その志の低さにうんざりしてしまう。確かに「一回くらい」と言うと「まあ、それくらいなら良いか」となるかもしれないが、(着目すべきはそっちではなくて)その結果生じる「2週間 (半月)」のブランクの方であろう。サッカーやピアノ、部活動ならその重大さが分かるのに、なぜに塾の授業となるとそのことが分からない?

当たり前のことは言いたくないが敢えて言う。はなから塾のある日は分かっているのだから、それを見込んでテスト勉強をしてくれないだろうか。2時間に満たない授業に参加するくらいで、支障の出るようなテスト勉強の仕方をするな。その2時間をはるかに超える無為な時間を日頃から過ごしているだろうに。ともかく、学校の定期試験程度の学習計画がうまくたてられない者(アタフタしている者)に、大学入試までの綿密な算段が立つとは思われないのである。

あともう一つ言わせていただきたい。「休む」ということは少なからず「遅れ」をとるということである。つまり「追いつく為の努力」が必要になるわけだが、「前回の授業で何をやりましたか?」とさえ尋ねてこないのはどういう了見なのだろうか?まるで何事もなかったかのようにしらーっと合流してこようとするのだが、明らかに前回の内容が頭にないから接続(合流)がうまくいっていない。
解答を当てても「分かりません」を連発され授業の流れが微妙におかしくなり、私も他の生徒も気持ちよくスイスイ走れんのである。

さらに最悪な場合、復帰した日の単語やイディオムの試験の勉強さえやってこなかったりする。「なんで?」と訊くと、「試験範囲が分からなかったので」や「次の範囲のプリントをまだもらっていなかったので」とか意識の低いことを言う。当日までにそのプリントを取りにくるとか、最悪でも当日早目に塾に来てプリントを貰って試験に間に合わせるとか打てる手は複数あるだろう。面倒なのは百も承知であるが、それは授業を休む以上、覚悟して背負わなければならないハンデである。

当塾のように個別ではないが10人に満たない集団の授業においては、良い意味でも悪い意味でも、生徒同士は互いに影響し合う。それは直接的な知識の交換だけではなく、意識やモチベーションの点において恐ろしいほどに感化しあうわけである。金八先生の話にあった「腐ったミカン」のように全員が腐りに腐ってしまうこともあれば、受験までに皆が「美味しく熟したマンゴー」となることもある。それは指導者の手腕に拠る所もあるのだが、生徒一人一人の高い意識が必要不可欠なのは言うまでもない。頼むから、口を開けてエサを待つだけの愚か者にはならないでほしい。

2018年11月14日 (水)

奥さんの仕事

奥さん(Kimi先生)は慶応大医学部に籍を置き、健康長寿医療センターで研究している。また当塾だけではなく、今年9月から「東京医科歯科大学」でも英語の授業を受け持つことになった。「最近マスコミで騒がれてるから気をつけてね」と奥さんに言うと、「騒がれてるのは東京医科大学だから」と返ってきた。なので「そうそう、だから気をつけてね」と繰り返し言うと、「しつこい!」と怒られてしまった。

どうやら奥さんが働くのは「東京医科大学」ではなく、「東京医科歯科大学」なのだそうだ。私のように勘違いしている人も世間には多かろうと思うのだが、この「歯科」が付くか付かないかでかなり違う、というか全くの別物なのだそうだ。前者は私大であり授業料が死ぬほど高く、後者は国立であり偏差値が死ぬほど高い


奥さんの本職である研究では、「脳の認知機能と指先の機能との関係性」について研究しているらしい。たまに「これを読んでみて」と医学ジャーナルに掲載される自分の英語論文を持ってくるのだが、意味不明なので(かつ面白くないので)、しばらく読んでるフリをして「いいね~」と答えている。けれど、結構な確率でバレては白眼視される。

研究者とは論文を書いてナンボの世界である。しかも、なるべく権威の指標であるインパクト・ファクターの高いジャーナルに論文を掲載したいのだが、その分、敷居というか審査基準は高くなる。そして日本人研究者の中には、せっかく内容の良い論文であっても英語が下手なせいで、その審査に落とされてしまう者が結構いる。なので、英語のできない研究者は高額を支払って専門業者に翻訳やチェックをお願いしなければならない。

ただ、翻訳業者は医学の専門家ではないし、執筆者と同レベルの知識を持っていることはあり得ない。新聞にあるような読者に親切に書かれたにわか医学の話ではなく、かなり専門的で先鋭的な内容となれば、深くは理解できないままのチェックとなる。それで済めばまだ何とかなるのだが、先ほど述べたように研究者の書いた原稿の英語がそもそも酷すぎる場合、完全にお手上げ状態となってしまう。もはや翻訳というよりは暗号の解読である。「内容には口を出さなくていいからね!ただ英語の間違いだけを直してくれればいいんだ!」と言う愚かな研究者もいるのだが、最低限の内容や文脈が分からぬ限り英語のまともなチェックなんか不可能である。

このように、クエスチョンまみれの哀れな翻訳者たちは、イライラしながら原稿と睨めっこすることになる。いっそのこと大きく「✕」して返してやろうかとも思うのだが、もちろん仕事としてお金を貰っている以上、何もせずに突き返すわけにはいかない。結局は踏み込んだ指摘ができないまま、差し障りのない表面的なチェックを入れて終わってしまう。だからそんな論文は審査に落ちるのである。以上は私の経験談である。

実は昨日から1週間、奥さんはアメリカのボストンに出張している。国際学会があってそこで研究を発表せねばならないらしい。その渡航費や滞在費などは全て公費で賄われる。なので、素人目には「無料で海外に行けていいな~」とか「半分遊びみたいな感じじゃないの?」とか言いたくなるのだが、そんなことは口が裂けても奥さんの前で言ってはならない。ボストンに行ったまま帰ってこなくなる可能性がある。



2018年10月26日 (金)

英会話はもっとスパルタでいい

水曜日は「英会話」の日だ。以前一度だけ授業に顔を出したてはみたものの、「先生が見ているとやりにくいです」と生徒に怒られたのでそれ以来行っていない。「楽しいです」と言ってくれるのは嬉しいが、「普段と動かす筋肉が違うので舌が筋肉痛です」とか「常に脳をフル回転させるのでメチャクチャ疲れます」とか「聞き逃さないように常に集中しているので耳から血が出ました」とかいう感想が聞けるのを楽しみにしている。

学校の英会話の授業は下手をすれば、自分の意見など1分も喋らずに終わってしまったり、話したとしても頭を使わくていいような機械的なフレーズばかりだったり、一部の積極的な生徒やネイティブ講師に気圧されて、"I see."や"I think so."などの合いの手しか発さない聞き役になってしまったりしがちである。当たり前だが、話さなければ話せるようにはならないし、それも闇雲にではなく、しっかりと語の選択や文の組み立てといった「頭を悩ます」過程を繰り返し何度も経なければならない。

私は留学中、リスニングに注力し過ぎるあまり、耳鳴りや幻聴が聞こえるようになったことがある。と言うと聞こえはいいが、実際には就寝時に「Everybody Loves Raymond」というホームコメディを見ていて、毎晩のようにイヤホンを付けたまま寝落ちしてしまっていたのが良くなかったらしい。朝目覚めると、ギャグやジョークの度に差し込まれる観客の笑い声が、まるで呪詛のように耳に媚びりついて離れなかった。
とにかく「話す」のも「聞く」のも、その為に「集中する」のも「考える」のも死ぬほど疲れる。楽して成長することなどありえないのであり、「疲れること」=「成長の証」だと思ってくれたらいい。

いつも言うことだが、英会話とはバイオリンやピアノ、サッカーや野球のように体得するものなのだから、もっと体育会系のノリで厳しく、もっと自衛隊のようにスパルタでもいいと思う。それに反して、世間の抱くイメージは趣味の延長上のような楽しいもののようである。いかに短期間で楽に効果を上げるかばかりを競い合っている書籍や英会話学校のせいであろうか。私なら、「RとLの発音を鏡を見ながら300回!舌の位置や動きを確認しろ!」「くじを引いて出たテーマについて即興でプレゼン(スピーチ)してもらう!それを各自10セットいくぞ!」「立て、立つんだ!」 ・・・みたいなのもアリではないのかなと。


2018年10月 1日 (月)

楽天(食欲)の秋

毎年秋になると、底なしに食が進むのだが、歳を重ねるにつれ揚物など胃に負担のかかるものを受け付けなくなってきた。明らかに胃薬を服用する機会が増えたし、肉料理などを前にすると胃薬の有無を確認せねばどこか不安にさえなる。とは言え、先日、トウモロコシが大好きなので、楽天で北海道産トウモロコシLLを25本も購入してしまった。とてつもなくでかくて重い箱が届くと、「こんなに買ってどうするの?」と奥さんに怒られてしまった。

後悔すでに遅しである。楽天の宣伝コピーや写真に上手く騙されたのかもしれないが、実際そこまで美味しいというわけでもなかった。ほのかな甘みはあるものの、その長所を補って余りあるほどに粒皮が固めで、すぐ歯と歯の間に挟まって気分が悪い。他にも「嶽きみ」とか「ホワイトショコラ」とか美味そうなブランド品種もあったのだが、つい山盛り食べたいという貧困な発想から、名もなき安トウモロコシに手を出してしまった。

冷凍庫をほぼ占拠してしまうことになり、また衛生的に良くないのもあり、冷凍庫の扉を開ける度に奥さんから文句が飛んでくる。早く(冷凍庫の)スペースを空けわたすようにと脅されて一日2,3本食べているのだが、先ほど述べたように私の胃がもってくれんのである。
処理能力を完全に超えてしまって消化不良や逆流性食道炎を起こしている。汚い話で申し訳ないが、ここ数日下痢が続き、顔は吹き出物だらけになってしまった。気のせいか、鏡に映る顔色もトウモロコシのように黄味がかっている気がする。

話はそれるが、カナダ留学時、「私の名前は日本語でどういう意味?」という話題になり盛り上がったことがある。バンクーバーやトロントのように多くの日本人がいれば、彼らはまだ良識のある日本人を捉まえ、納得のいく答えを得られたかもしれない。しかしながら、ウイニペグという辺境の地にあっては、日本に纏わるどんな知識も情報も、一癖ある私を頼らざるをえなかった。その中でも、「私の名前を漢字で書いてほしい」やら「私の名前は日本語でどんな意味?」というのは、コーヒーを飲みながらであれ、酒を飲みながらであれ、大抵は誰かの気分が害されるというやるせない結果となった。

いくつか挙げると、ジュリーは「受理」、メラニーは「マロニ―(シラタキ)」、ケイトは「毛糸」という具合である。
そんな中で一番かわいそうだったのが、その当時の英会話学校の校長ゲリーである。皆の笑い声を聞きつけてやってきたのだが、開口一番「じゃあ僕の名前は?」と訊いてきた。一応、「世の中には知らなくて良いこともある」とかなんとか言って逃げようとしてみたとは思うが、「今度日本に出張で行く時に自己紹介で使いたいので教えてくれ」と言うのである。仕方なく「君の名前はdiarrhea(下痢)だ」と答えると、案の定、ゲリー本人は腹を下したようなしかめ面になり、その他大勢は腹を抱えて笑っていた。

「食欲の秋」の話はもう少しだけ続く。トウモロコシに引き続き、また「やってしまった」のである。何を隠そう、もうすぐ楽天で注文した「20世紀梨 5キロ 訳あり品 家庭用」が届いてしまう。私は京都出身なので梨と言えば「鳥取の20世紀梨」が定番であり、「あの懐かしい味をもう一度」とついつい手が(クリックする指が)伸びてしまった。正直そこまで梨が好きというわけでもないのだが、トウモロコシと同じく一時の妙なテンションに流されてしまったらしい。ちなみに奥さんにはまだ言っていない。


2018年9月 7日 (金)

学校の講習について

リクエストがあったので、時期的に遅いかもしれないが、「学校の夏期講習」についても所感を書くことにした。もちろん私個人の見解であり、世の中には素晴らしい授業をされている学校教師もたくさんいるということを先に述べておく。

そもそも一部の優良な例外を除いて、学校の授業が予備校の授業より優れていることはあまりない(彼らの存在意義には、学校よりも優れた授業を提供するという側面があるのだから)。部活動の多忙さを挙げてブラックと呼ばれる高校はあるが、純粋に本職であるはずの各授業をみても、結構ブラックなものが多いことは意外と知られていない。

それは教師の質や
モチベーションの問題に限った話ではなく、高3であるにもかかわらず受験に必要のない教科を取らされたり、逆に受験に必要な教科であるにもかかわらず全範囲を終わらぬまま入試を迎えねばならなかったり(世界史や日本史に多い)、ネイティブの確保ができずに20~30人というあり得ない規模で英会話の授業をしなければならなかったり(特に地方に多い)、高校名やコース名に「国際」とうたう割には単純に英語に力を入れているだけだったり、あるいはその英語すらあまり上達が見られなかったり、なんなら受験生を惹きつけるためのエサにすぎなかったり、などと運営やシステム上の問題もある。

話を夏期講習に戻すが、予備校のように生徒側の積極的な需要があってそれに応えるかたちで行うのなら分かる。が、頼みもしないものを半ば強制的に参加させられるのはたまったものではない。平常と変わらぬ教師が同じ調子で教えても、それは平常授業の延長でしかないのである。もしその教師の側にそもそも苦手の原因がある場合、その教師がいくら講習を重ねたところで意味などないではないか。教師の側にも「何故にせっかくの夏休みに出勤して授業をせねばならぬのだ?(安い手当てしかつかないのに)」と不満に思う者もいるかもしれない。このような場合、最悪にも「誰も得しない授業」ができあがる。

都立T川高校の生徒が来ているが、彼らは夏期講習の質の低さに嘆いていた。なので、もう行かない旨を教師に伝え、講習で用いている教材の解答をくれるように頼んだのだが、最後まで参加しない者には与えない、と言われたそうだ。確かに一度申し込んだものを「途中で抜ける」というのは褒められた行為ではないかもしれない。しかしながら、予備校のように生徒が講師や授業内容を吟味し選択できるわけでもないのだから、初回後の撤退くらいは許してやればいいだろうに。とにかく、受験生の足を引っ張ることだけはしてはいけない。

また
私立K高校の生徒は、夏期講習の申込用紙が配られたので「参加しません」に○をして提出すると、担任からしつこく説得されて参加せざるをえなくなったそうだ。参加の有無を一応選択できる形をとってはいるが、実際は半強制的に参加を促しているわけである。今流行りのパワハラではないが、学校や担任がこのように強く講習を勧めてくると生徒はなかなか断れないのである。しかも学校によっては講習費を別途要求するので、押し売りのようでなおさらたちが悪い。もちろん、現実逃避的な生徒にはこの種の説得も必要になるだろうが、意識の高い生徒には全くの逆効果である。

さらに別の私立M高校では、夏期講習一日目こそクラスのほぼ全員が参加していたのだが、回が進むにつれて出席者は減り、後半には四分の一になっていたそうだ。当塾の生徒も律儀に最後まで出席したらしいのだが、「なんで最後まで出席し続けたのか?」と訊いてみると、「なんか先生がかわいそうだったから」と返ってきた。生徒に気を遣わせるな、である。

私の恩師であり、駿台の英語講師である竹岡広信先生は八王子東高校に招かれたことがある。竹岡先生は学校の指導法(特に英語)については歯に衣着せずボロクソに言う。なので、もしかしたら事前の職員会議などで一部の教師から反対の声が上がるなどして一悶着あったかもしれない。この高校のようにプライドや意地を捨てて、生徒のために敢えて外部から優秀な講師を招く学校も中にはある。また、下手に講習をやって受験生の足を引っ張るよりは、彼らを信頼して敢えてやらないといった進学校もあるようだ。

もちろん学校側に全ての否があるわけではない。生徒に「夏休みは順調だった?」 「予定通りにいった?」と訊くと、誰一人として「はい!」という返事が返ってこない。毎年夏休み前には「この夏自分は激変する!」 「これまでの遅れを取り戻して余りあるほどすごく成長する!」という甘い期待を抱くらしいのだが、多少の成長は見られはしても、そんなサイヤ人のような劇的な変化は起きないのである。急がばまわれというか、普段から継続して頑張ることがまず重要なのだが、普段頑張れていない生徒ほど「夏休み」に(正確には「夏休みの理想の自分」に)、過大な期待を寄せてしまうようだ。

2018年8月22日 (水)

予備校の講習について

「高3の夏から間に合う!!」というような宣伝文句が予備校のチラシに踊る。適当なことを言ってくれるなと思う。それを信じて本当に高3の夏からスタートしたらどうするのか。少なくとも英語に関しては、高2であらかた完成させ、高3からはペースダウンして他教科に時間を割かねばならない。なので、「高3の夏から間に合う」などと無責任なことは口が裂けても言えないのである。

当塾の生徒の中にも、河合やら駿台やら予備校の夏の講習に通う者もいるようだ。効果がないとは言わない。しかし過度な期待はせぬことだ。たかだか3日4日の講習に参加したくらいでできるようになるはずはないのだから(そうでなければ平常から予備校に通う意味や、通っている者の立場がないではないか)。それを理解したうえで、何かしらのきっかけが掴めるかもしれないから行ってみる、というのはアリだと思う。

せっかく講習に参加するなら、少しでも自分にあったものをとるべきなのだが、切羽詰まった生徒ほど、背伸びをして身の丈に合っていない講習をとろうとする。たとえば「早慶英語」や「ハイレベル英語」などをとっても、その前提となる英語力がないために授業内容につていけない。私が「朝まで生テレビ」を見るときのように、「なんかいいこと言ってるなーこの人」という程度の感想は抱くかもしれないが、その実、まったく解っていないのである。

ずっと以前(としておこう)、ある受験生が授業後に私のところに来て、「英語は他に何をしたらいいでしょうか?」と相談に来た。「しょうがないな…」「おいおい…」「今さら…」と内心思うことはあれど、大概のことは親身になって話を聞くようにしている。が、この生徒の場合、単語の試験もろくに覚えてこず、復習もせず、やっておくようにと言った文法などの最低限の課題もできてない。それなのに、「何をしたらいいでしょうか?」はないだろう。その質問をしていいのは、平常のことが十二分にこなせている者だけである。

