カナダ留学 旅立ち編
おそらく、コロナが一息つくと、日本を含めて世界各国で留学ブームになる。例えば、留学すると圧倒的に日本人より韓国人の方が多いことに気付くのだが、その原因の一つに兵役義務の存在がある。彼らは貴重な人生の2年間(たいていは大学在学中)を辛い軍隊生活に捧げなければならない。その失われた2年間を取り戻すために、より積極的に、より有意義に人生を送ろうとして、留学を決意する者が多く出てくるわけだ。おそらくコロナの影響で、少なからず似たような意識の変化が日本人にも起こるのではなかろうか。コロナが終息するやいなや、その反動で皆が一斉に留学を決意し、留学したくても「応募が殺到して1年待ち」なんてことにもなるかもしれない。さらには、その人気の高まりに乗じて、授業料や渡航費の大幅な高騰もあるかもしれない。そんな留学したくてもできない状況にイライラ、ウズウズしている人のために、私の留学体験を紹介してみよう。
私が「留学しよう」と決断したのは、確か大学院卒業を控えた秋だった。すぐにでも留学したい気持ちはあったが、現実的な問題としてお金がなかった。そこまで散財する性格でもなかったが、留学にはかなりのまとまった額がいる。また、それなりの成果を上げるまでは帰ってこないつもりだったのでなおさらである。つまり、お金があればあるほど、それに比例して長く滞在できるシステムだった(最終的には5年近く滞在できた)。そこで、これまでの塾講師のバイトに加えて、京都の卸売市場で朝5時から午後2時まで働いた。時給は良かったが、筋骨隆々のおじさん達に理不尽に怒鳴られるし、汗まみれの泥まみれだし、10キロを超える大根やキュウリ(の箱)をトラックに積み上げて配達するの繰り返しなので筋肉痛でボロボロだった。とはいえ、そのおかげで体力面だけでなく精神面でもすごく鍛えられたし、何より留学の覚悟も揺るがぬものとなった。
さて、バイトと並行して留学先を考えなければならない。イギリスの英語は堅いし、そもそも生活費や授業料が比較的高いので却下。オーストラリアやニュージーランドは割安だが英語の訛がきついので却下。アメリカはイギリスとは逆に英語が砕けすぎている気がするし、なんか犯罪とかに巻き込まれそうで怖かったので却下。一方で、カナダは値段もお手頃で、安全なイメージもあるし、話される英語も英国ほど堅くもなく米国ほど砕けてもない。よって全ての項目で平均点以上である(と思い込んで)カナダに決定した。そしてカナダの中でも「クマのプーさん発祥の地」「オーロラが薄っすら見える」「カナダ第6の都市」「-40℃オーバーを体感できる」でお馴染みのウイニペグ市を選んだ(その後カルガリー→エドモントン→再びウイニペグと移ることになる)。日本人の多いバンクーバーやトロントは絶対に避けたかったし、授業料や滞在費が他の都市よりもかなり安く抑えられるのが決め手となった。
大学院卒業から半年後の9月、ようやく出発の時を迎える。これまで海外旅行さえしたことないのに、いきなりの長期留学である。ビビらないはずがないのであり、機内に乗り込むとすぐにセンチメンタルな気分になった。(すごく早いが)いわゆるホームシックである。窓の外を眺めていると両親の顔が浮かび、頭の中で「世界ウルルン滞在記」のテーマ曲が流れ始めた。バンクーバーまでの国際線は日本人も多かったが、その先の国内線に乗り換えると、もはや日本人の姿は皆無だった。心細さが倍増したせいか、もはや「ウルルン滞在記」が大音量で流れっぱなしである。機内アナウンスの英語は早くて聞き取り辛く、どことなく機械的で冷たかった。添乗員には愛想の欠片もなく「これでも食っとけ!」みたいな感じで、やたらでかいクッキーを渡された(気がした)。クッキーを頬張りながらいじけて外に目をやると、ロッキー山脈だろうか、眼下に真っ白な氷河が広がっていて、とても感動した(慰めてもらった)のを覚えている。
ウイニペグ空港には、コーディネーターの女性が迎えに来てくれていた。ど緊張の中、(機内でシュミレーションしまくった)一連の「ナイス・トゥ・ミーチュー」の挨拶を済ませる。ホームステイ先まで送ってくれることになっていたのだが、あろうことか運転席に乗りこもうとしてしまい「運転したいの?」と笑われてしまう(カナダは左ハンドルである)。カナダでの初笑い、いや、初笑われである。車内で取り留めのない会話が行われるも、慣れない英語に加え、疲労やら緊張やらで私の脳みそは臨界点をオーバーして煙が出ていた。許容量以上に何度も聞き返したり、分からないまま勘で答えたりしていたので、かなりお粗末な会話だったと思う。ホームステイ先に着いて車から降りると、彼女は「またね!」と言うやいなや、ウエストポーチ一つの私を残して去っていった。私の荷物はまだトランクに載ったままである。(つづく)
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