読めば分かる話
共通テストにおいて、国語で失敗する受験生は少なくない。古文・漢文に苦戦するというのであればまだ納得の余地はあるが、現代文でつまずくとなると少々話は変わってくる。というのも、英語力の本質的な土台には、母語である国語の理解力が深く関わってくるからだ。どれだけ英語が話せて、聞き取れたとしても、それがそのまま読解力につながるとは限らない。実際、ネイティブスピーカーであっても読解を苦手とする人は多く、「英語が話せる=読みこなせる」では決してない。帰国子女に尋ねてみれば、彼らの方がその辺りの実感はむしろ強いかもしれない。
こうした事情もあり、東大をはじめとする難関大では「英語が話せる」こと自体には、さほど価値を置かなくなってきている。むしろ、そうした表面的スキルを超えた、国語力、論理力、そして情報処理能力といった言語の本質的なリテラシーが重視される傾向が年々高まりつつある。つまり、英語が堪能であるだけでは、もはや合格を勝ち取る決定打にはならないということだ。
私自身、センター試験では国語に大きな苦手意識はなかった。古文には少し手こずったものの、現代文(論説・小説)はおおむね良好だった。ただ、それが読書習慣のおかげだったかといえば、必ずしもそうではない。小説を読むようになったのは大学に入ってからであり、高校の国語の授業もそれほど真面目に受けていたわけではない。当時は「ノート点」なる制度があって、いかにノートを色鮮やかに工夫して取るかが評価されていた。授業中も先生の話はそっちのけで、ノートのあちこちに作者や登場人物のイラストを描くことに一生懸命だった。もはや美術の授業である。
それでも国語がそこそこできた要因があるとすれば、やはり漫画の影響が大きいと思う。幼稚園から読み始めた「キン肉マン」を皮切りに、あらゆるジャンルの漫画を読み漁った。学校や塾の授業が早く終わる日には、友人たちと古本屋で2時間ほど立ち読みして帰るのが習慣になっていた。立ち読みしすぎて膝を痛めてしまったこともあったが、それと引き換えに「話の展開を素早く正確に処理していく能力」や「現実に捉われない発想力」、「驚異的な集中力」、さらには「語彙力」や「表現力」もついたし「漢字」にも強くなったと思う。さらに、戦争、病気、恋愛、料理、スポーツ、殺人事件など多彩なテーマを通して、登場人物達の生き方や考え方に触れたり、彼らの喜怒哀楽に心を重ねてみたりと、心の成長や価値観の育成にとって大きな糧となった。
一昔前であれば、マンガなんて「荒唐無稽」「低俗」「不健全」「勉強の敵」とPTAの非難の槍玉に挙げられていたが、むしろ勉強ができない子でも漫画だけは読んでいたおかげで、人生で必要な技能と教養を得られていたのかもしれない。人の身体は、その人の食べたもので作られるが、人間の精神はその人の読んだもので育まれる。そしてそれは活字だらけの本に限らず、漫画でも構わない。結局のところ、どのような形であれ「読む」という行為には多くの可能性がある。そう考えれば、寝転がって漫画に夢中になっている子供を見ても、「またサボって!」と頭ごなしに叱ってはいけないのかもしれない。…ただし、それがスマホじゃなければ、の話である。
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