「今月末までに○○を片づけて、それから△△にとりかかります。それと並行して××もしなければなりません。とにかくやるべきことが山積みです」と漏らすのはまだましな方で、上の生徒のようにすべきことは目の前にいくらでもあるのに学習の方向性を見失ってしまったり、自分の現在地と志望校との距離を見誤ったりしてしまうのは重症である。こういう生徒を私は「受験迷子」と呼ぶ。

このような受験迷子を筆頭に受験生の中には、平常の授業内容も消化できていないのに、
1日24時間では足りぬ程すべきことが山積みなはずなのに、それらから目を背けて取り敢えず講習を取る者がいる。あるいは、周りの友人が取っているから(流されて)自分も取ろうとしたり、志望校ありきで基礎学力もないのに難しい講習をとったり、小手先のテクニックをいくつか披露されただけなのにできるようになった気がしたり、真面目に講習に参加したという事実だけで達成感や満足感を得たりしてしまう(ラジオ体操の法則)者も少なからずいる。

どうせ講習をとるなら、(勇気を出して?)私に相談してみてほしい。第三者的な視点から、また経験則から、何らかの助言ができるかもしれない。繰り返すが「講習をとるな」と言っているわけではない。時期と条件があえばそれなりの効果はあるものだと私も思う。

確かに、予備校の講習というものは他人(プロ)に舵を任せて豪華客船に乗っているようなものなので、たとえ一時的なものであれ快適であり安心感がある。一方で、自分で海図を広げて航路を計画し、荒波の中、自ら舵をとる航海はかなりしんどい。とてつもない不安やストレスにさらされることにもなるだろう。しかしながら、この「自ら舵を
とること」が、目的地に就航するには必要不可欠なのだということをぜひ分かってほしい。

2018年8月 4日 (土)

土曜の牛の日

「土用の丑の日」のその翌日に、ウナギを食べた。売れ残りだろうか、イトーヨーカドーで半額だったので数年ぶりに食べてみた。たまたま小骨が多いウナギを引き当てたのか、私の顎の筋肉が老化で弱っているのか分からないが、小骨が気になってよく味わえなかった。ただ、付いてきた「タレ」だけは昔と変わらず美味かった。

高校生くらいまで、なぜ土曜日ではない日に、しかも牛肉ではなく鰻を食べなければならないのか不思議だった。裏面にひっくり返したときの(皮ブヨブヨの)気持ち悪さもさることながら、山椒やらタレやらで所詮ごまかさなければ食えないゲテモノにしか思えなかった。なのでウナギ自身にさほど魅力はなく、むしろ付いてくるタレが主役だった。それだけで白飯を2,3杯は掻き込めた気がする。

ウナギは英語でeelと言う。英米人はグロテスクな魚介類は「食べられない」という固定観念があるからか、さほど関心がないらしい。なので、アナゴ、ハモ、ウツボなど長い魚は十把一絡げにしてeelで済ませてしまう。ワカメ、昆布、海苔などをsea weed「海の草」とまとめて呼ぶのと同じ心理である。

高1高2で三者面談を行っている。この猛暑の中、保護者の方には足を運んでもらって申し訳ない。近場ならまだしも、むしろ遠方に住まう生徒がけっこう多いのでなおさらである。来ていただくからには、なるべく包み隠さず正確に現状の英語力や今後の見通しなどお話できればと思う。ある授業で、「こちらから伺っても構わないよ」と(冗談で)言うと、満場一致で苦笑い(拒否)されてしまった。

家庭訪問(というか勉強部屋訪問)も意外とありかと思うのだが、おそらく生徒によっては足の踏み場もないような部屋もあるかもしれない。私が丹精込めて作ったプリントがクシャクシャに踏まれて散らばったりしていたらショックで泣く。というか、たとえ普段そうだとしても、気を遣って私の来る前に片付けてほしい。

最悪な部屋の場合、鼻を刺すような異臭が放ち、ゴキブリがあちこち徘徊し、カメムシが壁に鎮座している。机に目をやると、腐ったパンや飲みかけのペットボトルにはハエがたかっている。部屋の隅には脱ぎ捨てられた服の山があり、それをどけると何かしらの白骨死体が見つかる。そして私は震える手で警察に電話をする。すると突然、「見ましたね・・・」という声が背中越しに聞こえる。恐る恐る振り返ると、生徒が鬼のような形相で立っている。その手には包丁が握られている。

バカらしい。妄想が膨らみ過ぎて、もはや夏のB級ホラーである。とは言え、一応念のため、面談は塾に限ろうと思う。


2018年7月16日 (月)

合わさらん表

酷暑である。勉強する環境としては最悪だ。どうか受験生は環境の良い場所を選んで効率よく勉強してほしい。私なら、腰に負担の少ない快適なイス、コンセント付きの広々とした机、教室の脇には手入れされた観葉植物、ウォーターサーバー常備、コーヒー飲み放題(というかドリンクバー)、休憩用の漫画セクション(三国志やブラックジャックのようなモチベーションを高めるものに限る)、最先端の快適で清潔なトイレ、ビュッフェ形式の昼食と夕食、取り組んだ勉強時間が教科ごとにグラフ化されるシステム、喋った者を速やかに追い出すシステム、365日24時間利用可、仮眠室とシャワー室完備、夜食におにぎり配布、勉強時間に応じて時間給を支給、という自習室がほしい。

以前、松本人志がラジオで言っていたのだが、夏休みに後輩芸人と旅行に行こうと計画を立てていた。そのとき、どうしても皆の予定を合
わせることができなくて、「合わさらんやないか!」とぶち切れてしまったらしい。それからというもの皆の予定を調整するために、予め「合わさらん表」なるものを作るようになったとのことである。私自身もそれにならい、毎年のように「ココとココが合わさらんなー」とぶつぶつ言いながら自作の「合わさらん表」を眺めている。

その「合わさらん」原因は様々あるが、その一つ
は「部活動の合宿」である。あれはいったい何なのか?当塾に通っている生徒のほとんどが何かしらの部活動に従事し、その比較的多くが体育会系の部活である。そして毎年のように彼らは「合宿で行けません」と言う。その分勉強を頑張ったらどうだと思ったり、合宿に行かなくて済むように普段から存分に練習しておけと思ったりする。なかには文科系にもかかわらず(と言ったら怒られるかもしれないが)、料理同好会や手芸部、ゲーム同好会までもが合宿するらしい。

甲子園や全国大会を目指すというのなら百歩譲って分からなくもないのだが、深い考えもなくただ毎年の恒例行事として行うのならやめにして然るべきである。先輩や顧問からのプレッシャーもあるだろうが、「勉強が大事なので休みます」と言う勇気が欲しい。「合宿なので塾休みます」と釈然としないことを言われるよりも、よっぽどまともで納得のいく理由だと思うのだが。

生徒一人一人の責任もあるが、最終的な決断をくだすのは顧問なので顧問に恵まれるかどうかも大きい。某高校のバトントワリング部では今年から合宿をやめたらしい。「その顧問、頭いいね」と言うと、「京大出身らしいです」と返ってきたので納得した。とにかく顧問がまず意識を改革せねばなるまいし、許可を出す学校側も合宿の意義をしっかり再確認する必要がある。
そろそろ意味のない合宿はやめにしてはどうだろうか?



2018年6月10日 (日)

Let’s express our thoughts IN ENGLISH ! (Kimi's blog)

Welcome to my blog! This is the first time I ever write a blog, and I feel excited about it!

I teach conversational English on weekends to those who want to learn how to express their own thoughts in English properly. For this purpose, I also teach some grammar, reading comprehension and writing IN THE SAME CLASS! 
 
As a foreigner, I understand that learning a new language is hard at the beginning, but little by little my students become confident in expressing themselves in English. That’s why I include grammar, reading comprehension, and writing as part of my teaching because they help them to build their thoughts with confidence.

We all know that speaking English is beyond saying “what’s your name?”, “what’s your favorite…?”, or “how can I get to …?”. Of course, these types of questions are necessary, but learning a language is beyond (more than) that; a real conversation is beyond that…
 
If you want to improve your English, you have to try to express your own thoughts in English, and I’m very happy to help you do it! It does not matter if you start with short and basic sentences. Making long and complex sentences is a skill that requires time, effort and perseverance. The great thing is that it is possible!

My students do it and I am very proud of them! Ganbarimashou! We can do it!

*About myself: I’m a PhD candidate in the medical field who also enjoys teaching English because I love helping my students express their own thoughts in English. 





2018年6月 7日 (木)

単語の勉強法について

当塾の単語プリントはかなり優秀で、市販の単語集よりもはるかにましだと自負している。歴代の受験生たちの評価も非常に高い。しかしながら、プリントを握りしめているだけでは宝の持ち腐れであり、まったくもって意味がない。

単語を覚えてくることは毎回の宿題であり、授業に参加する為の最低条件である。全て覚えてくることが前提であり、「8割程度でいい」みたいな勝手な基準を設けないこと。以下、単語の覚え方とその心構えをまとめてみた(生徒には配布済み)。

1, 個性を持たせること。
ヨーロッパ人やアフリカ人の顔がみな同じに見えたり、AKBのメンバーの区別がつかなかったりしたことはないだろうか。それはその人物を抽象的な外見でしかとらえていないからだ。英単語も同じである。無機質なアルファベットの並びという見方を捨てて、それぞれの単語の個性を見出してやること。まず1回目では、その「個性探し」の過程を大事にすること。そうすればそれ以降、語彙の習得はかなり楽になる。
 ● 語源を知る。
 ● 逐語訳ではなく核となる意味を掴む。
 ● 類義語との違いを考える。文語か口語かなど使用場面を知る。英と米での違いを知る。
 ● 実際にどうやって使うのか?といった語法を知る。(ex) allow 人 to V
 ● 語呂合わせで覚える。(意外と効果あり)

2, 書いて覚える。
眺めるだけは論外。発音を確認しながら紙に繰り返し書くこと。手を動かすことで記憶に定着しやすくなるという研究結果は出ている。チラシの裏紙でもいいが、大学ノートに書いて冊数を貯めていく方が成果が分かってよい。

3, 発音の確認。
意味ばかりに取らわれて発音できないのは論外。
何の為に高価な電子辞書を買ってもらったのか?少しでも迷ったら音声で確認せよ。
RとLの発音の違いを区別しろと言っているのではない。日本人発音でも構わないが通じる発音を心がけよ。
(ex) fatigue「ファティギュー」✕ Rome「ロメ」✕ Mike「ミケ」✕

4, その他。
 ● 意味は漢字で書くこと。「ひらがなでもいいですよね?」みたいな意識の低いことを言わない。
 ● プリントの並びで覚えない。テストではランダムに出される。
 ● すぐ忘れてしまう者や物足りないと思う者は、塾のペースに合わせずどんどん積極的に覚えよ。
 ● 5秒考えて出てこないようなら、それは覚えてないのと同じ。
 ● 通塾の車の中、または歩行中(最悪)に覚えて、慌てて間に合わせようみたいな情けないことをするな。
 ● 単語の試験一つもろくに合格できない(間に合わない)者が、大学入試に合格できるわけがないと思え。
 

入塾の際に通っている高校や英検や模試の成績などで敷居を設けることはしていないが、単語を覚えてくる覚悟があるかどうかの意志を確認することが、ある意味で敷居なのかもしれない。この程度の努力さえ厭うようならば当塾の授業にはまずついてこれないし、「最低MARCH以上には行きたい」などと言うのもお笑い種である。

高1からきっちりと毎回の単語試験をこなしている者は、それなりに良い大学に受かっている。ただし、その逆もまた然りということを念頭に置いておくこと。それでは健闘を祈る。

「まあいいか、その一言であと一年」



2018年5月23日 (水)

品格よりも、まず品性を

ミスドで女子高生二人組が、(祇園辻利の)抹茶ドーナツを食べながら「くそうまいんだけど!」と叫んでいた。もちろん糞がうまいわけでもなければ、糞を念頭において発した言葉でもあるまい。だが、とうとう味覚を「クソ」で表現する時代になったかと思うと妙に感慨深い。言葉とは悪化するものではなく、ただ変わりゆくものだという認識はしているが、言葉を司る個人の品性は確実に悪化しているようだ。

当塾の生徒も例外ではない。「くそです」と模試の結果を持って来たことがある。なんか糞を手渡しされたみたいで気分が悪い。模試のできの悪さもさることながら、その言葉遣いに怒りが込み上げる。さらには「眠かったので集中できませんでした」などと言い訳するものならば、怒りは頂点に達し「そこに座れ」となる。そして糞をちびるほどに説教するのは言うまでもない(?)

「彼女は、彼女の叔父によってあげられた時計をして、彼女の家の近くの公園に行った」

品性の有無はともかく、このような頭を抱えたくなる日本語は頻繁に飛び交う。たとえ「あげる」の受身形が「あげられる」だったとしても、
不自然さを感じて「もらった」と言うべきだろう。また、文中に「彼女」が多すぎて気持ち悪い。日本語の場合、英語ほど代名詞を執拗に反復しないし、そもそも「彼女」という代名詞を使わない。使うとすれば、氏・彼女の関係を示唆するときだろう。

このように気を抜くと日本語すら怪しいので、英語は当然ながら問題だらけである。幸か不幸か本人はミスしたという自覚はないし、また指摘できる者も周りにいないので基本的には糞の垂れ流し状態となる。フィルターとなるべき英語教師や教科書などもあまり頼りにはならない(
「糞の役にも立たない」と言いたいがそれはあんまりかと)、というか彼らが率先して垂れ流していることも多い、というのが現状である。

①good taste! → ②delicious!
→ ③yummy! → ④tasty! → ⑤ (it tastes) good!

話は変わるが、これは私の「美味しい」の何となくの遍歴である。good taste! は日本人のよくやる間違いで、「おいしい」ではなく「(服装などに対して)いい趣味してるね」という意味だ。deliciousはそれ相応のごちそうを前にした時に用いるべきで、普段の(質素な)食事には仰々しい。yummyは逆にこなれすぎているというか、もはや幼児語の類である。ろくに英語を喋れないうちから、くだけた英語を使おうとするのはイケてるようで逆にイケてない(と教養のあるネイティブに何度も怒られた
)。最終的にはgood、nice、あるいはI love it.など、シンプルなものに落ちついた。

この過程を省みて今思うのは、「英語って奥が深いな」とか、「自分頑張ったな」とか、「今ならインターネットで調べれば済む話なのに要領悪いな」などではない。「なんてデリカシーのない奴・・・」である。前日の残り物なのに皮肉のようにdeliciousを連呼されたり、また自分の出した食事の評価が急にdeliciousからyummyに落とされたり、ステイ先のホストマザーは一体どういう気持ちだったろうか。なんか、上で述べた「くそうまい」の女子校生たちと目糞鼻糞のようで悲しい。

2018年5月 3日 (木)

6月からの会話クラス

6月中旬から会話授業を開講する。その詳細は以下の通り。まだ具体的な開講日など仮の部分もあるので、改めて正式に紙面にてお知らせする。参加を希望する者は平常授業でその旨を伝えてほしい。
 
①選択制。
  ※必須ではない。
  ※時間的な余裕やスピーキングの必要性などを考慮して決めてほしい。

②授業は中学クラスと高校クラスの2つを設ける(が、極端に人数が少なければまとめて行うこともある)。
  ※週1回。1時間半。
  ※中学の部: 水曜の19時半~21時まで(仮)。
  ※高校の部: 土曜の20時~21時半まで(仮)。
  ※初級者を中級レベルに上げることを想定したクラス。なので上級者には向いていない。

③授業料。
  ※月5,000円
  ※テキスト1冊を購入する予定。

④参加条件。
  ※平常授業がきちんとこなせている者(単語の試験や毎回の復習など)。
  ※「今はダメだが、少しでも何とかしたい」という意志のある者。

⑤注意事項。
  ※学校や幼児教育のようなゲーム性のある授業ではない。
  ※CDを聴いてや記事を読んでの議論、またエッセイ課題など、ただ単に話すだけではなく他の三技能も必要。
  ※教室に入室後の日本語の使用は厳禁。
  ※沈黙も厳禁。

⑥講師。
  ※Kimi Stela Kobayashi or Sonoyama(=奥さん)。
  ※彼女の第一言語はスペイン語であり、英語は第二言語である(日本語は第三言語)。なので、ネイティブ信奉者には向かない。
  ※タイプ的にはカナダ英語。イギリスのように堅く保守的でもなく、アメリカのように崩れ過ぎてもない、その中間。
  ※現在、慶應大学大学院の医学部に所属。また健康長寿医療センターにも在籍。脳の研究らしい。教授や研究者の英語論文のチェックや英語によるプレゼンの指導も任されている。また個別で彼らに英会話も教えている。

⑦その他。
  ※どうしても都合がつかない場合、やむを得ず授業を休みにする場合がある。
  ※たまに私も見学するかもしれない。
  ※とにかく、当たり前だが話さなければ話せるようにはならない。

2018年4月30日 (月)

大学受験体験記

「大学受験体験記」   (※原文まま、一部割愛)

Kei. O君 
(南多摩中等卒 九州大学在学)


英語の勉強について

大学受験において英語は文理問わず非常に重要な科目だ。しかし直前に焦っても英語はなかなか伸びない。脅すようだが、英語に不安を抱えているのなら、今すぐ手を打たないと終わりだ。英語の勉強法について、全受験生に共通し、かつ絶対にこうすべきだと自信をもって宣言できることだけを伝える。

英語には必ず毎日触れること。イメージは階段を上る感じです。一日1段ずつでいいから確実にのぼっていこう。ただし、一日休むと3段落ちると思ってください。だから休むことなく一段ずつでいいから必ずのぼっていってください。

単語テスト、熟語テストは秋までに完璧にしてください。東輝の単語と熟語は超重要かつ超頻出のものばかりです。いろんな単語帳に手を出さず、東輝のプリントを信じて取り組んでください。また、熟語はカッコ内だけでなく、解くのに多少時間がかかってもいいので文ごと読んで意味を理解したうえで答えを埋めてください。

英語は読みまくればいいなんてことは決してありません。一つの長文をゆっくり、曖昧なところを流さずに読破してください。スピードは全く気にする必要はありません。全文を頭の中で和訳してください。そのうち和訳しなくても英語のままで内容がつかめるようになります。そうやってスピードは上がっていくものです。曖昧なところがごろごろあるのにスピードばかり追い求める勉強法は今すぐやめてください。一つ一つ丁寧に。スピードは後に必ずついてきます。

リスニングは、単語帳についてくるようなものは使わないでください。ネイティブは僕たちと違い単語と単語をつなげてしゃべります。単語一つ一つを聞きとれる力はあまり意味がありません。CNNやTED、BBCの6minutcsEnglishが内容が面白いのでおすすめです。

