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2025年11月29日 (土)

メランコリー ~足首再建手術~

入院当日は雨だった。台風が近づいているらしい。駅へ向かう道すがら泥濘に足を滑らせると、何か不吉な予兆のように感じる。昨晩も台所で入院の書類を記入していたら、急に足の甲がこそばくなった。慌ててテーブルの下を覗くと立派なチャバネゴキブリが鎮座していた。見た目に反してフェザータッチである。もちろん手術する足の方である。気にしない性分のはずの私でも、ここまで嫌なことが重なるとどうも気持ちが悪い。

9時に入院手続きを済ませ、担当医に会う。医師はポケットからマジックを取り出して、「手術する方はこっちだっけ?」と言いながら、私の脛辺りに大きく丸を描いた。それから看護師に病室へと案内される。4人部屋だが、カーテンで仕切られていて誰がいるのかわからない。息遣いやガサゴソする音だけは聞こえる。ホラーゲームの『バイオハザード』なら「絶対いるやん」と銃を構えるべき不気味さである。激しい雨が窓を叩き、外は相変わらずの曇り空、私の気分は盛り下がる一方…にもかかわらず、棚に置いてある
手術着に着替えると清々しいスカイブルーだった。

それから2時間後、水分摂取が禁止になり点滴の針を入れられた。「手術は何時からですかね?」と聞くと、「3番目なので15時以降です」とのこと。今から5時間後である。「そんなに待つんですか?それなら入院、昼からでも良かったじゃないですか!」・・・危うく不満が口をついて出そうになるのを飲み込み、「お忙しいですもんね」とだけ答えた。命を預ける彼らに、そんな言葉を吐けるはずもない。

隣のカーテンの向こうから、看護師と患者(お爺さんと思われる)とのやりとりが聞こえてくる。どうやらトイレに行くためにお爺さんを数人の看護師で車いすに乗せようとしているらしい。少しでも体を動かすと痛みが走るのか、「痛い、痛い!痛いって!」「痛いって言っとろうが‼」と怒号の混じった呻き声が聞こえてくる。これから手術を受ける私にとっては、あまり耳にしたくない言葉である。

一方で、私の向かい側の患者は若い子で、足にボルトが何本も入っている重傷らしいのだが、看護師が来るたびに楽しそうに会話している。「彼氏いないんですか?」などと踏み込んだ質問までしていた。学園ドラマのやんちゃな主人公のようである。ただ、結局は彼もお爺さんと同様に、車いすでトイレに連れていかれるわけであり、遠ざかる背中にはさっきまでの勢いはどこにもなかった。

私はというと、これから手術なので、介助なしでトイレに行ける。とはいえ、点滴の交換や手術の説明などで、看護師が何度もやってくる。向かいの若者のように社交的なタイプでもなく、隣のお爺さんのように本音を晒せるタイプでもないので、事務的な会話のみで余談に発展することはない。塾生が「最初は真面目な先生かと思いました」と漏らす印象そのままに、寡黙で大人しい"常識人"として振るまうことにした。というか、手術前の状況では冗談を言う気になどなれない。看護師が来るたびに慌てて起き上がるのだが、そのたびに手術着がはだけて、トランクスが丸見えになる。これでは常識人を振舞うどころではない。場所が違えば公然わいせつ罪である。

緊張感の糸もすっかり切れた午後3時、やっと手術のお迎えが来た。車いすに乗せられて運ばれていく。もはや病院内に午前中の活気はない。エレベーターで下に降りる。扉が開くとヒヤッとした空気が漂う。看護師が「すごく優秀な先生ですよ」と声をかけてくれたのだが、このタイミングでそう言うように義務づけられているかのようで、無機質で抑揚のない響きだった。等間隔の簡易照明、窓を叩く雨音、薄暗いまっすぐな廊下…「お膳立てが整う」とはこういうことなのだろう。先の方に観音開きの扉が見えると、映画『グリーンマイル』のジョン・コーフィ(死刑囚)の姿が自分と重なった。

手術室は、冷蔵庫のようなひんやりした空間だった。手術専門のスタッフが待ち受けていて、看護師が書類にサインをすると、私は青い手術着を着た彼らに委ねられた。一人ひとりが優しく声をかけてくれる。手術台はアイロン台のように細く、両腕の部分はT字のようになっていた。両手首を固定されると、まるで十字架に縛られたキリストのようである。死刑囚や安楽死のような嫌な連想ばかりしてきたが、最後の最後に思い浮かんだのがキリストだったので、少しだけ救われた気がした。そうこうするうちに手術着の下でトランクスが脱がされた。「もっといいパンツを履いておけば…」と後悔しながら、麻酔で眠りに落ちた。

目覚めると病室のベッドにいた。さっきまでのことが全て夢であったかのような静けさである。肝心の右足首に意識を向けると、包帯でぐるぐる巻きにされていて、ズキズキ痛みが走る。次にパンツは…と手を伸ばす。このたるんだゴムの懐かしい感触。どうやら無事、生還を果たしたらしい。


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