竹岡塾時代 ー文武両道論 その2(再)ー
私が竹岡塾に通い始めた時、運動部への入部はなるべく避けるようにと言われた。強制ではなかったので、剣道部やサッカー部に入った塾生もいることはいた。私は(こう見えて)中学と大学ではバレーボール部に所属していたが、高校だけは運動部を諦めて数学研究会に入った。その決断は、私自身の意志によるものと言えば聞こえはいいのだろうが、実際は両親の説得と竹岡先生からの圧力、あとは私の勘のようなものが何となく働いたからである。
竹岡塾には入塾テストがあり、その1つは「試験日までに英文を100個覚えてこい」というものだった。まずはやる気がある者とない者とをふるいにかけようというのである。当時の(あまり賢くない)私にしてみれば、純粋な学力だけで評価されるよりもありがたかったのだが、入塾希望者に対してこんな過酷なテストを課すのはどう考えても普通の塾ではない。その危険な香りに感づいてしまうと、だんだん入塾するのが恐ろしくなってきた。
受験のストレスから解放され、夢と希望を持って高校に入学しようという麗らかな春。その胸のざわつきを覚えた時は、奈落の底に突き落とされたような気分だった。高校に入って当分はゆっくりしようという生ぬるい考えを見透かされたようで、また大学入試という影も形も分からぬ得体の知れないものがいかに厄介で、それに備えるにはどれ程の苦労と覚悟が必要になるのか、漠然とではあるが無理やり見せられた気がした。
入塾して数週間のうちに、中学までの英語の学習方法、学習姿勢、学習内容をことごとく否定され修正を迫られた。今では少し穏やかになられた感じがするが、当時の竹岡先生は眼光鋭く血気盛んでバイタリティの塊だった。「3匹の仔豚」のように、ふっと息を吹きかけられただけで私のはりぼての自信はいとも簡単に吹き飛んでいく、そんな日々の連続だった。やはり私の嫌な予感は当たっていたのである。
そのショック療法は、「文武両道」の道を私に諦めさせるには十分だった。先ほども述べたように、どんなに揺さぶられても運動部にしがみつく強者の生徒もいたのだが、私にはそうできる程の器用さと余裕を持ち合わせていなかった。等価交換のように、何かを得るためには何かを犠牲にしなければならなかったのである。
もちろん苦しいことばかりではない。2年生に上がると少しづつではあるが余裕が生まれ、ワインを嗜むように竹岡先生の授業を味わうことができるようになった。手品を見せられた子供が、さらにその手品のタネを見せてもらうような、二重三重の驚きと興奮を与えてくれる授業だった。いずれまた機会があれば、その後の波乱万丈な竹岡塾時代もお話しようと思う。
私の「文武両道」を蹴った選択が、唯一正しい選択だとは思わない。私の場合、環境に合わせて生きていくためにはそうせざるをえなかっただけで、自分の意志力にのみ頼って成しえたことではない。環境が違えばバレーボール部で汗を流していた可能性もある。また、私ができなかっただけで「文武両道」で大成した人は少なからずいる。私の道とは所詮私だけの道であり、たまたまその道沿いに竹岡塾があったのである。
道は「両道」どころか無数にある。三つも四つも道を行く体力があれば、チャレンジするのもよいだろうし、一つのことだけに専念し極めたいのなら一本の道だっていい。ただ、多くの生徒は何となく道をぶらぶら歩いているだけである。自分はどこに向かおうとしているのか、そこまで辿りつくにはどれだけの時間を要して、どれだけの労力が必要なのか分かっていない。分かっていないのなら、後回しにせずにきちんと向き合って考える必要がある。案内してくれるカーナビも、手を引いてくれる教師も、抱っこして運んでくれる親もそこにはない。自分で考えに考えて決断し、それに従って足を運ぶしかないのである。
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