過去問はとっておかずに時期が来たらどんどん手を出していきましょう。その時期は人それぞれなので、そろそろかなと思ったら先生に聞いてみて、いやまだだと言われなければもう始めましょう。大体の人は11月頃には本格的に過去問を始めるといいます。

あとはひたすら東輝での授業、復習を徹底してください。余裕があったら自分で長文読解をやるのもいいでしょうが、学校の宿題もあるでしょうし、やらなくても問題ありません。その代わり、週2回の東輝での長文読解を全力でやり、必ず復習してください。


国公立志望の人へ

マーク模試で安定て9割以上が取れている人はセンターの対策は1月に入ってからでも十分です。センター後は意外と時間がないのでそれまでは二次の勉強に力を入れてください。その代わり、1月に入ったらセンター対策に専念しましょう。


最後に受験生へ

大学受験の最大の目的とは何だろうか。僕は第一志望合格が最大の目的だと信じ込んでいた。部活をすることの最大の目的とは何だろうか。僕は競技力を高め一つでも上の大会へ進むことが最大の目的だと信じ込んでいた。でも全部が終わった今、ようやく本当の答えが分かった気がする。大学受験も部活も学校行事も、最大の目的は自分磨きである。

生まれてから大学に進学するまでの時間よりも、大学に進学してから死ぬまでの時間の方が圧倒的に長い。本当に大切なことは実は第一志望校に合格することでも競技力を高めることでもなく、いかにあなたが大学受験や部活での努力や経験を残りの人生に活かし自分に磨きをかけるかだ。

ただ、こんなことは全て終わってから気づくことだろうし、全て終わってから気づくべきだろう。だから今はひたすら第一志望校合格を目指して頑張ってほしい。ただ、苦しくて潰れそうなとき、今努力することが必ず自分の人生に何か輝きを与えると言い聞かせてみてください。きっと乗り越える力になるはずです。夢に向かって一歩ずつ、振り返ったときその足跡は気っと最高の財産になります。頑張ってください。

2018年4月 6日 (金)

英会話について

某高校の生徒が春休みを利用してアメリカに留学している。どのような成長を遂げて帰ってくるのか楽しみだ。もちろん数週間という短期であることを考えると、果たしてどれほどの効果があるのか訝しみたくなる気持ちも分からなくはない。しかしながら、話せるようにはならないにしても、リスニングや発音を改善する手がかりを得たり、島国特有の閉塞した空気から抜け出して、国際的感覚を養う契機になったりする。また、これからの英語学習のモチベーションや、将来さらに本格的な長期の留学を志す上での足がかりとなる期待も大きい。

ただ、およその留学費用を教えて貰ったが、いかんせん高額すぎる。私のカナダ留学の4,5か月分である。故に、説明会などでせっかく留学をアピールしていても、結局は11人しか参加しないというお粗末な結果となってしまう。そのあたり学校側はもう少し費用を抑える努力というか、高い授業料を貰っているのだから多少なりとも還元すべきではなかろうか。参加したいが費用の面で断念せざるをえない生徒が毎年多くいるという事実を、学校側はもう少し真剣に考えねばならない。

スピーキング(とエッセイ・ライティング)の授業を6月のスタートを目途に設ける予定だ。いろいろ思案している最中なので、詳細は決まり次第報告する。
以前(5年前くらいに)高校生の会話の授業を設けたことがあったが、需要がなくいつの間にか社会人向けのクラスになってしまった。しかしながら、2020年の大学入試改革やオリンピックによる国際化の波に押されて、これから世間の意識も変わっていくのではなかろうか。

大学入試が変われば、それを目指す高校や予備校の授業は変わらざるをえなくなり、また高校が変われば、中学の授業も変わらざるをえなくなる。これは正しい。これまで、(良し悪しはともかくとして)小学校に英語の授業を導入するなど
英語教育の低年齢化ばかりが目立っていたが、本来は「下」からではなく「上」から変えていかなければならない。その意味でこの流れは正しい。

危惧すべきは、大学がどこまで本気なのかということだ。現状の英検(の面接)などをそっくりそのまま利用するような中途半端なものならば、そこまでの改革ということにはならない。小手先の技術などで対応できてしまうのがオチであり、不平不満が殺到するのが目に見えている。

もう一つ危惧すべきは、上で述べたことと多少矛盾するのだが、大学側(文科省)がもし仮に本気になり、質も量もまともで本格的なスピーキングの試験を課すようになる場合、現状の高校英語教育、特に公立高校において指導が追いつかなくなる。つまり高校で指導できないものが入試に課されるという本末転倒な事態に陥る可能性が極めて高い。

さらには、スピーキングやライティングが加わるからと言って、これまでの読解問題の割合が縮小したり、あるいは旧態依然とした些末な文法問題
が完全に姿を消すとは思えない。つまり、これまでのものはこれまでのように身につけなければならず、それに加えてスピーキングとライティングにも時間と労力を割かねばならなくなるので、生徒への負担がこれまで以上に大きくなる。

戦後70年、(あるいは明治維新以来150年)、幾度となく英語教育の変革が叫ばれては対策が講じられてきたが、日本人の多くがいまなお同じ苦しみに苛まれている。そのことを鑑みれば、今回の入試改革においても結局は元の木阿弥になるのではないかという不安を完全に拭うことはできない。大きく一歩を踏み出したようには見えても、いまだ重心はしっかりと後ろ脚に残っている感じがするのである。

とはいえ、巷の英語教師も英語学習者も、悲観的にあれこれ文句を垂れるだけの傍観者であってはならないとも思う。また私個人としても、(改革を主導する最前線からではなく)場末の寺小屋塾からの大遠投にはなってしまうが、なんとか現状に一石を投じる改革者にならなければと意気込むところはある。

2018年3月25日 (日)

明日ありと思う心の仇桜

乞田川沿いの桜がほころび始めた。その下を歩く人それぞれが、様々な気持ちでこの桜を眺めている。桜の咲きようは見る人によって様々に変化し、決して同じ色に映りはしない。果たして卒業生たちの目には、どのように映っているのだろうか?

ある
学年の新入生に対してどんな試験にしようかあれこれ考えている。高校入試から引用しようか、駿○模試を引っ張ってこようか、英検の準2級あたりが無難だろうか…難しい。その生徒の実力をなるだけ正確に把握するのはもちろんのこと、いかにできないかのショックを与えながらも、自信を喪失させ過ぎないような(できればやる気も鼓舞するような)、適度に刺激ある試験が好ましいのだが。

この前、高2生に試作をやらせてみたらボロボロだった。「こんなの解いたら自信失ってやめていきますよ」と言われたのだが、そう感想を漏らした高2生の方が、なんなら
自信を失っていた。本当のことを言えば、英作文を3つくらい書いてもらえばその子の実力はだいたい分かる。あるいはその日の出来事を日記のように書いてもらえれば一目瞭然である。歯医者が口内の状態から内臓の疾患が分かるというのと同じなのかもしれない。例えば次のような文はどうだろうか。

 ● 「将来どんな職業につきたいですか?」を英文にせよ。

「職業」で、workやjobを使おうと思った時点でおそらくはアウトである。厳しいようだが英語の感覚がまだ分かっていない。またprofessionやoccupationもアウトで、格好つけてやたら難しい単語を使えば良いというものではない。スペリングを間違えるのが関の山であって、それならworkやjobを使う方がまだましである。また、vocationやcallingなどを使うようならば、似たようなものは何でもイコールで結ぶ受験英語(文法書)の弊害にやられている。

正解というか、おそらくは"What do you want to be(do)?"くらいしか言わないのであり、これが出てこないようなら、それはもう英語が根本的に分かっていない。
確かに上で挙げたような語彙を用いても文法的に正しい英文は作れるし、What profesion are you going to choose?などのように他に表現がないこともないのだが、まずは↑の表現が出てくるべきであり、またネイティブ(の大勢)が言わないと言ったら、それはもう言わないのである。

またもう一つ言わせてもらえば、日本語の「将来」という言葉を受けて、"What do you want to be in the future?"のように、"in the future"を付けてしまいがちなのだが、実はこれにもネイティブは首を捻る。通常はもっと具体的に"when you grow up"や"when you finish school"などを使う。

このように、「将来どんな職業に就きたいですか」と聞くだけでも、その人物の英語力が少なからず分かる。


現在のところの入試結果は、

<大学>

●●君  明治大(理工)、中央大(セ)、上智大(補)、都市大(特待)、電通大(特待)
●●君  慶應大(理工)、明治大(理工)、青山学院大(セ)、九州大(工)
●●さん 早稲田大(教育)、東京理科大(セ)、明治大(商、経)、青山学院大(経)
●●さん 早稲田大(文構)、立教大(文)、成城大(セ)
●●君  立教大(コミ福)、青山学院大(地社)、法政大(人環)、成城大(特待)
●●さん 法政大(経)、中央大(経)、成蹊大(セ)
●●さん 津田塾大(国際)、日本女子大(人社)

<高校>
●●さん 国分寺高
●●さん 調布南高

※下線部が予定進学先。
※1人は浪人生。

2018年3月 3日 (土)

受験経過 2018

時計に目をやると21時40分。先週までなら高3生の授業を行っている最中だが、もはや彼らは来ない・・・。1人で教室にいるのは何か寂しいので、夜ミスド(ミスタードーナツ)をしている。時折コーヒーをすすって窓外に目をやると、生徒らの顔が浮かんでは消えていく。

現在のところ、「大学・高校入試結果」は、

<大学>
●君  明治大(理工)、中央大(セ)、上智大(補)、都市大(特待)
●君  慶應大(理工)、青山学院大(セ)
●さん 早稲田大(教育)、東京理科大(セ)、明治大(商、経)、青山学院大(経)
●さん 早稲田大(文構)、立教大(文)、成城大(セ)
●君  立教大(コミ福)、青山学院大(地社)、法政大(人環)、成城大(特待)
●さん 津田塾大(国際)、日本女子大(人社)

<高校>
●さん 国分寺高
●さん 調布南高

※ 偶然だが、「早慶上理」「MARCH」を制覇している。
※ 何気に「特待」が2人もいるのは嬉しい。
※ (怒られるかもしれないが)決して皆上位高出身者ではない。
※ 受験生は8人(高校受験生は2人)しかいない。
国分寺高に受かった生徒は小5から来ている。
※ 調布南高に受かった生徒は英語は(自己採点できる範囲で)満点だったそうだ。

来週から新学年度のクラスが始まる。新高1のクラスなど早速体験授業がある。同時に入塾試験も受けてもらうが、悪いからと言って断ることはない。難しい問題というか、差のつく問題を用意したので、もしかしたら受ける生徒はことごとく悪いかもしれない。とにかく、健康診断というか体力測定のようなものである。高校をスタートするにあたって「現状の英語力(いかに悲惨か?)」を把握してもらうことが大切だ。

2018年2月22日 (木)

都立入試

今日の天気は、肌寒く、小雨が舞い、どんよりしている。明日は都立高校の入試だが、天気は大丈夫だろうか?まさか今更雪は降るまいと思うが、緊張が少しでも和らぐよう日差しある暖かな1日であってくれればと思う。

ところで、「良い天気です」と英語で表現するのは意外と難しい。It's fine (today).と答える生徒や英語教師が多いようだが、実は米やカナダではあまり言わない。理由は簡単で、具体的に何がfineなのか分からないからだ。また、そもそも天気に"fine"を用いるのは「なんとなく不自然だ」というネイティブもいる。そう言われても困るのだが、このように文法的説明のつかない事例はいくつもある。一方で、イギリスではというと、米よりも"fine"を使うことは許容されているの
だが、それでも「雨が降っていない天気」や「我慢できる程度の好天」を意味することが多いらしい。

それでは、一番無難な表現は何かというと、"It's a nice day."である。(ただ、文脈から明らかに天気のことだと判断できる場合はfineを使ってもOKというネイティブもいる)。結論としては、なるべく"fine"ではなく"nice"を用いるようにし、それ以外のfine、wonderful、lovelyなどでどうしても表現したいなら、"weather"や"day"を伴うようにした方がいい。このように天気1つ表現するにしても、考えさせられる
(悩む)ことは多い。

まさか明日の入試で、「いい天気ですね」を英作せよ、という問題が出ないとは思うが、仮に出たとして当塾の中3生の(英語の)実力は申し分ないので心配していない。万一不合格でも、(第一志望で浮かれたり燃え尽きたり呆けたりしてしまうくらいなら)その悔しさをバネにして高校3年間を頑張ってくれるほうがありがたい。とは言うものの、受験生たちの合格を祈って、味噌カツ弁当を頬張る私だった。


現在のところ、「大学入試」の結果は

●君  明治大(理工)、中央大(セ)、上智大(補)
●君  慶応大(理工)、青山学院大(セ)
●さん 東京理科大(セ)、明治大(商)
●さん 早稲田大(文構)、成城大(セ)
●さん 津田塾大(国際)

という状況だ。今年の当塾の受験生は8人と少ないのだが、そのわりには検討しているのではなかろうか。ちなみに東進の受験生はおよそ6万人で、近くの某予備校は100人超らしい。それを多少羨ましいとは思うものの、生徒が増えれば増えたで今と同じような結果を出すことは難しくなるだろうし、なんか複雑である。

2018年2月14日 (水)

2018年度の予定

2月は春を迎える準備の時であり、また我慢の時ではあるが、それにしても多忙極まりない。新学年度の募集、時間割等の決定(ホームページにて公開)、三者面談、確定申告、そして何よりも受験戦争の真っ最中である。先程「中央大がセンター利用で受かりました」という連絡が入った。本命ではないにしても、こういう知らせは素直に嬉しい。

この時期が来るたびに、レマルク原作の「西部戦線異状なし」という映画と重ね合わせてしまう。各塾や予備校は「受験戦線異状なし」と言わんばかりに、受験の成果ばかりをこれ見よがしに誇示するのだが、実際の受験戦線において「異状なし」なわけがない。ときに戦線は膠着し、手傷を負い撤退を余儀なくされることもある。合格者の数は高らかに公言されるのだが、その足元に倒れている犠牲者(不合格者)の数に触れられることはない。まさに映画と一緒である。

若いときはもっと楽観的観測に立っていたが、最近は少し心配症というか、石橋を叩いて叩いて叩き割って、その上をヘリコプターで渡る感じである。世間の受験生の中には「そんな装備で
戦地に赴くの?」みたいな生徒もいるわけで、酷い子になると、弾幕飛び交う戦場を半袖短パンで駆け回ろうとするのである。当塾の生徒も例外ではない。本当の意味で準備万端とは言い難い。これを持って行け、あれを持って行けと授けたい物や忠告はいっぱいあるのだが、もはや多すぎて追いつかない。その多くが杞憂であってくれるのを願うばかりである。

受験は3月まで続くことも想定しているが、新学年度は3月よりスタートしたい。年寄り臭いが、中1クラスは体力的にきついので開講しないことにした。中2クラスは開講するが、英検4級以上の力は少なくともあってほしい。また敬語が使えないとか、靴を揃えられないとか、消しゴムのカスを放置して帰るといった礼儀作法を知らない子は嫌だ。

高1はもちろん開講するが、今年から入塾試験を受けてもらう。敷居を設けるわけではないのだが、面談や体験授業だけではどうしても推し量れない部分があるので、ペーパー試験を受けてもらうことにした。もちろん、受けたからといって絶対に入塾しなければならないということも、その結果が悪いからというだけでお断りすることもない。ただ、少なからず過去の努力や忍耐の成果を反映するだろうし、その人となりを推察する材料にはなるはずだ。

高2、高3も募集はするが、現行のクラスについてこれるかどうかであろう。体験授業を通してかなり力の差を感じるならば、それは明らかに緊急事態であり、早急なショック療法が望まれる。そのまま英語を放置すれば、まずまともな英語力はつくまい。どこぞの個別指導や映像指導塾のぬるま湯のような接待授業で、偽りの満足や安心を甘受している場合ではなかろう。現状を脱出するには(少なくともMARCH以上などと高い目標を掲げるならば)、もっと高く険しい壁に直面せねばならず、故にもっと足掻いて苦しまなければならない。言語を習得するという途方もない過程に、大学受験の混沌とした性格が帯びるのだから、当前といえば当然の話である。

とにかく、事情はいろいろあろうが、手が施せるうちになるべく早く来ていただけると助かる。私自身魔法が使えるわけでもなく、市販の書籍のような「○日で完成!」みたいな必勝法も裏技もない。というかそんなものはマーケティングの一線を越えて、もはや霊感商法のように映るのは私だけだろうか。確かに方法論的に脳科学的に参考になる部分はある。しかし、それを全面的に受け入れて依存するのであれば、それはもはや宗教である。

私の立ち位置はむしろ逆で、(なるべく)正確な知識と情報で生徒の目を覚まさせることにある。「目を覚ませ」と言いながらも、寝不足の目を擦りながら今この文章を書いているし、先ほどの授業で誤って「王道に学問なし!」と言って学問を全面否定してしまったので、説得力に欠ける気がしなくもないのだが。
 


2018年2月 5日 (月)

受験シーズン到来

受験シーズン到来である。高校受験とは違って、大学受験では複数受験が可能であり、多い生徒で十数回も入試が控えている。2日に一度の受験ペースであり、3連休ならぬ3日連続受験などは当たり前になる。大学入試においては、主観の入り込む余地の大きい学校の内申のようなものはまったく加味されず、客観的な本番実力(一発)勝負となる。このように書くと良いことづくめな気がするが、事はそう単純ではない。

受験日が重ならぬ限り(また、金銭的余裕がある限り)、前述したようにいくつでも受けることができる。ゆえに実力や自信のなさに比例して、受験校が恐ろしいほど増えていくことになる。いわゆる「数撃てばあたる作戦」に出てしまうのだが、残念ながら大学側が儲かるだけであって、よっぽどの安パイ以外は全滅ということも間々あるので決して賢い受け方ではない。

また、受験を受けに行って帰ってくることは、1日がかりの行事であり、体力的にも精神的にもかなりの疲労が伴う。また受ける度に結果を憂慮してその後の切り替えが難しい。このような日々が重なると、どうしても勉強のペースが乱れたり、そもそもの勉強時間の不足が見られるようになる。最悪の場合、肝心な2月の後半にかけて学力が低下してしまうことさえある。

