転ぶのは恥ではない
昔、発音のミスを指摘すると泣き出した生徒がいた。別に強い口調で言ったわけでも、嘲笑うように注意したわけでもない。負けず嫌いな子なので、恥ずかしさや悔しさから溢れた涙だと思う。その志の高さは素晴らしいし、そこまで私の一言が心に響いているんだと思うとむしろ感激ですらある。単語テストの不合格が慢性化して心が麻痺し、何の反省も罪悪感も抱かない子よりはよっぽどまともである。しかしながら、泣かんでもいい…。
学習者は完璧ではいられないし、完璧なら塾に来なくてもいいのである。間違えても知らん顔で全く心に響かないようなのは別として、ミスを指摘されることを受け入れられる逞しさは必要だろう。もちろん訂正されていい気はしないだろうし、自尊心が傷つくかもしれないが、このまま放置されるよりははるかにいい。以前、surgenの訳である「外科」を「がいか」と読んでしまった生徒がいて、さすがにその時は執拗にからかいまくったが、それ以降の人生で同じミスを犯すことは決してあるまい。というのは極端な例だが、「先生は私の言うことを一言一句注意して聞いてくれてるんだ」とポジティブに捉えてくれるとありがたい。
私自身も恥ずかしい思いはいっぱいしてきた。いまだにトラウマと化しているものや、もはや生きる上で耐えられないので強制的に脳が消去してしまったものまである。中学の時だったか、英語の授業中、ネイティブの先生に"Understand?"「分かった?」と聞かれて立ち上がってしまったことがある。あろうことか"understand"と"stand up"を間違えてしまったわけだ。教室の一番前の席に座っていた無垢な私は、マジシャンの手伝いをさせられる前列の客のように、立たされて何かを任されると思ったのである。直立してドキドキしている私の背中越しに、クラスメイトの笑い声がくすくす聞こえてくるではないか。私はその状況が飲み込めず突っ立っていたのだが、その哀れな様子がさらに笑いを増幅させたことは言うまでもない。
せっかく「立つ」話をしたので、今度は「座る」失敗談を紹介してみよう。カナダに渡って間もなくの頃、日本語を教えるボランティアをしていた。ある生徒との初顔合わせの際、確かセカンドカップというオシャレな喫茶店だったと思う。その人に向かって"sit down please"「どうぞ座ってください」と言うつもりだったし、実際そう言ったつもりだった。しかしながら、悲しくも日本人特融の弱点である"s"の発音が上手くできずに"sit"「座る」が"shit"「糞」の発音になってしまった。思いがけず"shit down"「そこに糞をしろ」と言ってしまったのである。相手は老紳士だったので決して怒ることも笑うこともなく、もちろんその場で糞をすることもなく、丁寧に私の発音のミスを指摘してくれた。日本語を教えるはずが、逆に英語の発音を訂正されて面目丸つぶれだった。
こういう恥ずかしい経験を20代半ばにはしてきたおかげで、かなりの失敗や勘違いからくる恥ずかしさには耐性がついた。母国語ならまだしも、外国の習得過程で間違うのは当たり前である。ミスで自分の評価や印象が悪くなるかもというのは自意識過剰であり、誰しも自分のことに精一杯でそこまで他人のことなんか気にしてないのである。恥ずかしくても恐ろしくても、停滞した状況から抜け出すには一歩踏み出す勇気がどうしても必要だし、その後のリターンを考えれば、むしろ狂喜乱舞しながらミスを犯していってもよいくらいである。
確かに塾生諸君はこの塾に来てくれただけでその一歩は踏み出したのだと思う。ただ一歩だけでたどり着ける場所なんてどこにもないので、このまま2歩3歩と歩みを重ねていかなければならないのは言うまでもない。授業中にあてられても「分かりません」を連呼するのではなく、自信がなくても思い切って言ってみることもその一歩だろう。ミスを恐れて「分かりません」のことなかれ主義では、いずれ大事なチャンスも高額なリターンも逃してしまう。突拍子もないことを言っても私が上手くフォローしてあげるし、結果笑われたとしても「無味乾燥した授業に、笑いを1つ提供してやったぜ」と思えばいいのである。
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