片道論 ー文武両道論 その1(再)ー
うちは「文武両道」ですから、と胸を張って校風を語る校長がいる。私にしてみれば「よくもまあそんな無責任ことが言えるな」と思わずにはいられない。学問に力を注ぐ生徒もいれば、スポーツに力を注ぐ生徒もいる、そして学校全体でみれば文武両道だと言うのならまだ分かる。しかし一人一人の生徒に「文」と「武」の両方を求めるのは、理想論というか不可能というか二足の草鞋を履かせるようなもので、やはりどう考えても無責任なのである。
そもそも武とは「武術」や「武芸」を指していた。それがいつの間にやら「部活動」にすり替えられてしまった。この平和な時代に武術なんて必要ないというのは分かる。しかし、その替わりが部活動でなければならない理由はないはずだ。教科として体系化された「体育」の方が、その役割を務めるのに相応しいように思う。鎌倉時代に武士が台頭し、それ以降彼らが時代の舵を切ってきた。彼らは武芸にこそ励むが学問に目を向けようとしない。それどころか学問に勤しむ人間をさげすみさえした。その事態を良しとしない時の権力者が「文武両道」を奨励したのである。
つまり「文武両道」という言葉は、「武」への偏重を抑止して「学問」にもしっかり励まなければならない、という学問擁護の立場から生まれたものである。しかしながら今日では「勉強だけに専念しなくとも良いのだ」、「試合が迫っているから勉強する暇がない」といった学問に専念しなくてもよい言い訳や、学業に優先して部活動を行ってもよい免罪符になっているケースが間々ある。
部活動そのものを端からを否定する気はない。私が否定的なのは、疑問も抱かずに「文武両道」を美徳とする右に倣えの校風や偏った見方である。熟慮の末、敢えて自ら「文武両道」の道を閉ざす者もいる。部活をしたい気持ちをやむなく抑えて、学問にだけ専念する生徒もいるのだ。そこまでの覚悟で勉強や受験に臨む者の方が、よっぽど武士(もののふ)のようで私には格好よく映る。
« 女王の手 | トップページ | 竹岡塾時代 ー文武両道論 その2(再)ー »


コメント