数受けたいというか、もはや魂を売って学部や学科の垣根を越えて片っ端から受けたいという気持ちは分からなくもない。しかしながら、優先すべきはそのような焦る気持ちを抑えて、十分な勉強時間を確保することだ。毎日のペースを乱さず、一定の勉強量を計画的にきちんとこなすことである。決して「全く勉強しない日」などがあってはならない。

2月になったが、高3の授業は継続する。試験日の前日や当日は参加が難しかろうが、ペースを乱さぬためにもできる限り参加してほしい。単語の試験もイディオムの試験も淡々とやる。「試験範囲はどこですか?」 「入試に試験範囲ある?」 「・・・愚問でした」 入試直前にして全て頭に入っていなければならないのは当然のことである。また、質問や自由英作の添削なども(喜んで)チェックするので必要に応じて持ってきてほしい。授業に参加できる日が極めて少ない生徒もいるので、もう(面倒くさいので)月謝はとらない。その分受験料にでも充ててくれればと思う。

雪は積もるし、連日のように氷点下だし、インフルは流行るし、あげくに体調を崩した受験生もいるし、こちらも気が気ではない。2月は大嫌いである。学力の維持、モチベーションの維持、体調の維持、とにかく維持というか我慢の時である。特に国立大志望者は、浪人したくないなら3月の後期試験まで決して気を抜かぬようにしてほしい。

他学年は3月から新学期を迎える。個別指導のように適当に大学生を雇うなら、各生徒の希望時間に合わせることもできるが、当塾の指導者が私一人なので、こちらの指定する時間に都合を合わせてもらう他ない。「じゃあ早くその日時を言えよ」という声が聞こえてきそうだが、今週中にはホームページ等で報告するのでどうかもうしばらく待ってほしい。

2018年1月 8日 (月)

謹賀新年

新年を迎えた。前回のブログで述べた北野天満宮がどうしても気になったので、1月3日に人混みを覚悟で車を走らせた(運転したのは妹の旦那であるが)。人、人、人、である。ただでさえ狭い参道の両脇に出店がずらっと並んでいるからなおさら狭い。食べ過ぎで便秘気味な私の腸のようである。神聖なはずの神社は、暴利をむさぼる露店と、イライラする大人と、泣きわめく子供で混沌としていた。そういう場所に私自身、「受験生が全員受かりますように」という途方もない願いを携えてきたのだから、どうこう言う資格はないのかもしれない。

北野天満宮
は、学問の神様である菅原道真を祀った神社で、多くの受験生が京都府内外から訪れる。参る時くらいキャップをとらんかいというラフな格好をした者から、律儀に高校の制服を着てきている者もいて様々だ。見た目で優劣がつくとは思わぬが、道真も元々人であり、しかも貴族なのだから、礼節を欠いた人間は嫌いかもしれない。これだけの受験生の願いを叶えるとなると道真も大変である。「集中力を身につけたい」「良い参考書に出会えますように」「風邪を引きませんように」ならわかるが、自身の努力不足を棚に上げて「合格しますように」では彼もきつかろう。

そういう私自身、境内に入り、より一層増した人混みを見るやいなや(もはや便秘ではなく腸閉塞である)、脇からぐるっと回って前まで行き、横の方から賽銭を遠投してお参りを済ませしまった。それから、縁起物(お守り)を売っているコーナーで、受験生のために由緒ある合格鉛筆を買う。正答をスラスラ書いてくれるとまでは思わないが、間違った選択肢にマークしそうなときに、その手をぐっと止めてくれるかもしれない。ともかく、受験を目前にやれることはやっておくにこしたことはない。

受験生以外の生徒も頑張っているだろうか。特に高2、高1生。神は「自ら助くる者を助く」である。私も失礼ながら同じ気持ちである。まずは本人自らやろうという意志がない者には、教えたくはない。どれだけ手を合わされようが賽銭を奮発されようがである。その代わり、必死に努力する者には助けの手を惜しまない。神様に張り合うわけではないが、もう少し役に立ってみせる自信はある。

話は変わるが、年賀状をくれた方、どうもありがとう。今年の意気込みを書いた子は、その意気込み通りの活躍と成長を期待する。今年で当塾も6年目に突入するが、私自身もようやく脂がのってきた。多少受験英語に毒された部分もあるが、どうにか実英語(英会話とも言う)とのバランスを保っている。一方を伸ばそうとするともう一方が疎かになる英語教育の現状で、両者をどうやって伸ばすのか、明治維新以降、いまだ答えが出ずにいる。どこまで可能か分からぬが、奥さんの力を借りながらメスを入れていきたい。

また新年になって、早速新年度の入塾の問い合わせをいただいた。入試前で忙しいので、来年度の授業予定についての詳細はまだお答えできない。新中1の保護者からもご連絡いただいたが、開講するかどうかはもうしばらく検討させていただきたい。入塾前にもやれることはある。まずは英検5級の単語を書いて書いて書きまくって覚えることだ。中学英語に才能は関係ない。ただひたすら「努力」と「要領」と「慣れ」である。

他の学年の問い合わせもいただいた。こちらは事情が違って、新学年がスタートする3月まで待つのも構わないのだが、英語が苦手なので何とかしたいというなら、時機を見ずに中途半端でも早ければ早い方がよい。病気の進行のように悪化はしないが、刻一刻と手遅れな状態に向かっていることには変わりない。とにかく、手が施せるうちに来ていただけるとありがたい。

 

2017年12月31日 (日)

京都に帰省してます

1年ぶりに京都に帰郷する。新横浜駅から新幹線で約2時間。窓側の席で車窓の景色を楽しむことができたのは良かったが、残念ながら富士山はまたしても反対側であった。シュウマイ弁当を平らげるといつの間にやら寝てしまい、目が覚めると滋賀の米原駅を通過していた。読もうと思って張り切って持ってきた文庫本たちは、単なる重たい荷物となり果ててしまった。

京都に着くと、反対端にある32番ホームから山陰線に乗り替える。新幹線とのギャップもあるのだが、それにしても恐ろしいほどにスピードが出ない。亀岡行きに相応しく亀のような鈍行さかげんである。そのように馬鹿にしている私自身、でかいリュックを背負っていて亀仙人のようであった。また、揺れと軋み(金切り音)が凄まじく、老いたロバが鞭を打たれて嘶いているようである。京王線や小田急のスタイリッシュな感じとは大違いではあるが、ドアの開閉ボタンの空気音も、車窓から見える押し寿司のような家並みも、全てが懐かしかった。

電車は二条駅を発ち、丸太町通りに沿って走り、やがて西大路通りをまたいだ。ふと、少し先に北野天満宮があったなと思うと、車窓の風景に重なって受験生達の顔が浮かぶ。何か祈らねばと慌てて目を閉じて拝んでみた。その際「皆が志望校に受かりますように」ではなく、「皆がへこたれずに勉強してますように」と、ついつい現実的な願いをしてしまう。その方が多忙な菅原道真も聞き入れてくれそうな気がしたのである。

現在、炬燵に深々と埋もれて紅白歌合戦を見ている。芋けんぴを食べすぎてお腹がいっぱいだ。少し痛みすら感じるほどである。これからさらに年越し蕎麦を食べなければならない。わが家の年越し蕎麦は海老天ではなく、京都ならではのにしんが一匹載っている。明日には御節に雑煮が待っている。お腹は常に満腹状態な気がするが、良き一年が迎えられるよう食べねばなるまい。今できることは食べるのを止めることではなく、次の戦いに備えてキャベジンを飲むことであろう。毎年思うが、げんを担ぐのもけっこう大変である。


2017年12月11日 (月)

クリスマス前の悪夢 2

前回の続きになるが、老医師の問診に対して、migraine(重い頭痛)、nosea(吐き気)、tonsil(扁桃腺)といった語を使って答えていく。特に「炎症している」は、名詞のinfammationから類推してずっとinflammatedだと思っていたら、直前にinflamedだと判明して危なかった。ちなみに、語幹の-flame-は「炎」のことである。なのでflamingo(フラミンゴ)は「炎のように赤い鳥」ということだろうか。しかしながら、以上のような努力の甲斐も虚しく、医師の診断は"a cold, or maybe a flu."(風邪だね、ひょっとしたらインフルかも)だった。どないやねんである。

カナダの医者がヤブだと言うのではなく(本当はそれも多少あるのだが)、カナダのインフルは日本のものとは少し違う。検査して型を特定したり、自治体をあげて予防接種を推奨したり、タミフルのように特別な治療薬が処方されるわけでもない。もっと広域的な意味で使用され、流行性感冒に限らず風邪をこじらせたものは大抵"flu"となる。しかも医者ではなく個人的判断により「自分はインフルだ」と言う者も結構いて、市販の薬で治してしまう。冬場に"How are you?"と尋ねると、「インフルです」と返さ
れて、慌てて距離を置いたこともある。

話は診察室に戻る。老医師の親しみやすさも相まって、やり取りは至極順調だったのだが、stethoscope(聴診器)のくだりを迎えたときに問題は起きた。
聴診器を取り出して私の胸にあてるやいなや、医師はおもむろに"ninety... nine..."と言ったのである。確かに彼は"ninety nine"、つまり「99」と言った。以前"catch up(追いつく)"と"kechap(ケチャップ)"とを聞き間違えて大恥を掻いた記憶がよみがえる。同じ轍を踏まぬよう他の可能性を考慮してみるも、やはり"ninty nine"である。しかしながら、その語が飛び出た文脈がどうしても解せない。

私はどのように反応すればよいのか。老医師が99歳であることを突如アピールしてきて「本当ですか?見えませんね!」と驚いてみせるのが正解なのか。
論理的なことを言われた気がまったくしないのだが、こちらの思考が論理的に働かないだけなのかもしれない。いっそのこと、"hundred(100)!"と言ってみようかとも思った。

間を繋ごうと"ah..."と言い続けるのも、
もはや限界である。すると、後方の処置室にいた看護師が"Inhale!"(深く息を吸うのよ)と叫んだ。なるほど"ninety~"で息を吸って、"nine~"で吐けということらしい。後日、いろいろ調べてみると、比較的古い表現であり、医師が肺炎の疑いがある場合などに患者にさせるとあった。他の資料にも、今ではあまり使われることはなく、その代わりに「イー」と言わせるらしい。肺炎の疑いがある場合は、それが「エー」に聞こえるとのことだ。どうやら貴重な経験だったらしく、間違っても"hundred"などと言わなくてよかった。

その後のやり取りは放心状態で覚えていない。気がつけば"Take care"(お大事にね)と言われていて、注射は?点滴は?喉にぐりんと塗るやつは?と思ったが、そんな処置が期待できないのは殺風景な部屋を見れば一目瞭然であった。ただ不思議と嫌な気持ちはなかった。急かすことなく私の拙い英語をしっかりと聞いてくれた。それだけで嬉しかった。確か、私がカナダに来た経緯や日本の話なども尋ねてくれたと思う。そんな終始笑顔の好々爺は、白衣ではあったが、私にとってはサンタクロースのようだった。

2017年11月26日 (日)

クリスマス前の悪夢

カナダに来て2年目の年の暮れ、確かクリスマス間近の夕方だった。いまだカナダの冬に馴染むことができず、(体調を崩し)便器に顔を突っこんでゲーゲー吐いていた。

カナダの冬は寒すぎて、全てのウイルスは生きてはいられない。だから風邪を引かない、と吹聴していた友人がいたが、もしそうだとして、それはおそらく24時間屋外で過ごせばの話であろう。セントラルヒーティング・システムの普及により、どこもかしこも屋内はほどよい温度であり、また滞在地であるウイニペグは内陸にあるので、空気は酷くカラカラである。そしてそのくせ誰も日本のようにマスクをしないので、そこら中ウイルスだらけである。

クリニックの待ち時間の長さを考えると家で安静にしている方がましかとも思ったが、病床時特有の孤独と不安に襲われたこともあり、覚悟を決めてクリニックに行くことにした。服を着込んで外に出ると吹雪である。横殴りにの雪に翻弄され、積雪に足を掬われながら、約10ブロック先のクリニックに向かった。そこに辿り着くまでに野垂れ死んでしまうのではなかろうかと思った。

汗だくになってようやくたどり着き、煌々とした光の漏れる入口のドアを開ける。受付けはクリスマスの飾り付けがされてさながら天国のようだったが、ちらっと奥の待合室に目を移すと悲愴な面持ちの患者で溢れかえっていて地獄だった。受付けのナースに「3時間待ちです」と告げられて、さらなる精神的ストレスを被る。その予測がよい意味で裏切られますようにと、その場に似つかわしくない巨大なツリーを見ては願った。

待っている間、雑誌や本を開く気にはなれず、いかに症状を的確に説明しようか働かない頭であれこれ考えていた。
願いが届いてか、予想より1時間ほど早く私の番になった。カナダの診察室は日本のそれよりも殺風景で、白衣を着た医師がいなければモーテル(安宿)の一室のような感じだった。老医師がリクライニング・チェアに深々と座っていて、私の緊張を解くかのごとく笑顔で迎えてくれた。

私の方は、平時ならともかく、体力的にも精神的にも極限状態にあって、普段の緊張を感じる余
はまったくなかった。生き延びるという本能が、あらゆる負の感情を抑え込んでいたのかもしれない。普段よりも驚くほど冷静に、臆せずにいられたのである。酒に酔った時は英語が流暢に話せるということはよく言われることだが、それに加えて体調不良の時もまた、英語が達者になるということをこのとき悟った。

2017年11月15日 (水)

浪人生の覚悟

授業の終わり間際、受験生の一人が「次の単語(試験)のことなんですが・・・」と切り出してきた。おそらくは、「他の教科が忙しすぎて、単語試験まで手が回りません。次回は勘弁してもらえませんか?」とでも言ってくるのだろうと思っていたら、その逆で「次回は、No1~No.10までお願いします」とむしろ範囲を増やしてほしいと志願してきた。

普段の課題であれば、No.1とNo.2の150語
であるが、彼の申し出はその5倍の750語である。単語プリントは効率よく覚えられるように精選し、1年で6周できるようにしたのだが、それでもやはり全てを完璧に定着させることはできない。確かに試験を多く重ねてきたことで、忘却曲線の勾配はかなり緩やかになったが、入試まで残された距離を考えれば、そろそろペースアップして一気に叩き込まなければならない。その彼なりの覚悟というか、ここぞの勝負勘のようなものを目の当たりにした気がして鳥肌が立った。

彼は受験生であるのだが、現役生ではない。いわゆる浪人生である。今年新学期がスタートして間もなく、電話がなった。数年前に教えていたのだが、モチベーションの低下と共に塾を辞めていったK君である。
昨年の受験は失敗したものの、もう一度しっかり勉強して再チャレンジをしたい、なので手を貸してくれないか、ということだった。

意気込みは伝わった。だが、やはり懸念は拭えない。前回のようにモチベーションの糸が途中で切れてしまはないだろうか。また、学力的に現役クラスに入って果たしてついていけるのだろうか。しばらく時間をもらって頭を悩ませてみたが、これといった妙案は浮かばなかった。結局、少々きついが、例外的に個人指導することにした。その代わり、少しでも手を抜いたらその時点で断わろうと思っていた。

しばらくして、K君は他の予備校にも通い始め、そこの自習室に強制的にこもる毎日となった。そこは浪人生に特化した塾らしいのだが、朝10時から夜22時まで理由がない限りは自習室で過ごさなければならないという規則がある。まるで、どこぞの軍隊の時代錯誤な精神的拷問のようで、私ならチビってトラウマになるかもしれない。しかしながら、生活習慣や学習環境の根本的な是正、質や方法論よりもまずは絶対的な勉強量の必要性など共感する部分はある。

先日、授業中に彼の1日の過ごし方を尋ねてみたが、単調過ぎてまったく面白くなかった。朝10時から予備校の自習室に入れるらしいのだが、彼は9時に近くのマックで1時間ほど勉強し、それから予備校に入るようにしている。もちろん昼食休憩もあるが、夜22時まで13時間勉強しているそうだ。これが土日祝日関係なく毎日繰り返されるのだから、逆に伸びない方が不思議である。

3月の復帰当初は全て一からであったが、今や現役生の何人かは追い抜いている。前回の授業でも進捗状況を尋ねると、「立教の過去問を通してやってみたら3問しか間違えなかった。MARCHの上位を除いては受かると思います」と言っていた。普段、自ら驕る者にはお灸をすえ、生意気な弁には厳しく釘をさす私だが、その時は
ただ「そうか」とだけ返事をした。

2017年11月 1日 (水)

ハロウィン

週末の多摩センターはハロウィンということもあり、(普段はお年寄りだらけであるが)仮装を施した子供で溢れかえっていた。この数日間における街の平均年齢はぐっと下がったのではあるまいか。

個人的には鬱陶しいなと思いながらも、カナダで迎えたハロウィンの仮装大会で優勝した輝かしい栄光を思い出した。
その当時ハロウィンという文化は日本に浸透しておらず、仮装せよと言われても何を着ていいのかわからなかったし、高い衣装を買う余裕もなかったので、"Value Village"というsecondhand shop(古着屋)に赴き、ヒマワリ柄の3ドル(300円)のワンピースを購入した。当日、ホストマザーに口紅を借りて、坊主頭にウイッグをのっけて本番にのぞんだら、優勝したのである。審査員いわく、ある意味一番怖かったそうだ。

ハロウィンとは、ネイティブ・カナディアンの「お盆(先祖を偲ぶ日)」であり、浮かれ騒ぐ以前にきちんと彼らに敬意を払うことを忘れずにとホスト・マザーに窘められた。またこの時期、学校の授業でも彼らの歴史や諸問題を取り上げて多くのことを学んだ。

例えば、reservation問題というのがあって、「予約」という意味で馴染みのある語だが、カナダではネイティブ達の「居留地」という意味で使われることもあり、その際はかなりコントロバーシャルな響きを持つ。
 1700年代後半にヨーロッパから多くの移民が流れ込んできた際、ネイティブの住む集落を、法律で強制的に寒くて不便な北方に移したのである。

カナダ政府はreservationにネイティブを追いやる代わりに、毎年一定額の補償金を支払い、また税金免除や大学の学費免除、公共交通機関や医療機関の大幅な減額(地域によっては無償)など、いくつもの優遇措置(補償制度)を設けてきたのだが、今度はこれに「ずるい!」やら「怠け者め!」と腹を立てる人達(主に白人)が出てきたわけである。

