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2016年9月18日 (日)

読書の秋

慌ただしい夏が過ぎて、ゆったりとした秋がやってきた。格好をつけるわけではないが、読書の秋を存分に嗜みたい。日頃、英語の本ばかり読んでは知識欲を満たしてきたのだが、もっと様々なジャンルのものにも手を出して己の内面を磨かねばと思うようになった(外見は手遅れだとして)。それは品性や教養を身につけたいといったものではなく、歳を重ねるごとに乾いていく感受性に潤いを与えねばといった感じのものである。

開塾当初は、3段のカラーボックスでこと足りていた私の蔵書も、次第に数が増えてさすがに窮屈になった。そこでヤドカリが宿を移るように、大きくてまともな本棚を用意してやらねばいけないと、奮発して巨大な本棚を購入した。広々とした宿を与えられた蔵書たちは、始めこそ人形やぬいぐるみなどにスペースを貸し与える余裕があったものの、とどまることのない私の知識欲と購買欲のせいで、あっという間に空きスペースはなくなってしまった。エッケコ人形とマトリョーシカ人形に、立ち退きを宣告する日もそう遠くないだろう。

「すごいですね、全部読んだんですか?」と聞かれるたびに、「読んだけど内容は覚えてない」と答えている。もう二度三度読みたいものもあるのだが、未読の本が平積みになっていて、早く読んでくれと言わんばかりに口を開けて待っている。しかしながら、先ほど述べたように、こうも英語の本ばかりでは、ビタミンCの過剰摂取のようで、脳みそにとって良いわけがなかろうと思うようになった。

昔を振り返ってみれば、高校1年の夏休みに、「芥川賞」なら間違いはあるまいと、過去の受賞作品を読みあさったことがあった。一日一冊を目標に掲げて、辻仁成の「海峡の光」を皮切りに歴代の受賞作を遡っていったのだが、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んで、こっちもブルーになってしまい頓挫してしまった。


大学生のときは、文学部に所属していたこともあり、新潮文庫の海外作品を多く読んだ。「ライムギ畑で捕まえて」や「偉大なるギャッツビー」を読んでは、翻訳家の良しあしが大きく左右するのだと痛感したり、
ヘッセの「春の嵐」やシュトルムの「湖」を読んでは、思考の流れが繊細というか陰鬱で(私のような)日本人向きだなと思ったりした。

最近はどうだろうか。しつこいが、本棚を見渡せば一目瞭然で、英語にまつわる本ばかりである。確かに趣味と実益をかねた読書と言えば聞こえは良いのだが、裏を返せば、あの学生時代に胸をときめかせてページをめくった読書の快楽というものを忘れてしまったのだ。読後にやってくる恍惚感に包まれながら、自分が少しばかり大人になったような感覚はもはや遠い過去の遺物である。

実際に、私の心の成熟、人間的成長における読書の貢献度は大きかったと思う。なので、ぜひ若いうちの読書をお薦めしたい。一冊を読んだだけでどこがどう変わったということは説明できないのだが、漠然と言うならば、女性がジムやエステに通うことの数倍も変わった感じ、といったところだろうか。



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