年末年始の私
年の瀬、顔に似合わずクリスマスが大好きなので、控えめながら教室にクリスマスの装飾を施した。進学塾の宿命として、過度にデコレーションすることは許されない。威厳やら品格やらが損なわれてしまうからである(元々そんなものないでしょ、と言われそうだが)。なので、クリスマスの世界観を存分に演出しているケーキ屋などを見ると、「ええな~」と羨む声が漏れそうになる。かと言って、私がサンタの帽子を被って授業したり、BGMにマライアキャリーの「恋人たちのクリスマス」を流したりするわけにもいくまい。受験生の怒りを買うだけであり、私がどんなに良いことを言っても、ありがたみが半減してしまう。とにかく、受験生に「クリスマスだからといって浮かれるな!」みたいなことを言っておきながら、私こそが一番浮かれていたのである。
正月はというと、例年どおり京都に帰省した。京都はどこもかしこも由緒ある神社だらけで、初詣に行くにも、選り取りみどりである。とはいえ、やはり職業柄、菅原道真を祀った「北野天満宮」に行くことにした。同じく道真公を祀った九州の太宰府天満宮も有名だが、京都人は北野天満宮の方が本家であり、ご利益は上だと言い張る。「余裕がある」から来れるのか、「余裕がない」から来たのか分からないが、受験生と思しき姿があちこちにあった。参道の両脇には、旨そうな匂いを漂わせる屋台がずらっと並んでいて、本来の目的を忘れさせようと参拝客を誘惑していた。まるで煩悩に揺らいだ参拝者を落とそうとする「神様のテスト」のようである。少し恐ろしくなって、目もくれず足早に通り過ぎようとしたが、参道の半ばでふと一緒に来ていた奥さんを見ると、悲しいかな、手に「りんご飴」が握られていた。
受験生全員の合格を祈ったあと、本殿横の販売所で受験生たちに合格鉛筆を購入した。私の恩師である竹岡広信先生は、三菱鉛筆の持ち手の部分をカッターで平らに削り、そこにペンで「なにくそ!」と書いた鉛筆を受験生に配ってくれた。少し下品で乱暴な言葉かもしれないが、その短い一言にすべてが詰まっている気がした。北野天満宮で買ったお守り以上にありがたかったし、先生が削った跡に触れ、少し滲んだ文字を見てはとても勇気づけられたのを覚えている。私もいずれそうしたいと思うが、今はまだ菅原道真の方が私よりもご利益がある。いずれ竹岡先生のように、道真をも凌駕する英語教師になったときには、「なにくそ鉛筆」を授けようと思う。
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