さらには、ホームレス問題、drug addict(麻薬中毒)の問題などにも深く結びついている。ネイティブの若者らはreservationから都会にやって来るものの、都会生活に馴染むことができず、仕事も学業も頓挫してしまう。やがて、麻薬や酒に溺れ、ホームレスになり果てる。確かに市街地を歩く度に、酔いどれたネイティブのホームレスが地べたに座り、帽子をひっくり返して金を求める光景に遭遇した。

このようなことを理解している日本人がどれほどいるのか分からないが、陽の当たる部分を採り上げるならば、その陰の部分も少なからず採り上げねばなるまい。仮装大会で優勝し、パンプキンパイを食べまくり、お菓子を貰いに来た子供たちにミカンをあげて怪訝な顔をされ、ジャックランタンを彫るのに張り切り過ぎて腱鞘炎になりかけた私ではあるが、その夜、反省と複雑な思いから、ホームステイ先のベッドで正座をし、ネイティブ達の過去と現在を偲び、また彼らの行く末を案じて手を合わせてみたりした。

ハロウィンで浮かれ騒ぐなと言うわけではない。また、彼らに同情しろとか、何か良い案を絞り出せとか言うつもりもない。ただ無知なまま大衆文化に迎合するのではなく、この日を機に少しでもいいから彼らのことを知ってあげてほしいと願うわけである。

2017年9月29日 (金)

秋の受験生

早いもので9月も終盤。秋の入り陽はどんどん早くなっていく。受験生にしてみれば、超速のテトリスやぷよぷよをやっているような感覚ではなかろうか。次々落ちてくるブロック(ぷよ)を必死にさばいている。要領よく俊敏な動きが要求され、少しでも気を抜くとゲームオーバーである。一発逆転を狙って「長い棒(連鎖)」を待つ者もいるようだが、ご存知のようにそんなに都合よく落ちてはきてくれないし、そもそも受験においてそんなものはない。というか、そんなものにすがるようでは終わりである。

金曜19時50分
。授業開始10分前。次々生徒がやってくる。模試が返って来たらしく、結果を拝見する。なんやかんや言い訳をする者は危うい。まず事実を素直に受け入れることである。そして客観的にきちんと分析し、今後の勉強法に活かさなければならない。結果が悪いから見たくもないと机の奥にしまうのではなく、むしろ悪いからこそ穴が開くほど凝視しなければならない。

まずは英単語の試験とイディオム試験を行う(20分)。覚えてくる数は高1高2では100個だが、高3では160個になる。難関大や英検準1級を意識した改訂版なので、難易度は高2までの基礎版より格段に高い。イディオムの試験も毎回100個近く覚えてこなければならない。それでも授業前は談笑ができるほどに余裕である。高1から段階的に積み重ねてきたからであろう。入試直前には全範囲のすべての単語・イディオムが頭に入っていなければならないわけで、そう考えるとこれくらいのことは朝飯前であってもらわなければ困る。

次に動詞の語法のプリント(試験)を行う(30分)。満点者が3人というできだった。基礎力は問題ないが、レベルの高いものにもっと取り組む必要がある。上位の大学ではありきたりな文法事項は問われない。もっと重箱の隅をつつくような問題ばかりが出る。言い方を変えれば、ネイティブでさえ首を傾げるような時代錯誤の文法事項が出る。つまり悲しくも、「4技能の為の文法」という大前提を捨てて、「文法問題の為の文法」を徹底せねばならない。以前、回答欄に「意図された正解はAだと思われますが、使用頻度の点から考えるとどれも選びたくありません」と潔く書くようにと(冗談で)言うと、「先生、マークシートです」と返された。

授業も半ばを過ぎ、前回終了間際に回収し、添削した英作文の答案を返却する。できはピンとキリに分かれる。ピンの生徒はほぼOKだが、細かい語法や不自然さ(ネイティブなら絶対にそう言わない)の点で減点をされる。キリの生徒は、操るべき英語に逆に完全に操られている。また、最低限、和文と同じ意図が伝わるような英文を書かねばならない。こねくり回して伝わらないなら、単語の羅列の方がまだましである。

次に読解(準1級、約500語)を行った。口頭で(即興で)訳してもらうのだが、それぞれに半年前と比べるとかなりうまくなったと思うが、受験を考えるとまだ足りない。関係代名詞であれ、文末分詞構文であれ、基本は原文通りに訳すことである。つまり、勇気がいることではあるが、なるべく前から訳すことを意識しなければならない。また日本語にも気を配ること。"increase the safty"「安全が増える?」のような訳は勘弁してほしい。頼むから来日したての留学生みたいな和訳はしてくれるな。たまに1級の読解も混ぜて行うのだが、さすがにその際の理解度は60%程度に落ちる。このあたりが高校(3年間)の限界か。

授業が終わって時計を見ると22時20分。毎回延長しているとはいえ、今回は30分以上の延長になってしまった。迎えの保護者を待たせていると思うと申し訳ない。というか、イライラしている様子を思い浮かべると恐ろしくすらある…。一方で、生徒に対しては連帯責任というか、30分延長のほうが1年浪人する(あるいは人生を棒に振る)よりもましだろうから「きばらんかい!」と言いたい。むしろ、勇気ある誰かが「もう2、3時間やりましょうよ!」と言い出さないものかと思っている。

2017年8月23日 (水)

蛍雪の功

夏もこの時期になると、「蛍の光~♪」と終わりのBGMが流れ始める。高1高2生の夏期講習も終了した。7日間毎日単語のテスト(計700個暗記)を行い、文法、読解、精読など毎回2時間超の授業をした。送り迎えの事情がなければ、たぶん1時間くらい延長していたと思う。読解の手綱を緩めぬまま、日頃できていない文法に取り組むことができたのは良かった。

講習でやった文法事項はもちろん全て定着させてほしいが、それ以上に、いかに到達すべきレベルが高いのか、逆にいかに自分ができないのか、また正解の選択肢の文法的理由を確認して終わるのではなく、むしろ不正解の選択肢を文法的理由から消去していく過程を大事にする、そういう文法問題への取り組み方を示すことができたのではないか。

以上のように答えを導くまでのプロセスに重きを置いたので、一問一問に時間がかかってしまい、結局準備した文法プリントの半分しか終わらなかった。残りは引き続き平常の方で使用していく。そもそも「
文法問題」のために使用頻度の低い些末な文法を覚えさせることには抵抗があるのだが、できない者が思いのほか多く、彼らの不安な表情を見ると、もう少し文法を厚く取り組んだ方がよいかもしれないと思った。

3者面談も進み、進捗状況を報告すると共に、保護者の威を借りて本人に反復や復習の大切さを説く。復習して初めて記憶に定着し始めるということ、それをしないくらいなら授業を受ける意味がないことを語った。また、家での学習時間が十分に確保できているかと問えば、保護者からは帰宅すると部活で疲れて寝てしまうという意見や、スマホやテレビに時間を割かれて集中できていないという意見が多く聞かれた。

高3受験生は景気よく頑張っているだろうか。不安やら(期待やらで)週明け彼らに会うのが待ち遠しい。これから8月末にかけて、彼らと面談を行っていきたい。夏休みの進捗状況を確認するためと、もっとギアを上げるように促すためだ。
今月末には今後を占う大事な模試が控えている。そこである程度の結果を出すようにとうるさく言ってきたが、果たして自信のほどはどうだろうか。

ただ言えるのは、順調な受験生など世の中に一人もいない。自信がない、不安で仕方がないというのなら、それは勉強することによってしか解決されない。一刻でも早く試験範囲を一通りやりきり、それからはひたすら反復である。どの教科のどの単元も、3周ほど反復す
ればそれなりに定着はするはずだ。そこまでやり込んで初めて自信らしきものが芽生え始める。不安で眠れないのなら、無理に寝なくてよい。机に向かって眠くなるまで勉強すればいいのである。まだまだ若いのだから、2、3日寝なくても死にはしない。

「蛍の光~窓の雪~♪」と聞くとなんか終わった感が漂うが、この歌の元は「蛍雪の功」である。蛍や雪の光を頼りにしてまで勉学に勤しんだという中国の故事に由来する。そういう意味では終わりの歌(諦めの歌)と言うよりは、受験生を鼓舞する歌である。パチンコ屋などが閉店時に流すせいで、間違った印象を与えてしまっているようだが、由緒正しき応援歌である。なので保護者の方は、「いつまでテレビみてんねん!」 「スマホいじりすぎやろ!」 「はよ2階に上がって
勉強せんかい!」などのように思ったら、ぜひこの歌を耳元で囁いてあげてほしい。


2017年8月19日 (土)

沈黙は金?

英会話の授業を観察して、一つ気になったことがある。質問が聞き取れなかった場合など、誰一人として「もう一度言ってください」や「ゆっくりお願いします」、なんなら「わかりません」でもいいのだが、それらしき言葉がまったく出なかったことである。十数秒、あるいは数十秒に及ぶ沈黙が続く。「趣味はガーデニングです」とか「日本の政治に懸念を抱いています」などとは別にスラスラ言えなくてもいいのだが、聞き返しの表現は間髪入れずに出てくるようにしてほしい。

日本語での日常会話を考えてみたらよい。終始聞き返すことなく完璧な会話がなされているだろうか?家族であれ友人であれ「え?」「は?」「何?」の連続であろう。聞き返すことのない会話の方がむしろ不自然なくらいである。母語でない英語においては、なおさら不可能なのは言うまでもない。

このような意志表示がきちっとできることが会話の第一歩であり、相手にしてみても沈黙や支離滅裂な返事をされるよりはよっぽど印象は良い
のである。聞き返すことも立派なコミュニケーションの一部なので、少しでも確信が持てない時には「まあいいか」とならずきちんと聞き返すことだ。

私自身、カナダに渡って当初、ホームステイ先で「イエス・マン」となり果ててしまった(沈黙はしなかったが)。カナダで迎
えた最初の日曜日、昼食にマクドナルドに行こうと道を尋ねたところ、肝心の「マクドナルド」の発音が通じない。さらにはいざマクドナルドで注文する際に、店員が何を言っているのか全く分からない。

私は「ビッグマックセットプリーズ」とシンプルに注文しただけなのだが、店員はやたらといろんなことを言ってくるではないか。イントネーションから疑問文を投げかけられているのは分かる。「こちらで食べますか?それともお持ち帰りですか?」「…Yes」「ケチャップは何個必要ですか?」「…Yes」 もう悲惨である。

冷や汗たらたらのプライドはズタズタである。頭は完全にパニックで、「ケチャップ」の発音でさえ”catch up"(追いつく)に聞こえてしまい、誰に追いつけばいいんだ?とキョロキョロする始末である。日曜日の陽気な昼下がり、多くの家族連れで賑わう店内にあって、自分一人だけが絶望の淵で頭を抱えていた。
どう勘違いして(勘違いされて)そうなったかは分からぬが、トレイではなく持ち帰り用の袋に入れられたビッグマックを前に佇んでいると涙がこぼれそうになった

ホームステイ先に帰宅後、電子辞書で片っ端から「聞き返し」の表現を調べた。そして、
学校でもマクドナルドでもステイ先でも、ニュアンスは掴めていても少しでも聞き取れていないと思ったらすぐさま聞き返した。むしろ何を問われているのか分かっていても、いろんなバリエーションを試したいがゆえに敢えて聞き返した。吉本新喜劇の「竜じい」のギャグのように聞き返して聞き返して聞き返しまくった。

私みたいに意地になる必要はないが、条件反射的に出てくるものを2つ3つ用意しておくことだ。聞き返し過ぎると相手の気分を損ねるのではないかなどと思い上がる必要もない。余計なお世話である。また、聞き取れなかった時に、一々ショックを受けるという無駄な段階も早く捨てることだ。ショックを受けると、どうしも反応がワンテンポ遅れてしまう。少しでも分からないと思ったら、開き直ってすぐさま聞き返すことだ。沈黙は金ではなく禁である。

2017年8月 6日 (日)

英会話の授業 1回目を終えて

夏休みに入り、高3の受験生以外で3者面談をしている。もちろん高3でやっても構わないのだが、気分よくやっているところに水を差したくはないし、親と並んで面談してもストレスにしかなるまい。一方でその他の生徒は保護者の力を借りながら、あるいは保護者の前で語ることによって、むしろ多分にストレスを与えたい。私自身、8月はまったく休みはないのだが、指導者として多忙は望むところであり、受験生に率先して毎日10時間は自主勉強(仕事)をするつもりである。

中学生の会話の授業が始まった。1回目ということもあり、(私を含め)皆緊張の面持ちだった。私は後方の席
で様子を窺っていた。講師(奥さん)の話す速度は平常時の60%に抑えられてたが、それでも聞き取れていなかった。また、「ええと・・・」や「何て言うんやったけ・・・」など、所々で日本語が出るのもダメである。スイッチを完全に英語に切り替えることだ。

下を俯いたままの生徒がいたが、きちんと話者の顔や口元を見なければならない。聞き取れないというのなら、なおさら相手の表情や口の動き、ジェスチャーなどをヒントにせねばならないからだ。英会話の場合、分からない時ほど俯くのではなく、しっかり顔を上げることがポイントである。

できないことはできないと受け止めて、これから身につけていくしかない。講師も私も話せないのは百も承知であるから、安心して堂々と間違えたらよい。文法や読解ほどに高いレベルを求めてはいない。むしろ会話は幼稚園児からのスタートだと思ってくれたらいい。なので、プライドは低めに、テンションは高めに設定することをお勧めする。英語のチャンネルを捻って別人格を演じる感じである。

ただ何も考えずに喋るというのは違う。ゆっくりでいいから、しっかりと頭をフル回転させて文を組み立てることだ。要領を得れば早くそして楽になる。というと、全てを頭の中で組み立ててから話そうとする人がいるがそれは無理である。いくらなんでも間が持たないし、ミスをおかす可能性が高い。2段階か3段階に分けて部分的にクリアする(流れ作業)ほうが無難だ。

例えば、自分のことを話す場合などは、英語では常に"I"から始まるのだから、条件反射的に"I・・・"とまず言ってしまえばよい。それから動詞を時制などに気をつけて決定する。主語と動詞をまず伝えてしまえば、あとは楽である。安心してそれ以降の文に集中すればよい。目的語の決定もさほど難しくないだろうし、副詞を付け足す余裕も生まれる。

このように、日本人だからこそ指導できることもある。日本人ならではの思考の流れ、日本語と英語の根源的な違いから些末な違いまで、これまで嫌というほど気づかされ、また悩まされてきた。私がたどった道を同じように辿ることができれば、私のレベルにまでは話せるようになるのになと思ったりもするのだが、それは楽観的すぎるだろうか

2017年7月23日 (日)

夏期講習の予定

夏期講習の予定は以下のとおり。

● 高2・・・・・8/13(日)~8/19(土) 7回 19:30~21:30 費用:15,000円
● 高1・・・・・8/13(日)~8/19(土) 7回 17:30~19:30 費用:15,000円
● 中学・・・・7/31(月) 8/4(金) 8/7(月) 8/11(金) 8/14(月)
        8/21(月) 8/25(金) 8/28(月)  8回  14:00~15:45 費用:15,000円

学期末ということもあり、高1の生徒が立て続けに模試の結果を持ってきた。そこまで悪い生徒はいなかったので良かったが、私が肌で感じている本人の実力と模試の偏差値とにはギャップがあるし、まだまだ中学の貯金でやりくりしている感も否めない。もちろんもっと悲惨な生徒もいて、中学での貯金など毛頭なく、むしろ借金をしこたま抱えて高校に上がってくる者もいる。そういう生徒こそきちんと模試の結果を持ってきて助言を仰ぐべきなのだが、「記憶にございません」と文科省のように隠蔽してしまうのである。

高1はこの夏、「脱中学」と「受験の意識付け」をしてほしい。また、小手先のテクニックで要領よく解いたりすることも大事なのだが、今はがっぷり四つに組んで勝負する力をつけてほしい。夏休み中に大学巡り(オープンキャンパス)をする高1生もいるらしい。巡りあわせによってはモチベーションが上がるので、受験にピンとこない生徒や全く危機感のない生徒は参加してみるのがよいだろう。

高3では英検1級をいくつか解いてみたが、ここまで来ると「英語力+国語力」である。英語力だけでは対応できない。むしろ国語力が大きなカギを握っている気さえする。また基礎知識(常識)が欠けているのも大きな妨げになる。たとえば、「パナマ運河」がどこにあるのか知らない、irrigation「灌漑」の漢字が読めない、またその意味を知らない、天気図を読み解く問題で、どちらが東で西なのか分からないという生徒もいた。

一朝一夕では難しいことだが、国語力(と常識)はしっかり身につけておきたい。漫画でもゲームでも良いのだが、せっかく自室に本棚があるのなら、そこに文庫やハードカバーを並べていく喜びを感じてほしい。「ポケモン」やら「ムシキング」やらで、モンスターや昆虫のコンプリートを目指したように、「三島由紀夫の作品をコンプリートしました!」や「スタインベック全集の第7巻Getだぜ!」というのもあってよいかもしれない。得られるものの大きさを考えればやって損はない。

通学時の電車の中でも、就寝前の10分でも、トイレできばっているときでもいい。あるいは喫茶店に行って2時間くらい腰を据えて本
の世界に耽り、またそんな自分はカッコいいとナルシズムに耽るのもよい。とにかく、手持ちぶさたにスマホをいじくる時間があるのなら、サイズも重さも似ているので、代替品として文庫を手に取ってみてはどうだろうか。

2017年6月20日 (火)

夏期講習のお知らせ

夏休みがすぐそこまで来ている。「平常授業」の夏期休暇は8/13(日)~8/19(土)になる(だろう)
ただし「夏期講習」は例外で、むしろこの週に集中する。

※ 夏期講習の有無は以下の通りだ。


 ● 高1は普段週1しか授業していないので、この際にまとめて行いたい。

 ● 高2はまだまだ力不足なのでする。どの学年よりも必要だと思っている。

 ● 高3は必要ないと思うのでしない。(※平常授業はある)
 
 ● 中学は、センター後身の試験などを見据えて「Speaking(会話)」の講習を行う。


※ 日程、時間、講習費等は(なるべく早く)決まり次第お知らせする。
※ 日程等、個人の都合は聞けないことをご了承願いたい。
※ 参加は強制ではない。
※ 平常授業は夏期講習の有無に関係なく淡々と行う。


2017年6月10日 (土)

