父の日アゲイン
父の日がまたやってきた。なぜ忘れ去られてしまうのか……いや、なぜこれほどまでに無視されてしまうのか。やっかいなことに、どうも男性という生き物は、金魚すくいのポイのように、ちょっとしたことであっさり破れてしまうところがある。父親という顔をしていても、中身は些細なことで胸をざわつかせる思春期の男子のままなのだ。もちろんこれは私の勝手な偏見だが、母の日の主役である母親の方は、贈り物があってもなくても、案外あっけらかんとしているように見える。
毎年のように授業で「父の日、何あげるの?」と聞いてみる。「妹とケーキを買いに行きます」「お酒を買います。ママが」という好感の持てる意見もあれば、「はぁ…」とため息をつく者、「何もしません」と清々しいほど即答する者、「何かはします。でも今は言えません」と、どこかの政治家みたいに煙に巻く者もいる。
「嫌な日はあっという間にやってくる」と身も蓋もないことを言った生徒がいた。クラスでは笑いが起きたが、私は立ち上がって怒鳴りつけたい気分だった。「君らのお父さんはな、朝晩の通勤ラッシュで揉みくちゃにされ、客や取引先には理不尽なことでも頭を下げ、上司と部下の板挟みになりながら頑張ってるんや!君らのために!」と一息に言いたかったが、肺活量がもたなそうなのでやめた。単語試験の出来についてならともかく、こんな世間話で真面目にキレるのはなんか違う。「逆ギレやん」とか「頭おかしい…」と思われてしまう。
ただ父親たちの間にも、「祝ってもらえないのは俺だけじゃない」「世間の父親はみんなこんな扱いだ」「自分も子供の頃は父親に何もせんかったしな」と、妙に物分かりよく現実を受け入れてしまう風潮がある。翌日の職場でも「父の日?うちも一緒です。何もなかったですよ」と傷を見せ合う。父の日はもはや、父親たちが自虐を持ち寄って慰め合うための年中行事になりつつある。
こうして今年もまた、父の日は何事もなかったかのように、というか実際に何事もなかったのだが、過ぎ去っていく。ところが不思議なもので、忘れられた父の日ほど、次に来るのがこれまた早い。そのサイクルは、年々速度を増しているようで、そもそも時間というのは本当に一定の速度で流れているのかと疑いたくなる。短針だけを見ていると、時間は止まっているように見える。長針を見れば、たしかに進んでいることはわかる。ところが秒針を見ていると、時間というものはせっかちで、こちらの都合などお構いなしに、勝手に先へ先へと行ってしまう。
父親というものは、気づけば心のどこかで、その秒針ばかりを見つめているのかもしれない。ついこの前まで抱き上げていたはずの子供が、いつの間にか親をからかうようになり、何かを贈るのも面倒くさそうな顔をする。そのくせ、こちらは相変わらず「子供にだけは嫌われたくない」「カッコよくありたい」と思う父親のままである。どんなに腹が出ようが、髪が薄くなろうが、老眼が進もうが、である。
父の日が来るたび、一年の速さに驚く。そしてそのたびに、残された時間もまた同じ速さで流れていることを思い出す。あの生徒の言葉は案外真理なのかもしれない。「嫌な日」は、たしかにあっという間にやってくる。ただ、その言葉を発した当人を含め、ほとんどの生徒はまだ気づいていない。彼らにとって「嫌な日」の最たるものが、大学受験であるということに。見て見ぬふりを決め込むことはできないし、うまくかわせるような代物でもない。なにより大学受験には、父の日のように「また来年」があるとは限らないのである。











【高3Bクラス】