フォト
無料ブログはココログ
2023年5月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      

« 関西のおばちゃん | トップページ | 女王の手 »

2022年7月24日 (日)

英語入試改革

「英検の二次試験」後によく感想に上がるのは、当たった試験官の良し悪しである。最近も「二次試験どうだった?」と聞くと「試験官の発音が悪くて聞き取りにくかったです」という苦言が返ってきた。試験官の発音の良し悪しが分かるくらいなら、余裕で受かるだろうと思ってしまうのは私だけだろうか。もちろん試験官の英語がネイティブ並みだったとしても、話す速度、声の大きさ、言葉の選択、ジェスチャーの有無などによって試験官の良し悪しは別れるし、人間である以上各試験官で評価にぶれが生じるのも避けられない。これが英検だけの話であるのならば、そこまで追及されることはないし、小言や笑い話「次頑張ろうね」の一言で済むかもしれないが、「大学共通テスト」に利用されるとなると話は別である。

実際、2年前の「大学共通テスト」から英検利用が開始されるはずだったが、公平性の担保がなされないということで1年目から散々に叩かれて結局見送られてしまった。いずれ再開するかもしれないし、あるいは独自のスピーキング試験を敷くかもしれない。ただどんなテストであれ、多かれ少なかれ試験官の主観や裁量が入り込む余地があるので、どのように基準を一元化して公平な試験を行うのかが大きな課題となるだろう。というように口で言うのは簡単なのだが、完全な公平性を担保するのはおそらく無理なので、細かい齟齬や反発は無視して行うしかない。2006年のセンター試験だったか、難聴者の存在や様々な世の反論を無視してリスニング試験が開始されたが、今では当前のような顔をして試験の一翼を担っている。あの時のように断行すればいいのである


この公平性の問題を一人でくよくよ考えていた時期があったが、凡人の私に浮かぶ唯一の方法は「一人で受験者10万人の全ての回答を採点する」ことだった。グーグル翻訳やその他の翻訳ソフトの未熟さを見ても分かるように、コンピュータやAIに採点を任せることは未だ無理である。よって生身の人間が採点するしかないのだが、私1人で塾生たった10人ほどの採点をしていても、その時々で採点基準は変わってしまう。先日も英作文で「犬」を"bog"と書く生徒や、「イギリス」を"Itary"と書く生徒がいて(せめてItalyと書いてほしい)、それ以降の採点が怒りにより激辛になってしまったのは記憶に新しい。とにかく「共通テスト」でスピーキング試験をやるのなら「多少の公平性は捨ててでも、開き直ってガンガン突き進め」と言いたいし、やらないのなら「さっさと以前のセンター試験に戻さんかい」というのが私の主張である。

このように、進むか戻るかのどちらかしかないのであり、現状のようなスピーキングとライティングの欠けた半身不随の試験はもう最悪である。大学入試は、受験生の今後の人生を大きく左右するから大事だというだけではない。全ての公教育の頂点にあり、その前段階の入試や教育課程に大きく影響する。たとえば、大学入試を意識して高校のカリキュラムは決められるし、その高校のカリキュラムを見越して高校入試問題は作られる。つまり、「大学入試」>「高校の授業」>「高校入試」>「中学の授業」>「中学入試」>「小学校の授業」とトップダウン式に深々と影響していくのである。なので、大学入試、とりわけ「共通テスト」は、全ての公教育の模範や道標となる責任があり、常に最良でなければならない。

スピーキング導入問題にこれほどまで議論が生じるのは、それが座学と言うよりも、実技のような体得すべき性質のものだからである。音楽で歌唱力を、美術で水彩画のセンスを、家庭科で料理の味を点数化して評価しようというのと同じだからである。そう考えると完全な公平化はやはり無理だ。明治維新以降、日本人は「英語が話せない病」を患い、多少変異を繰り返しながら、令和になった今でも亜型である「喉から手が出るほど欲していて、こんなにも勉強してるのに、どうして英語が話せないんだ病」に苦しんでいる。この状況を打開するには公平性の理想を捨てて思い切った改革を行う必要がある。もちろん改革である以上、ある程度の痛みや犠牲は伴うのは仕方がないのだが、政府のコロナ対策への反応などを見る限り、日本人はそれを良しとする民族ではないようである。

実は今年から「都立高入試」でもスピーキングが導入されるのをご存知だろうか。試験官との対面式ではなく、コンピュータベースの吹き込み型の試験らしいが、結局それを聞いて採点するのは人なので公平性の問題は何も解決されていない。採点にはブラック企業でおなじみの「ベ〇ッセ」が案の定絡んでいるらしく、また日本ではなくフィリピンで採点が行われるという話だが、採点体制の詳細は明らかになっていない(WEB記事による)。とにもかくにも批判するのは簡単で、批判を浴びながらも英語教育のために身を粉にして頑張っている改革者には頭が下がる思いである(嫌悪すべきは、決して矢面には立たず、その利権に群がる連中だろう)。また採点方法や公平性の問題が気になるのはもちろんだが、そもそも論として、学校の授業で教えない(ちゃんと訓練しない)ことを試験してもいいのだろうかと私なんかは思うわけで、そちらの方の公平性の担保をまずは考えてほしいものである。





« 関西のおばちゃん | トップページ | 女王の手 »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 関西のおばちゃん | トップページ | 女王の手 »