英語格差

先日、奥さんによる自由英作の授業を行った。もったいないので他の学年にも声をかけようと思ったが、まあ受験生が気分よく勉強してくれるならそれでいい。学校なら30~40人の授業であるが、わずか3人だった。確かに「自由英作は出題されないから採らない」というのは仕方がない。彼らの言い分もおおよそ分かるのだが、やはり腑に落ちない部分がどうしてもある。数年前、高校生向けに英会話の授業を設けたことがあった。その際も、「受験で必要ないので」と結局生徒は集まらず、社会人の英会話クラスになってしまった。

英検の3級・準2級にも自由英作が出題されるようになり、2020年からの新センター試験でもライティングとスピーキングが導入されることになった。つまり、「必要ないから」では済まない時代がやって来たのである。やっと「英語」と「英会話」とを分けて考える時代が終わるのかもしれない。ただし、100年間変わらなかったものが、今さら本当に変わるのかという疑念はなかなか拭えるものでもない。少なからず保守派の抵抗勢力がいるわけで、特に教育の現場である学校
からは悲鳴にも似た不満の声が上がる。

前回のブログで述べたように、学校の「英語格差」に世間が気づき慌てる日もそう遠くないかもしれない。そして、これまで以上に公立高校(中学)を敬遠し、私立高校(中学)に通わせようという親が増えるわけである。財政的余裕のある
私立高校の場合、観光目的ではなく、教育学部のdegree(ディグリー)やTESOLの資格保持者など、まともなネイティブ講師を吟味して必要な数だけ雇うことができる。一方、公立高校の場合、教育委員会の採用基準は目の粗いザルのようなので、資格も経験も乏しいネイティブ講師しか集まらない。しかも懐事情が厳しいので、生徒の数に対してかなり供給不足になっている。

また講師だけではなく、そもそものクラスサイズにも気を配らなければならない。30~40人単位のクラスサイズで行うのは愚かというか、あり得ない。受動的ではなく、能動的な参加を促すためには一クラスあたり10人が限界である。また、授業内容も、そこで読解や文法の説明をしたところであまり意味はない。スピーキング用の教材・内容を扱い、(教師主体ではなく)生徒主体で
どんどん喋らせることだ。日本語は厳禁で、授業に入ると同時に脳のスイッチを英語に切り替えるなど徹底する必要がある。

まずは、様々なことを英語で思考し英語で話す時間を増やすことである。英語の出力回路ができていないか、あっても糞詰まりになっているので、流れの良い伝達回路を開通させることだ。訓練当初は脳みそをフル回転するのですごく疲労する。また、慣れない発音の連続で舌が疲れる。さらには、英語を聞き漏らさないよう集中するので耳も疲れる。そして初めて気づくのである。英語は学問ではなく体育や音楽のような体得を目指す実技なのだと。

そして英語の授業だけではなく、数学も世界史も生物など全ての教科も英語、休み時間も部活も英語、家での会話も英語、電話もメールもラインも英語を使用する・・・というのは無理だろうから、なるべくそれに近い状況に追い込むことである。このようにスピーキング(英会話)とは本来、
心身ともに疲弊する辛く厳しい過程であるはずであり、月に一度程度の楽しく生ぬるい授業で到達できるものではない。

新センター試験の導入には賛否両論ある。私自身も、あれやこれや文句を垂れて揚げ足をとりたい自分もいれば、どことなく期待を寄せている自分もいる。意外とこの刷新により、生徒だけでなく教師も学校も腹をくくって重い腰を上げるかもしれない。そして、戦後以降(あるいは明治維新以降)、変わらぬまますっかり淀みきった空気の入れ替えが行われるかもしれない。それは塾も予備校も同じであり、当塾も私自身もそうである。その淀んだ空気と共に入れ替えられないようにしなければならない。

2017年6月 6日 (火)

英語の新テスト

2020年から、現行の「大学センター試験」が廃止され、新テストが実施される。特に英語は大幅な変更が予測されていて、記述方式の民間検定試験を活用するようになる。候補としては、「英検」や「TOEFL」などが挙げられている。また、2017年の11月と、18年の12月ごろにプレテストを実施するらしいので、関係する者は要チェックである。それにしても、文科省から出てくるものはスキャンダルばかりで、新テストの情報はなかなか出てこない。週刊誌のみなさんには、その辺りのスクープもぜひお願いしたい。

新たに導入される「スピーキング」や「ライティング」の評価法、採点基準、そもそも公平に評価できるのか、など議論の余地は多分にあるようだ。つまり、公平性を追求すれば、採点者の主観を排除した現行のマークシート方式に落ち着くのだが、スピーキングやライティングをきちんと試験するには、どうしても「マークシート方式=公平性」というHaven(安息地)から飛び出なければならない。作成部会はこの壁をどうクリアするのだろうか。

別に揚げ足を取りたいわけではない。採点者の主観が入り込むことで、公平性が維持できないことは仕方がないと思っている。英検の2次試験しかり、自動車免許の実技試験しかりである。むしろ、作成委員会の方々もそのことを覚悟の上で聖域に踏み込んだのだろうから、各方面からの様々なクレームや脅迫に負けずに、それなりに良いものをしっかりと作っていただきたい。

それより危惧しているのは、高校ごとの「英語格差」、つまり英語を指導する現場の公平性が維持できないのではなかろうか、ということだ。スピーキングとライティングの指導をきちんと行える学校は、公立高校ではほぼ皆無であり、私立高校のなかでも僅かである。現行のセンター試験であれば、学校で習ったことが出題されるという建て前が一応あるのだが、このままでは、学校で十分に(まったく)教わらないまま出題されるという理不尽な事態になるかもしれない。

確かに、各高校のホームページや説明会を覗けば、「グローバルな社会で活躍できる生徒を育成するため、英語を推進しています」などと調子の良いことを並べ立ててはいるが、いざ入学してみると詐欺だったのではなかろうかという学校もあるようだ。理想をうたうばかりで、それに向かう具体的な策もなければ努力もしていないのでは困る。

また、
某進学校に「英語表現」という授業があるのだが、その名前からしてスピーキングやプレゼン方法などの表現する訓練を行うのかと思いきや、イディオムや会話表現、文法、構文などをひたすら暗記することに終始するらしい。授業では、生徒も教師も一切英語を話すことはなく、ネイティブ講師の授業は月に1度あるかないかで、試験後のどうでもよいときなどにやって来ては、ゲームなどの緩い授業を行うそうだ。

「スピーキング(会話)」の授業を成功させるには、「クラスサイズの縮小(10人程度)」「まともな講師(別にネイティブでなくてもよい)」「専用のカリキュラム(文法や表現の暗記に逃げない)」「たっぷりの時間と継続(授業時間数の増加と家庭学習との連携が必要)」など、諸々の要素を揃えなければならない。詳しくはまた次回のブログで書いてみよう。

当塾でも、以上のようなことを踏まえて、中学と高校に少なくとも各1つずつ「スピーキング(会話)」のクラスを設けようと奥さんと相談している。詳細が決まり次第、ブログでお知らせしていく。

2017年5月15日 (月)

Shrug Shoulders

先日、あるうどん店の駐車場に消防車を止めて消防団員が昼食をとっていたことがニュースになり非難されていた。月並みなことは言いたくないのだが、「バカらしい」や「どうでもいい」という言葉しか出てこない。詳細は分からないにしても、むしろ「お仕事ご苦労様です」「昼食時までも万一に備えているんだな」という気さえする。この程度が不祥事ならば、カナダでは毎日謝罪会見である。

カナダはカナダで極端なのだが、たとえば警察官がパトカーを路駐してスタバでコーヒーを飲んでいたり、バスの運転手が停車中にマック(マクド)に入ったかと思えば、ハンバーガーを頬張って戻ってきたり、日本ではあり得ない光景を何度も目のあたりにした。仕事はしょせん仕事である。仕事に人生を捧げるとか、家族との時間を犠牲にしてまで働くとかいうことはないし、勤務中であれ、食いたい時には食う、飲みたい時には飲む、休みたい時には休む、というスタンスらしい。

特にバスの運転手は、コンプライアンスが緩いのか、あるいはそれを遵守する運転手のモラルが低いのか、やりたい放題だった。日本では乗客との会話は厳禁だが、カナダの運転手はお喋りで誰かれ構わずよく話しかける。また、バス停以外のところで乗客を降ろしたり、逆にバス停の客を無視したり、ルートを間違えたり、近道したり、外輪差と内輪差から右折時に縁石にのり上げたりと日本ではありえないことだらけであった。

しかしながら、裏を返せば短所は長所である。たとえば年寄り臭いかもしれないが、バスを乗り降りする際にきちんと挨拶が交わされる。そこに学校の「あいさつ運動」のような強迫観念や不自然さはない。朝の乗車時にはお互いに"Morning"と挨拶を交わす。降車時にも"Thanks"と声をかけると、"Have a good one(良い一日を)"と返してくれる。当初はものすごく恥ずかしかったが、バスから降り立つと「よし今日も頑張ろう」と引き締まった気持ちになった。挨拶は気持ちが良いということを、30歳を目前にして知ったわけである。

毎朝、同じバス停から同じ顔触れが乗ってくる。寝坊してバス停に着くのが遅れても、運転手がその姿を視認すると待ってくれる。いつも乗ってくる小学生がバス停にいないので、運転手はバスから降りてその子の家まで行き、手を繋いで戻ってきたこともあった。一番前の席に座るとガムをくれたり、天気やら、どこから来たのやら、勉強の具合はどうだと話しかけてくれたりした。これは私にとっては大きくプラスだった。

とにかく良いことも悪いことも、様々な思い出が「バス」にはある。ウイニペグ、カルガリー、エドモントンのバス網はいまだに覚えている。何番のバスがどこを走り、その路線沿いにはどんな店があるのかなどもいまだはっきりしている。その当時の記憶力が優れていたからではなく、バスを乗りこなすには「記憶力」をはじめ「方向感覚」、「情報収集能力」、そして何より「勇気」が必要だったからだ。

カナダのバス停は日本のようにいちいち名前はなく、故に次の停車駅を告げる車内アナウンスもない。つまり外を集中して眺めていないと現在地や降りる駅が分からなくなる。住宅街などは特に特徴的な建物がないので、バスの中に居ながらにして迷子になる。さらにこれが夜になると、視界から入ってくる情報は限りなくゼロになるので完全にパニックと化す。幼稚園児のように(違う意味で)ドキドキしながら窓にかぶりついていなければならない。

カナダに渡って間もなく、学校からの帰宅途中、それこそ降りるバス停を乗り過ごしてしまったことがある。理由は上述の通りである。気付いた段階で降りれば良さそうだが、すっかり陽は落ちていて車外は真っ暗である。バスのヘッドライトが闇を切り裂きながら、「嵐が丘」の冒頭にあるような殺風景な荒野を走っていた。分かる人には分かると思うが、こうなると怖くて降りるに降りられないのである。

そうこうしているうちに、やがてバスは地の果てのようなターミナルにたどり着いた。私は積荷のごとく運ばれるがままである。重く疲れた身体を引きずるようにして後方のドアから降りようとした。そのとき、低く唸るエンジン音に混じって運転席から逞しい声が届いた。 "Hey!.Are you OK?"

 運:「家はどこだ?」
 私:「ジャパン!」
 運:「ノー、カナダのどこに住んでいるんだ?」
 私:「ウイニペグ!」
 運:「分かっている。ここもウイニペグだ。ウイニペグのどこかって聞いているんだ!」
 私:「アイ・ドント・リメンバー!」
 運:「・・・(絶句)」
 私:「バット・アイ・ハブ・メモ!」
 運:「よし、それを見せて見ろ」
 (慌ててリュックからメモを取り出す)
  私:「ショー・ミー、ショー・ミー!(「見て、見て」のつもりだが、実際は「見せて、見せて」)」
  運:「違う、お前が俺に見せるんだ!」
 
という情けないやり取りの最中、運転手が幾度となく"shrug"のジェスチャー(手のひらを上に向けて肩をすくめる所作)をした。これがカナダで見た初めてのリアル"shrug"だった。その後、彼は哀れな異国のおっさんに同情してか、親切にもホームステイ先の近くまで送ってくれたのだった。
 
 

2017年5月 3日 (水)

たかが単語

引き続き単語について。極論を言えば、覚えてくれれば(=記憶に定着して使いたい時に使えるという状態であれば)どんな方法でも構わない。これも言い古したことだが、暗記とは才能やセンスのない人間でも努力で太刀打ちできるものである。私に言わせればそれは数少ない絶好のチャンスなのだが、その機会さえもサボろうとする人間がいる。

暗記とは己自身との精神的な戦いにほかならないのだが、最近では暗記することを避けて通ってきたのか覚え方が分からないと漏らす生徒が多い。私の学生時代、英語に関しては暗記を極めることが英語ができることであり、暗記を制すことが受験を制すことであった。英作文に至るまで例文暗記で対処しようとしていたのだから首を傾げたくもなるのだが、とにかく暗記することが正攻法というか受験英語の王道であった。そのおかげで暗記することには慣れたし、その後の人生でもそこまで暗記が苦ではなくなった。その当時の日本人の英語は今と変わらずからっきしダメだったが、その代わりに世界で最も暗記が得意な民族であった気がする。

前回のブログでも書いたように、1時間以上かけてそれぞれの単語の説明をする。語源や、語呂合わせや、些末な話や豆知識などは、無機質なアルファベットの羅列である単語に、なんとかして「個性」を見出してもらおうという意図がある。単語に個性を与えてやれば、定着しやすいのである。それを「この先生雑談が好きなんだな」とボケッーと聞いているようでは困る。

それでは具体的な覚え方についてだが、紙を眺めるだけは厳禁である。必ず紙に書くこと。ちらしの裏でも構わないが、大学ノートを使って冊数を積み上げていく方が達成感があってよい。また発音を確認しながら読む練習を数回重ねることも忘れないでほしい。発音のできない英語はもはや英語ではない。20年前ならいざ知らず、電子辞書やパソコン、スマホのアプリでも実際の音声で容易に確認することができる。特に高価な電子辞書を購入してもらった者はここで使わずしていつ使うのか。面倒くさがらず、一つ一つ調べること。

試験まで1週間の猶予があるとして、当日までどのように勉強を進めればよいかであるが、ずっと放置した挙句、授業の1時間前になってようやく手をつけるというのは最悪である。その場しのぎも甚だしい。それでも「切羽詰まらなければできない」、つまりは「切羽詰まったらできる」と言うのならまだわからなくもないのだが、毎度「
切羽詰まり、かつできない」ということを繰り返すのはギャンブル中毒のようで重症である。

当塾の(高校の)単語試験は13回で終わる。高2ならば一か月半、高1ならば3か月で一周するようになっている。1年間で高2なら8周し、高1なら4周する計算だ。高校の間延びした単語試験よりもはるかに回転率はよいのだが、これでもまだまだ足りない。塾のペースとはまた別に自分のペースを設けてやっていくことが望まれる。つまり
本人の意欲次第では、一か月もあれば当塾のプリントであれ市販の単語集であれ1周することは可能である。そもそも受験に範囲というものはないわけで、直前には全てのものが頭の中に入っていなければならない。とすれば、ちまちまやり続けている場合ではなく、徐々にペースを上げていかなければならないのは自明である。そこで、以下のやり方をぜひ参考にしてほしい。

1日目・・・100語をチェック。
2日目・・・昨日の100語の復習+新しい100語
3日目・・・過去2日間の200語を復習+新しい100語
4日目・・・過去2日間の200語を復習+新しい100語
以下同じ要領で1日に300個ずつチェックする。

進学校の生徒はこれくらいのことを平然とこなしている。学校の「やらない方がましな超スローペース」や周りの友人の「勉強するのはイケてない」や「勉強よりも大事なことがある」みたいな雰囲気に流されないようにしてほしい。この手の連中は、入学時には「勉強よりも大事なことがある」と部活や行事を優先し、受験が間近に迫って「勉強に勝るものはない」と態度を改めるのである。

このやり方で点数が取れないのなら私は何も言わない。おそらく合格点を取れない生徒はこの5分の1の量(努力)もやれてないのではなかろうか。また「中学生だから少なくてもいいよね」ということにはならない。人生において最も記憶力の良い時期に、それを使わないのは宝の持ち腐れである。変に「中学生らしさ」を装う必要はない。行けるときに行ける限り、どんどん先へと行けばよい。

とにかく、まず自分の意志でやることである。やらされているという感覚では効果は半減する。先生に怒られるからや、ノルマや義務としての勉強になってはならない。また、暗記の効率を上げる方法はあっても暗記を回避する方法はないのである。下手な考え休むに似たりで、あれこれ考えるよりは一歩一歩着実に歩を進めることである。

人間怖いと思えば平地に一歩踏み出すのだって怖い。生徒によってはこの程度の単語の暗記が絶望のように感ずるかもしれない。しかし、実際には千尋の谷を背にして絶壁をよじ上っているわけではなく、平地に転がる小石に躓いてよろめいただけである。よって、多少ぐらついても体勢を立て直してまた足を踏み出せばよいのだ。歩く意志のある者には、私は喜んで手を差し伸べる。

2017年4月25日 (火)

高1、春の風景

先日、高1の授業があった。4月、5月は単語の説明に多くの時間を割かねばならず、単語100個の説明をするのに1時間以上もかかってしまった。具体的には、アクセント・発音の注意点、語法やら文法事項、語源、語呂合わせ、意味やら使用場面の違い、どうでもよい些末な話など、思いつく限りのことを話す。

この際、生徒たちは重要だと思うことや、覚えておいた方が得だと思うことを各々に書き留める。よほどでない限り重要だからという前置きも板書もしないので、本人の嗅覚次第ということになる。私の方も興奮のあまり話が脱線しすぎないよう注意しなければならない。皮肉なことなのだが、些末でどうでもよいことほど話すのに熱が入るし面白いのである。

単語テストそのものは、皆合格点を超えたので良かったが、満点者が1人も出なかったのは不満だった。合格点をとることと満点を採り続けることは、点数に現れる以上にその志と定着率において雲泥の差がある。皆が後者であってほしいのは言うまでもない。
次の試験範囲には、"effect" "affect" "affection"が並んで登場する。それぞれ「影響」「影響を与える」「愛情」という意味だが区別できるだろうか?ちなみに、"affection"は「ア、フェクション!とくしゃみする」と教えた。

単語の説明を終えると、1人の生徒が"influence
"(影響)と"effect"(影響)の違いについて尋ねてきた。共に「影響」という意味ではある。何でも=(イコール)で結ぶことに疑問を抱かない生徒が多い中、違いを知ろうとするのはよい心がけだ。まずは自分で「英英辞典」を調べてみればさらによいのだが、そこまで期待するのは高望みというものか。

