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2017年6月10日 (土)

英語格差

先日、奥さんによる自由英作の授業を行った。もったいないので他の学年にも声をかけようと思ったが、まあ受験生が気分よく勉強してくれるならそれでいい。学校なら30~40人の授業であるが、わずか3人だった。確かに「自由英作は出題されないから採らない」というのは仕方がない。彼らの言い分もおおよそ分かるのだが、やはり腑に落ちない部分がどうしてもある。数年前、高校生向けに英会話の授業を設けたことがあった。その際も、「受験で必要ないので」と結局生徒は集まらず、社会人の英会話クラスになってしまった。

英検の3級・準2級にも自由英作が出題されるようになり、2020年からの新センター試験でもライティングとスピーキングが導入されることになった。つまり、「必要ないから」では済まない時代がやって来たのである。やっと「英語」と「英会話」とを分けて考える時代が終わるのかもしれない。ただし、100年間変わらなかったものが、今さら本当に変わるのかという疑念はなかなか拭えるものでもない。少なからず保守派の抵抗勢力がいるわけで、特に教育の現場である学校
からは悲鳴にも似た不満の声が上がる。

前回のブログで述べたように、学校の「英語格差」に世間が気づき慌てる日もそう遠くないかもしれない。そして、これまで以上に公立高校(中学)を敬遠し、私立高校(中学)に通わせようという親が増えるわけである。財政的余裕のある
私立高校の場合、観光目的ではなく、教育学部のdegree(ディグリー)やTESOLの資格保持者など、まともなネイティブ講師を吟味して必要な数だけ雇うことができる。一方、公立高校の場合、教育委員会の採用基準は目の粗いザルのようなので、資格も経験も乏しいネイティブ講師しか集まらない。しかも懐事情が厳しいので、生徒の数に対してかなり供給不足になっている。

また講師だけではなく、そもそものクラスサイズにも気を配らなければならない。30~40人単位のクラスサイズで行うのは愚かというか、あり得ない。受動的ではなく、能動的な参加を促すためには一クラスあたり10人が限界である。また、授業内容も、そこで読解や文法の説明をしたところであまり意味はない。スピーキング用の教材・内容を扱い、(教師主体ではなく)生徒主体で
どんどん喋らせることだ。日本語は厳禁で、授業に入ると同時に脳のスイッチを英語に切り替えるなど徹底する必要がある。

まずは、様々なことを英語で思考し英語で話す時間を増やすことである。英語の出力回路ができていないか、あっても糞詰まりになっているので、流れの良い伝達回路を開通させることだ。訓練当初は脳みそをフル回転するのですごく疲労する。また、慣れない発音の連続で舌が疲れる。さらには、英語を聞き漏らさないよう集中するので耳も疲れる。そして初めて気づくのである。英語は学問ではなく体育や音楽のような体得を目指す実技なのだと。

そして英語の授業だけではなく、数学も世界史も生物など全ての教科も英語、休み時間も部活も英語、家での会話も英語、電話もメールもラインも英語を使用する・・・というのは無理だろうから、なるべくそれに近い状況に追い込むことである。このようにスピーキング(英会話)とは本来、
心身ともに疲弊する辛く厳しい過程であるはずであり、月に一度程度の楽しく生ぬるい授業で到達できるものではない。

新センター試験の導入には賛否両論ある。私自身も、あれやこれや文句を垂れて揚げ足をとりたい自分もいれば、どことなく期待を寄せている自分もいる。意外とこの刷新により、生徒だけでなく教師も学校も腹をくくって重い腰を上げるかもしれない。そして、戦後以降(あるいは明治維新以降)、変わらぬまますっかり淀みきった空気の入れ替えが行われるかもしれない。それは塾も予備校も同じであり、当塾も私自身もそうである。その淀んだ空気と共に入れ替えられないようにしなければならない。

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