年越しミスド
京都、亀岡駅前のミスタードーナツでブログを書いている。時刻は18時。店内に客は私ひとり。BGMは、2周目の「カントリー・ロード」。ガラス越しに見える駅前はもう暗く、年の終わり特有の所在なさそうな空気が漂っている。東京のミスドであれば、客の出入りが激しいので、店内でもコートを羽織らなければ凍えそうになる。それにくらべて、亀岡駅前店はずっとぬくい。店内の様子も静止画のように落ち着いている。人の気配がないこの感じが、私は嫌いではない。むしろ、ほっとする。ただ、あまりに静かすぎて、この店はいずれなくなってしまうのではないかと、余計な心配も浮かぶ。もっとも、大晦日のこの時間にミスドで過ごしている自分の方が異常なのかもしれない。
手持無沙汰なのか、店員が何度もコーヒーを淹れに来てくれる。三分の一を飲んでは、三分の一を足す。それが何度も繰り返されて、もはや、わんこそばのようである。ありがたい反面、どこか落ち着かない。「早く帰れ」という嫌がらせなのか、裏で「私のお代わり数」の賭けをしているのか。どう思われようが、扱われようが、こちらとしても譲れない。当塾の受験生たちは、きっとこの時間も必死になって机に向かっているはずなので、店員の顔色など気にしてられないのである。カフェインの過剰摂取で今晩眠れるかどうかという不安はあるものの、コーヒーでタプタプの腹をさすりながら仕事に励む。
なぜ私は、ここまで欠かさずミスドに通うのだろう。ドーナツが死ぬほど好きなわけではない。コーヒーのおかわりが無料でも、飲むのはせいぜい2杯が限度だ。もっと奇妙なのは自宅の近くには調布店があるにも関わらず、わざわざ京王線に揺られて稲田堤店まで通うという点だ。朝の通勤客で混み合う車内に身を置きながら、誰が「この人はミスドに行くためだけに京王線に乗っている」と想像するだろう。
店に入ると「おはようございます」と声をかけられる。こちらも自然に挨拶を返す。そのやり取りが、少しだけ職場めいている。いつもの席に着き、騒がしい客が隣に来ないことを祈りながら、黙々と作業を始める。コーヒーはパソコン画面の裏にあるので、引っかかってこぼさぬよう気を付けなければならない。以前、英作文を返却したとき「血しぶきみたいなのが付着してます」と言われたことがあったが、コーヒーの染みだったのは言うまでもない。
何かを叶えたいとき、日本には「お百度参り」をするという慣習がある。私の母は、父が癌を患ったとき、最寄りの神社にほぼ毎日足を運んでいたという。以前、声がまったく出なくなり、熱と悪寒に苛まれていた日があった。それでも私は、京王線に乗ってミスド稲田堤店へ向かった。吊り革につかまる腕に力が入らず、身体が大きく揺れる。窓外の多摩川を眺めていると「なぜここまでして自分はミスドに通うのか?」という問いが浮かんだ。その時は「本能」という言葉で片づけてしまったが、今ふと改めて考えてみると、ミスド通いとは、私なりの「お百度参り」なのではないだろうか。少し余談になるが、晴れて空気の澄んだ日には、多摩川を渡る鉄橋から富士山が見えることがある。その瞬間、私は決まって黙祷をする。すなわち、京王線での稲田堤までの通勤には、ミスドへの「お百度参り」と「富士山への願掛け」が行われる神聖な儀式だったのである。
そんなことを考えながら、私はいつもと違わず、ミスド亀岡駅前店の静かな店内でキーボードを叩いている。キーボードを打つ指の動きが、なぜか少しだけ震えている。もうすぐ年が明け「共通テスト」まで2週間という緊張感からか、あるいは先程からのカフェインの過剰摂取からか。例年のように帰省先の京都亀岡駅前で、受験生たちの顔と志望校を順繰りに考えてはコーヒーを何度も傾ける。カップのコーヒーは冷めて苦いが、それでも構わない。
« メランコリー ~足首再建手術~ | トップページ | 2026年 受験結果【随時更新】 »



コメント