その問いに対する回答として、おそらくは次のようなことを言った。両者の違いは"influence"の語源から考えてみるのがよい。 "
influence"は、in[中に]+flu[流れる]+nce[名詞語尾]で、「中に流れるもの」→「影響」である。よって思想や生き様のような人の心の中に流れる影響のことである。つまり、「イチローの影響で野球を始めた」や「竹岡先生の影響で英語教師になった」のような文での使用はよいのだが、「海面の上昇は温暖化の影響による」のような文では使えない。この場合は一般的に"effect"(または他の表現法)を使う。

巷に溢れている多くの単語集では、上述したようなことが「effect=influence」のように書いてあるので最悪だと言い続けている。数式でもない限りイコールというのはなかなかあり得ないはずなのだが、暗記の要領を求めるあまり必要以上に多用している感がある。受験に重きをおくから英語の本質を忘れていいということにはならない。
英語とは言語の習得であり、言語の習得とは使うことを前提にすべきものである。それを忘れず真摯に取り組むことが、実は受験への一番の近道であり、英語を学ぶ際の要領(コツ)である。

前回の高1の授業に話は戻るが、語彙の説明をしたあと読解をする時間はなかったので、英作文に取り組んだ。それぞれの答えを一枚の紙にコピーして、皆でそれぞれの解答を見ていく。よもやの珍回答連発である。お互いに笑い合って和やかな雰囲気になるのはよいのだが、「これが段々と笑えない状況になってくるからね」「ライティングを見れば一番英語力がはっきりする」と釘を刺しておく。時計を見ると授業終了の時間である。

とにかく私から見れば、高1Aも高1Bも多少実力の差はあれど目くそ鼻くそである。奥さんに言わせれば私も鼻くそらしいのだが(「でも、大きな鼻くそよ」というフォローは戴いた)、とにかく1週間で授業内容をしっかりと消化し吸収してきてほしい。塾に来ている時間は週に2時間弱であり、その時間で得たことを活かすも殺すも塾外の時間でどれだけ復習したかである。来週の授業でどれだけ成長したかをぜひ楽しみにしたい。

2017年4月10日 (月)

英語の恥はかき捨て

「『シャーペンの芯』は何て言うの?」と聞くと、たとえ駿台の京大クラスの生徒であってもほとんど答えられない。およそ20年前、竹岡広信先生がそのように嘆いていらっしゃったのを思い出した。それから私自身が曲がりなりにも指導者となり、同様の質問をする機会に幾度となく巡り合わせるのだが、やはり誰1人として答えられない。英語教育の改革やら刷新やら声高に叫ばれ続けてきたわりには、20年という年月を経ても何も変わっていないようで悲惨である。

たとえば、"religion"(宗教)や"anthropology"( 人類学)のような難単語につまづく受験生はいない 。しかしながら、机の上にある文房具を手に取って「これ何て言うの?」と聞くだけで、難関大志望の受験生であれ一考してはみるもののもはや苦笑いするしかない。なので、私の方も苦笑いするしかなく、その場は気まずい空気に包まれる。

ちなみに「シャーペンや鉛筆の芯」は"lead"という。読み方は「✕リード」ではなく「〇レッド」である。leadとはそもそも『鉛』のことだと言うと、「そうか鉛筆の芯は鉛でできてますもんね!」となるのだが、そう世の中はうまくできていない。現在、鉛筆の芯は鉛ではできてないのである。黒鉛(炭素結合によるものであり鉛とは別物)と粘土を混ぜてできている。鉛が人体に有毒であるという事実を鑑みれば至極当然だろう。

ところで今年は中1のクラスを設けないことにした。とりあえずは学校の授業にしっかり遅れずについていけば大丈夫という楽観的観測によるものである。もちろん呑み込みの遅い早いはあるだろうが、そこまで大きく差が出るほどの内容ではない。仮についていけないという事態になればそれは努力かやる気が足りないのである。問い合わせもいただいていて申し訳ないのだが、中2からの参加をお待ちしている。厚かましいが、できれば英検の4級~3級を取得してくれていると指導が楽で助かる。

一方で、中3のクラスは人数が増えてきたので2つ設けることにした。中学対象(高校受験)の塾は供給過多のようで私の出る幕はなかろうと思いきや、意外と先見の明というか大学入試を見据えての問い合わせがある。もちろん本人自身が不安を感じて応募してくるということはまずないから、その親の必死な叫びが生徒のやる気と直結しかつ代弁しているとは限らない。むしろ逆で、どれだけ病状が深刻であることを繰り返し宣告しても当の本人は馬耳東風であることが多い。

中3クラスを2つ設けるのは、現通塾者と途中入塾者との間に力の差があるからである。現クラスの数人が次回の英検で2級を受験するらしい。そのうち一人は早朝の「NHKラジオ英会話」を毎日欠かさず聞く猛者(もさ)であり、リスニング・セクションでは点を落とさない。私自身、学生の時分にチャレンジしたことはあるのだが、テキストを購入した時点で満足してしまい、実際の放送を一度も聞かぬままチャレンジは終了してしまった。

とにかく、入塾希望者が体験授業を受けに来てくれるのは有難いのだが、その度に肩を落として帰っていく姿をみるのは忍びない。最初に電話口で、「うちの生徒たちはよくできるものでして」ともなかなか言えるものではない(実際には、彼らができるのではなく他ができないのだから)。
わざと難しい問題を避けて基本問題ばかりを当てるようにしたこともあるが、その接待のごとき不正があまりにも露骨すぎたり、それさえ答えられないときにもはやフォローのしようがなくなったりと、ただただ気まずい空気が流れてしまった。

ちなみに、
この「気まずい空気」を英語では"pregnant silence"という。直訳は「妊娠した沈黙」で、ズバリ気まずさを「孕んでいる」からである。カナダでこの表現を知り得たのは、多国籍の人々を前にしょうもない冗談を披露してはpregnant silenceを量産してしまった自らの苦い実体験による。こういう身を削って得られた表現は決して忘れることはない。なので当塾の生徒諸君も、「シャーペンの芯」が英語で分からないことを堂々と恥じればよい。そして私になじられたりボロクソ言われることにより、一生忘れることはないだろう。

2017年3月19日 (日)

入試結果2017

後期試験の結果・補欠待ちもあるが、とりあえず現状の進学先は以下の通りである。
 

  ● 筑波大(生命環境)
  ● 首都大(都市教養)
  ● 千葉大(教育)
  ● 電通大(情報理工) 
  ● 上智大(総合人間)
  ● 上智大(法学)
  ● 立教大(観光学)
  ● 中央大(総合政策)
  ● 成蹊大(経済)
  ● 成城大(文学)
  ● 武蔵大(人間科学)
 ● 専修大(商学)
  ● 東京女子大(現代教養)
  ● 町田高
  ● 永山高


前年と比べると見劣りする結果かもしれないが、入塾時からの成長の幅は前年の生徒以上だった。本当によく頑張ったと思う。足りなかったのは私の指導力である。また、本人(と学校)任せであった受験科目の選択や、受験大学の選定にもう少し口を挟めばよかったと思っている。受け方によってはもう一伸びできたのではなかろうか。

結果を見ればわかるように、MARCHに「あと一歩届かず」という生徒を多く出してしまった。MARCHや早慶上智などのヒエラルキーを信奉するわけではないが、彼らが志している以上は行かせてあげたかった。後輩たちの今後の参考になりそうなことは、本人の許可を得てから報告していこうと思う。

※追記:浪人生が千葉大と電通大(後期)合格。成蹊大の生徒が補欠待ちより上智合格。高校入試の結果も追加。

2017年3月 6日 (月)

No News Good News?

「便りのないのは良い便り」というのは、受験に限って当てはまらない。便りがないのは基本悪い知らせである。もちろん面倒くさいやら気まずいやらもあるだろうがたいていはそうである。逆説的に言うなら、良いニュースは喜びを分かち合おうとして真っ先に伝えられる。

今年の受験戦争も終息に向かっているが、戦況が芳しくなくても、あるいは既に白旗を掲げ戦線を離脱していても、とにかく息災ならばメールで良いので連絡を入れてほしい。医学部を目指して浪人しているM君も、一段落したら
ぜひ連絡してほしい。このまま音信不通で行方知れずというのは、縁が切れてしまった感じがしてなんか涙が出そうである。知る人ぞ知るというか(知らなくてよいことだが)、私はこう見えてけっこうセンチメンタリストなのである。

いずれ結果の分かった分はブログ等でお知らせする。
他の塾や予備校では大きく壁に貼り出したり、顔写真付きのチラシを撒いたりするところもあるようだが、どうも節操なく映ったり、デリカシーに欠ける気がして私にはできない。結果に満足している生徒は問題ないだろうが、そうではない生徒を同様に扱うのは、京都三条河原のさらし首のようでどうも気が引けてしまう。

もちろん塾や予備校がまったくの慈善事業ではなく、限られた(というか縮小しつつある)市場の奪い合いだという側面を考えれば、誇大広告というか過度なアピールは仕方ないのかもしれない。けれども、そのスポットライトの陰には少なからず悔し涙を流した生徒がいるわけで、良い成果を誇るのなら、悪い成果に対しての自覚と責任をも省みるべきであろう。

私自身、合格に対して嬉しい気持ちはあれど、そこまで
心は揺さぶられない。本人の努力が実を結んだだけで私の力によるものだとは到底思えないからである。これは謙遜ではなくて、他人の功績を自分のもののように誇るのは、まるで自らが寄生虫か何かにでも成り下がった気がして情けなく、いずれ天罰が下りそうな気さえする。一方でうまくいかなかった受験に関しては、自分でも驚くほど自責の念に駆られてしまう。一生引きずってしまうのではなかろうかと思うほどである。この時期、寝つきが悪かったり、寝つけても夢の多い浅い眠りになってしまうのもそのせいではないだろうか

数日前、都立高校の合格発表があった。数年後、彼らが大学入試を間近に控えたときに、高校受験の英語がいかに中途半端で程度の低いものであったかを理解するだろうし、そんなものによくもまあ一喜一憂していたものだと馬鹿らしくなる(かもしれない)。それくらいに大学受験とは高く険しい山であり、高校3年間という限られた月日の中で劇的な成長を遂げなければならないのである。

3月4日から新学年、新体制で授業が始まる。新高1生の入塾希望者も連絡をいただいている。1年生に関しては3月中が移行期間だと考えていて、これと定まった開講日は設けていない。一応15日から現中3生が高1Aのクラスに移る。体験授業を希望する方もいるのだが、一回の授業で1人しか受け入れられないので、場合によっては待ってもらわなければならない。また、定員のような大げさなものはないが、空席が無くなれば自然と受け入れることはできない。

当塾は能力よりも努力を重視する。よって単語試験などにはうるさい。脳に障害があるなら話は別だが、できない者(サボる者)には容赦なく退塾勧告するので気をつけていただきたい。これも言い古したことだが、英語を学ぶことに際して悦びや楽しさはもちろんある。ただしそれは歌やゲームという一過性のまやかしであってはいけない。努力を継続したその先に、できなかったことができるようになり、腑に落ちなかったものが腑に落ちたりしたときに得られるものであって、当塾の生徒にはその悦びや楽しさこそぜひ味わってほしいのである。

2017年2月11日 (土)

ねじの回転

「赤本を購入した方がいいですか?」と尋ねてくる生徒や、「赤本を買うのはもったいないです!」と言う生徒がいる。そして学校や予備校から借りたりすることをまるで得したかのように自慢するのである。そうやって買い渋った挙げ句に浪人したり、やたらと滑り止めを受験する羽目になる方がよっぽど愚かだと思うのだが。

ただし、「やる意味はありますか?」と言われると目的に応じて答えは異なる。受験する大学に限って言えば、傾向に慣れるためにやる意味はある。しかし、純粋に英語の教材として考えた場合には「ちょっと待て」となる。高校入試を含め入試英語には、たまに粗悪品が混じっている。世間が思っているほどまともなものばかりではない。

センター試験でさえ、かなり厳重にネイティブチェックが入っているにもかかわらず、数年に一度出題ミスが見つかり新聞などに取りだたされる。いわんや他大学の入試においてをや、なのであるが、チェックする人(できる人)がいないので、汚水は垂れ流されているというのが現状のようだ

話は戻るが、受験することを決めたなら、赤本は新しいものを買うほうがよい。兄や姉が使っていたものが家にあるからとか、尊敬する先輩に譲ってもらったからとかではなく、受験の覚悟と共にきちんと新しいものを買うことである。一方で、十数年前の古い赤本まで入手する強者もいるようだが、別にコレクションしているわけではないのでその必要はない。

よくあるのが、早い段階から赤本を手に入れたにもかかわらず、ほぼやらぬまま本棚のオブジェと化してしまうケースである。また最新の問題を今解くのはもったいないからと、古いものからちまちま解く貧乏性な受験生もいる。「手に入れたのなら、さっさと最新の問題から解かんかい!」と後ろから蹴とばしたくなる(のだがそんなことは絶対しません)。何を悠長に構えているのか、赤本は早くやったもん勝ちである。

すると、「過去問を5年分解きました。次はどうしたらいいですか?」と尋ねてくる生徒がいる。「何周目?」と聞くと「1周目です」と答える。「じゃあ2周目をやりなさい」となる。しばらくして「2周目を終わりました」と持って来る。すると「じゃあ3周目をやりなさい」となる。つまりは、5年間分の過去問を最低5周はしてほしいのだが、学校の宿題じゃあるまいし、1周(適当に)やってやった気になっている場合ではなかろう。本当に受かりたい大学の過去問なら、問題文の一語一句が染み込むくらいまでやり込むことだ。

文法の問題集でも単語集でも、もっと言えば趣味の読書であれ、2周するだけで内容の理解がかなり深まったり、新しい発見があったりする。「2周もやるのは時間の無駄だ」という愚かな意見もあるだろうが、私に言わせれば、むしろ1回だけやって満足するくらいならやらない方がましなのである。繰り返すことで得られるものの大きさを考えれば、1周でやめてしまう方がよっぽど効率が悪く無駄である。効果が出始めるのは2周目以降であり、さらに回数を重ねることでやっと脳に定着していく。

英文の長文読解でも、「読んだけど分からない」と言う生徒は、正確には「1回しか読んでいないから分からない」のである。特に高1などは、単語を逐一日本語に変換するのに精いっぱいで、肝心の話の流れはズタズタに分断され、内容など完全に上の空になっている。もちろん最終的には1回で早く正確に読めるようになる必要はあるが、始めからは無理である。まずは根気よく何度も何度も読むことだ。家で復習しろというのは、なにも社交辞令で言っているのではない。2周目が必要だからである。

英語は言語であり、言語とは「習得」というよりは体育や音楽のように「体得」すべきものである。なので、読解力の向上は量や回数、費やした時間に比例するものであり、日々の努力と研鑽なしには身につくものではない。ヘンリー・ジェームズの「ねじの回転」のように、スターバックスの「シナモン・ロール」のように、何度も何度もぐるぐると回ることである。

2017年1月22日 (日)

壁は己自身

今年のセンター試験も終わった。塾生の自己採点による英語の平均点は174/200点だった。そこまで進学校でもない高校の生徒達が9割(180点)を越える点数をとってきたのは誇らしく気持ちがいいのだが、全員が8割(160点)を越えたわけではなく、また全ての教科を揃えきれなかった者がいたのは残念である。

それにしても本当にあっという間である。
「センターまで100日きったね!」などと言っていたのに、いつの間にやら過去へと流れ去ってしまった。などと表現すると、映画「カサブランカ」の"A lot of water under the bridge”という台詞を思い出す。文字通りには「たくさんの水が橋の下を流れた」ということだが、つまりは「あなたに会わない間いろんなことがあった」という意味である。字幕も確かそんな感じだったと思う。

ただし、この台詞には元になっているイディオム"water under the bridge"があって、それは流れる「時間」を「橋の下を流れる水」に喩えたものであり、悲観的に「過ぎ去った過去は
決して元には戻らない」ことを意味したものである。だから映画の「いろんなことがあったね」という言葉の裏には「もう元の関係には戻れないんだよ」という諦めの情が窺えるのである。

受験生の中には時が止まったかのようにショックを受けて固まり、センター試験と共に過去へと流されてしまう者がいるようだが、それではいけない。センター試験は流れ去ったのである。後悔しても二度とは戻るまい。
受験生は未来へ(次の試験へ)と、流れに逆らって泳ぎ進まなければならない。

このように"water under the bridge"は本来「覆水盆に返らず」のような悲観的なイディオムなのだが、以前ある生徒に意味を聞いたところ
「過ぎたことは水に流してやる」と言われて、「それはありがとうございます。・・・なんでやねん」とノリ突っ込みをして(恥ずかしくなって)しまったことがある。クラスが爆笑に包まれたかどうかはさておき、心の中で妙に納得してしまった記憶がある。確かに視点を変えればそのようにポジティブな解釈もできなくはない。

センター試験後、分かってはいてもモチベーションが下がってしまったり、勉強のペースが乱れたりする。思うような点数を採れなかった者はなおさらで、後悔や自責の念に駆られたり、焦燥や不安に襲われたりして勉強が手につかない。そんなこんなで日々の勉強の質量が落ちてしまうと、さらに合格の可能性を下げてしまうことになる。そのような負のスパイラルに陥らないためにも、一度すっぱりと「水に流す」ことが重要だ。

世の多くの受験生たちが、センター試験の結果に一喜一憂し、先ほど述べたような不安定な状況に陥っていればこそ、見方を変えればそれはチャンスでもある。後方から末脚を伸ばしてきて鼻の差で勝利するのは何も競馬だけの話ではない。受験は負けたら終わりではない。走るのをやめたら終わりなのである。まだ足に余力は残っている。最後まで諦めずに走り続けることだ。自由英作が必要なものは個人的に指導していくし、持ってきてくれればいくらでも添削する。ゴールラインを切るまでは老骨(?)にムチ打って頑張るので、とことん私をこき使ってくれればいい。

2017年1月15日 (日)

神様の愚痴

センター試験の初日が終わった。日本全国あれだけ大勢の受験生が神社に参拝したにもかかわらず、ピンポイントでの大雪とこの寒さはいったいどういうことだろうか?神様とはなんてきまぐれな存在なのだろう。

確かに思い当たる節はある。初詣で「受験でミスをしませんように」と言うのならまだわかるが、自分の実力を棚に上げて「(努力は間に合いませんでしたが)受かりますように」と拝まれるのでは、神様といえどもふてくされたくもなる。「都合の良いときにだけやってきやがって!」とか「5円やそこらでは割に合わん!」  「参拝するときは帽子とらんかい!」などのようにかなり憤懣が鬱積してそうである。

去年の正月は、バックパックに破魔矢を刺して歩いている外国人を見てたまげた記憶がある。「お守り」や「お札」などは控え目な日本人に向いているが、外国人にはどこか物足りなく、見た目に攻撃的でカッコいい「破魔矢」の方がウケがよいのかもしれない。あれから1年経つが、彼がどのような年を送ったのか非常に気になる。神のご加護があったのか、あるいはその逆か。

とはいえ、受験生が本当に神のご加護を賜らんとするならば、破魔矢を鞄に差して受験会場に向かうのは意外とアリなのかもしれない。こんなことを言うと神社からも受験生からもクレームを受けそうだが、お守りや絵馬のご利益を授かれないまま撃沈する受験生が毎年大勢いることを考えると、一か八かで試してみる価値はあるかもしれないし、もし仮に運命というものがあるとして、それくらい思い切ったことをしなければ覆るどころか微動だにさえしてくれまい。

またまた受験生から「ふざけるな!」「不謹慎だ!」「それでも教師か!」という声が聞こえてきそうなので、そろそろこの辺でやめておく。

センター初日の夜。土曜21時。ミスドでコーヒーを傾けながら仕事をしているが、受験生たちの顔が浮かぶたびにソワソワして手が止まる。全てが全て思い通りにいくはずがあるまいと分かってはいるが、彼らの実力がありのまま点数に反映され、正当に評価されるだけでよいのである。万馬券や3連単を狙おうというわけでは決してない。

当塾の(ほとんどの)受験生には実力がある。「強運」や「ご利益」をくださいとは言わない。むしろ逆に、そのような要素が受験に絡んでしまう可能性を排除していただきたい。受験が純粋に実力だけの勝負になりますように。そう神様に祈ってしばらく後、やっぱり「強運」と「ご利益」の方も授けてください。できれば私にもお願いします、とかなんとか付け足してしまった。神様の愚痴が溜息に乗って今にも聞こえてきそうである。

 

2017年1月 7日 (土)

謹賀新年

あけましておめでとうございます。

「誰が興味あるんだ、こんなブログ!」と思いながらも、気息奄々と続けてきました。これからも時間を見つけては更新していきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いいたします。

さて、受験シーズン到来です。受験生はセンター試験後、(結果がどうであれ)一息つかないように。センターは駆け抜けるが基本です。次に向けてすぐさま調整を始めてください。一息つくのは進路が決まったときです。0,001%でも確率を上げるよう最後までもがいてください。

高2生は、学校や東進で行う「センター同日模試」を受けて自分の実力を確認してください。今年は他の科目(国立大志望なら7科目必要)に時間を割かねばなりませんから、英語は否が応にもペースダウンします。なので現状であってもセンター試験程度は通用してほしいところです。170/200点は欲しいでしょうか。

高1生は受験に対する危機感がかなり薄いです。対岸の火事ではありますが、対岸の火事に向かって舟を漕いでいることに早く気づかなければなりません。高1クラスでもセンターの過去問を本番さながら行ってみようかと思います。高1のこの時期なら
140/200点はとれます。120点を下回るようなら、かなり焦らなければなりません。

私自身、受験は毎年のことですが、やはりソワソワ(時にイライラ)します。受験生の皆が皆というわけではないのですが、「ほら見たことか」「全てにおいて遅い」「受験を舐めすぎ」などと突っ込みたい言葉をぐっと呑んでいます。(八つ当たり気味ですが)それらをまだ間に合う一年生や二年生にぶつけようと思います。

多くは望みません。
まずは、きちんと授業に参加し、(予習は結構ですので)授業の復習と単語テストの勉強をしっかりと行ってください。今年入塾を希望される方も、早くというか、手の施せるうちにいらしてくれると助かります。


2016年12月19日 (月)

アリとキリギリス

ほとんどの昔話には道徳的教訓があり、登場人物には悪者というか、そうなりたくない方がいる。「花咲か爺」や「舌切り雀」、「おむすびころりん」などの悪い爺(婆)さんしかり、「三匹の仔豚」や「七匹の子ヤギ」の愚かな兄弟たちしかり、そして「ウサギとカメ」や「アリとキリギリス」のような人間の道徳の犠牲となった哀れな悪役たちもまたしかりである。このように例を挙げると、洋の東西を問わず枚挙に暇がない。

その中でも、冬になると「アリとキリギリス」の話が頭をよぎる。受験の迫ったこの時期にキリギリスにはなりたくないものであるが、どう見ても「最近までバイオリン弾いていたよね」という受験生が必死に越冬(受験)の準備に追われている。正直、始めからアリという生徒はまず存在しない。というか現実の世界においては、おそらく皆キリギリスなのであり、肝心なのはいかに早く自分がキリギリスであることに気がついて、心を入れ替え冬に備えるかである。

一番たちが悪いのは自分はアリだと信じ込んでいるキリギリスであるが、これはさすがに受験生の中には少なく、主に高1高2生の中に多く分布している。当塾生においても、塾に通っていることで自分はアリだと安堵し、キリギリスの日々を謳歌している者も残念ながらいるようだ。

なろうと思えば、本気になれば、いつでもアリになれると思うのは勘違いである。高2生は受験まであと一年。特に上位の大学を受験しようと考えているならば、雪辱に燃える浪人生たち相手に「1年間」というハンディキャップを背負って戦わねばならない。新学期が始まる前に英語と数学は完成に近づけたいし、社会と理科はテキストや問題集を揃えて本格的にスタートを切る時期だ。そして夏休みには完成させて、9月の模試で結果が出るようにしてほしい。

高1生はあと2年。あと2年もあると考えるのは自由だが、今年1年が尋常ではない速度で過ぎ去ったのを痛感したはずだ。これからの2年はさらに加速度を上げるのは言うまでもない。またこの1年で自分がどれだけ成長したかを振り返ってほしい。この1年×3倍の成長や頑張りで、はたして希望の大学に受かるだろうか?「このままなわけではない」と反論を買うかもしれないが、意外と「このまま」で終わることが多いというのも人の性である。

先日も知らぬ受験生の親から(本人ではなく)電話があって、今さらながら受験のことで困っている、相談にのってくれないかというものだった。棺桶に片足を突っこんだ状態で「急患です」と駆けこまれても、もはや治療の施しようがない。アドバイスにしても、「来世があればもう少し早く病院にかかるようにしてください」としか言えないのである。

(口ではブーブー文句を言いながらも)結局そのお母さんと本人に会うことになったのだが、自分自身の進路のことなのだから自分で電話をしてくるとか、せめてマニキュアくらい落としてくるとか、正しく敬語を使って話すとか、自分の立場どころか最低限の礼儀作法も知らないのは、もはや同情の余地なしであった。

その生徒は(受験も済んでいないのに)「どこでもいいから留学したい」と言っていた。「日本の恥になるからやめてくれ。というか、せめて、時間を割いていただきありがとうございました、と言えるようになるまでは日本から出るな!」と心の中で叫んで、本人には「まあ頑張ってね」と大人な対応をした。日本では多くの権利が与えられ、また保障されている。彼女には海外に留学する「権利」はあるのだが、その権利を行使する「資格」がない、そんなことを強く思わされた。

物語のキリギリスは働き者になることをアリに約束し、食料を分けて貰ってめでたく冬を越すことができた。現実の世のキリギリスたちはどうだろうか。物語のキリギリスのように、タイミングよく慈悲の手が差し伸べられるとは決して限るまい。誰しもが望み通りにハッピーエンディングを迎えるほど、世の中はそう甘くもなければドラマチックにもできていないのである。

2016年11月17日 (木)

悲しき日本人

外国人観光客であろうか。大きなバックパックを背にした男女2人が道をふさいでいた。脇を通り過ぎようとしたときに、その2人の陰に小柄な日本人がいることに気づいた。ちょうど交差点の信号が赤になったので成り行きをチラチラと見学。外国人2人はその小柄な日本人に道を尋ねているらしかったが、納得した答えを得られなかったのだろう。あろうことか次なる獲物を物色し始めたのである。

おそらく、その場で信号待ちしていたほぼ全員がドキッとしたはずで、それぞれの心の叫びは以心伝心し声には出せぬ声となって1つの大合唱になっていた。そう、頼むから「こっちにくるな!」と。

不運にもその願い届かずその場の生贄となったのは、20代半ばの大学生と思しき青年である。その外国人観光観客も闇雲にというわけではなかったらしい。確かに私の目にも、その青年が辺りの誰よりも昨今の「実用的英語教育」の恩恵を受けているように思われたし、視線を逸らさずに堂々としているあたりも頼もしくさえあった。

しかしながら、その青年が口を開くやいなや出た言葉は"Sorry, I can't speak English."という流暢な英語だった。外国人にしてみれば納得いかないことだらけである。まず、いきなりSorryと謝られる筋合いはない。また、流ちょうな英語で「話せません」と言われても、おそらく彼らは、その意志表示ができるのなら道くらい教えられるだろうと思ったはずである。

同じ日本人なら、その青年が"Sorry"と言ってしてしまう気持ちも分からなくはない。中学高校で6年間、大卒ならそれ以上、日本人はかくも膨大な歳月を英語学習に捧げている。その結果が、「アイ、キャント、スピーク、イングリッシュ」では、あの努力の日々はまったくの徒労だったのではなかろうかと疑いたくもなる。ましてや、ネイティブに面と向かって「私は英語が喋れません」と言うのは屈辱を越えて自虐的すらあり、神父の前で信徒が懺悔をしているかのごとしである。

この情けなくも悲しい事態が、日本各地でかつ現在進行形で起きているわけである。英語教育が伝統的な読み書きの学習に偏重し会話に重きを置かないからだ、とういう説もあろう。しかし大抵の人は、会話と同様に読み書きもできないのだから、この説はいささか説得力にかける。

つまるところ、相当の時間と労力を費やして学ぶことは学ぶのだが、高校の卒業をピークとして学ぶことをピタッとやめ、あっという間に忘れてしまうところに問題がある。富士山を八合目まで登って満足し、エレベーターで一瞬にして降りていくのである。それこそまさに徒労の一言で片づけるにふさわしい。

知識のつめこみに終始し、実技や実地訓練がないまま大学生となり、あったとしてもおんぶにだっこの留学やバカンスの延長上であることも多い(それがダメだというのではなく、それだけでは足りないのである)。勘違いしないでほしいのは、実践する場は別に海外でなくても、日本の各教室でもよい。英語教師が片言だから会話の授業ができない、効果がないということもない。英語を話す場、英語を話す十分な時間、英語を話すことに臆さぬ気持ちがあれば、確実に話す回路はできあがってくる。

もちろんこのようなアメの授業だけではなく、ムチの授業が必要であり、その為には前回のブログで述べたロージーのようなムチの教師の存在が不可欠になる。アメとムチの割合は7:3でよいから、つまり正しい英語を指摘できる教師が10人中3人いればよい。というのは簡単だが、ロージーのような教師は英米人の中にも少数だろうから、日本人の教師の中で見つけるのはなおさら難しいだろう。また、その辺の教育学部のdegreeも保有していない観光半分のネイティブを引っ張ってこればよいというものでもない。

このようなことを言いながらも、実のところ日本人が英語が話せないというのは誇張であって、話せないのではなく英語を使用することに臆しているだけなのではと思うこともある。長い歳月を割いてきた英語が、そう易々と根こそぎ頭の中から失われてしまうはずはあるまい。どこかに英語を使う外国人に対する気臆れがあって、喋れないのではなくただ口をつぐんでしまっているだけなのではなかろうか。そう思うと、英語の指導法についてあれやこれやと議論が重ねられ不満が噴出するのはどこか的外れのような気がする。

"I cannot speak English"と言った青年も、ネイティブに言わせればきちんと英語で意思表示ができているわけで、何を矛盾したことを言っているんだとなる。彼らも無知ではない。日本人の公用語が英語でないことは百も承知であり、英語が流暢に話せることなど期待してはいない。たかだか、道案内である。臆するとすれば未知なる土地を冒険している彼らのほうである。それをはなからシャットダウンしてしまう気持ちの弱さこそが、
英語を話せない根本的原因なのではないだろうか。

2016年10月30日 (日)

言葉の魔女

ここ最近の冷え込みで風邪をひいてしまった。私がカルガリーにいた時に、Rosy( ロージー)というそれはもう言葉にうるさい魔女(講師)がいた。眉はつりあがり、常に不機嫌を装った感じの女性だった。雰囲気的には小公女セーラに出てくるミンチン院長のような感じだろうか。彼女には数えきれないほど英語を正されたのだが、風邪を引くたびに彼女のことを思い出すのである。

「風邪を引いた」はI caught a cold.という。いきさつは忘れたが、ロージーの前でI got a cold.と言うと、きちんとcatchを使ってI caught a cold.と言いなさいと注意された。
多少英語を話すことに慣れてくると、面倒くさがって考えながら話すことをやめてしまったり、私のように何でもgetでいけると思ってしまう。その慢心を見事につかれてしまったのであり、おかげでその後の授業は単なる風邪が重症になったかのように落ち込んでしまった。 

そのように注意されたということは、私の意図は少なからず通じたはずなので、それならいいではないかと少し腹もたった。しかしながら、スピーキングの指導にはアメとムチがいる。アメの部分ではコミュニケーションの円滑な流れを優先して細かい間違いは無視する。一方でムチの方は、時制や語法などをうるさく指摘する。それは会話の途中であったり、あるいは一定の量を喋った後にまとめて言い渡されることもある。アメとムチの割合は7:3くらいが望ましい。ロージーは明らかに後者で、両手にムチをしっかり握りしめていた。

なぜ「風邪を引く」にgetを使用しないほうがよいのか。いまだ納得する答えは持ちえていない。getは得るまでの過程に重きがあって、「(苦労の末になんとか)得る」という感じが文脈には相応しくなく、それよりはcatchの「タイミングよく掴んでしまった」といった感じの方が相応しいのかもしれない。とは言え、
言葉とはこちらの思惑通りにいくほど論理的なものではない。そもそも言葉を操る人間が感情的であり論理的でないのだから、全てを完璧に体系化して論理的に解釈しようというのは本末転倒なのだろう。

カナダに住んで10年になろうという中国人の知り合いがいたが、一切英語を学んだことがないと自負していた。確かに、雰囲気も発音もカナダ人なみだったが、聞き慣れてくると語彙が乏しい上にやたらとスラングを多用する。文の体裁をなしていなかったり、文法や時制はハチャメチャだったりで聞くに堪えなかった。彼女には悪いが、「こうはなりたくない」と強く思ったものである。

ロージーは息災だろうか? まだ教壇に立って厳しく言葉を取り締まっているのだろうか?意気揚々とやってきた私にことごとくダメ出しして自信を喪失せしめたロージー。きちんと考えて話すことを諭してくれた唯一の教師だったが、今の私の話す英語を聞いたらどう思うだろうか。あまりの酷さに卒倒するかもしれない。

当時、ランチタイムに彼女とふと会話をすることがあった。彼女の口から出た言葉は意外なものだった。「Yasuはきちんと考えて喋っているから偉い。しかも話すことにユーモアがあるところがいい」と褒められた。「シュール(dry)なんでたまに分かってもらえないことが多いんですけど」と私がこぼすと、"Your
sense of humor is dry and wry, but not so sly."(確かにシュールで捻くれてはいるが、そこまで陰険なものではないから大丈夫よ)と笑いながら答えてくれた

語彙の豊かさ、韻を踏む余裕、恐れ入った。さすが言葉の魔女である。

2016年10月19日 (水)

歳月不待人

「歳月人を待たず」である。時間は必要なときほど、残酷なまでに速度を上げる。どうも常に等しく流れているようには思われない。小学校の1年間は凪の海のように永遠に思われたが、受験生のこの時期は警察も取り締まれないほどに猛スピードである。受験生の多くはひしひしとそれを感じていることだろう。

この頃になると、受験生であろうとなかろうと、学力だけではなく性格や要領といったものまで正確に分かってくる。全てお見通しとまではいかないが、学校の教師よりは受験までの予測はつく。それはノストラダムスの大予言のように断定的なものではないのだが、かといって彼ほど大外しするものでもない。

とは言え、「手遅れになる
」と私が思っても、それを口にするのはせめて高2までで、高3生は、むしろ裏付けや根拠がなくても自信を持たせなければならないので我慢である。怖いもの知らずなところが浪人生に勝る唯一の武器であり、それを奪うわけにはいかないからだ。そもそも本当に手遅れな生徒に対して、「手遅れです」とは死刑宣告のようでなかなか言えるものではない。

ちなみに、最初の面談で、「〇〇大学に行きたいので、何とかしてください。けど、なるべく楽な方法でお願いします。ちなみに暗記は苦手です」(とまで直接的ではないが)、そのような感じのことを言われると、容赦なくその場で死刑宣告したい気に駆られる。

「まだ間に合えば何とかなる」と思うから、そのような厳しい予測を包み隠さずに言う。信じる信じないは本人次第なのだが、台風の進路予測なみには正確だろうと自負している。要はそうならないようにもっと緊張感を持って頑張ってほしいのであるが、声を荒げるだけの単なる脅しであってはいけない。どこか信憑性があり、まさに「予言」のようにある程度のショックを伴って言い渡さなければならないのである。それでこそ緊張感は長持ちする。

ノストラダムスにしたところで、予言が的中しなかったことで詐欺呼ばわりされたが、少なからず2000年までの間、世界中の人々に緊張感を与え続けたことは彼の大きな功績ではないだろうか。彼の予言を鵜呑みにしていなくても、ひょっとしたらという気持ちがどこかにあって、世の中にはうっすらとではあるが緊張感があった気がする。

一方東洋では、中国の詩人である陶淵明が、「歳月は人を待たず、なのかも・・・」とボソッと言ってみた。ノストラダムスの予言は、いかにも西洋らしくお騒がせな感じがするのだが、陶淵明の方はいかにも儒教的で控えめな感じである。両極端な二人ではあるが、彼らの言いたかったことは実は同じで、世の若者たちに「緊張感を持たんかい!」と言いたかったのではなかろうか。
 

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