珈琲の渋み
二杯目のコーヒーは渋く感じる、と思うのは私だけだろうか。最初の一杯目と同じ豆を使用して、同じ機械で淹れているはずなのに、舌に広がる味わいがどこか違う。逃げ場のない渋みがじわりじわりとしみ込んでいく。三杯目、四杯目となれば、それはさらに苦く、さらに重い。味わうというよりも、もはや耐えるに近い。そもそもコーヒーのおかわりが自由な店など、そう多くはない。せいぜい「ミスタードーナツ」くらいなものだろう。だからこの感覚は、ミスドに足繁く通う者だけの錯覚(中毒症状)なのかもしれない。だが、少なくとも私には、この「二杯目の渋み」が、年を重ねるごとにますます確かなものとして感じられるのである。
今年の受験も、一通り終わった。結果はどうだったのか、と問われれば、世間的には「それなり」と答えるのが穏当なのだろう。実際、「いい結果でしたね」と言われもする。だが、第一志望に届いた者は三分の一にすぎない。残りの三分の二は、第二志望、第三志望、あるいは春を素直に迎えられぬままの(仮面)浪人である。塾を始めた当初であれば、それでも嬉しさが勝ったかもしれないが、開塾して十五年という歳月は、そういう見方を許してくれなくなった。残りの三分の二が、どのような顔で春を迎えるのかを、いやでも知ってしまったからである。受験の結果というものは、結局のところ、一杯目のコクや芳香ではなく、二杯目以降に残る渋みのほうにこそ、その本質がある。
世間の受験業界はというと、相変わらず砂糖たっぷりのアメリカンである。春になると祝福の言葉だけが、桜のように軽やかに舞い上がる。「合格おめでとう!」と大きく書かれたチラシや、成功者の体験談を誇らしげに語らせる広告が、今年もまた街にあふれている。ポスティングされた「〇〇セミナー」の紙片には、うなぎ上りの矢印とともに、「合格者数UP!」の文字が並ぶ。あの上向きの矢印は、実際の中身がどうであれ、上昇しているように見せるための記号でしかない。その裏側を知る者にとっては、「今年も同じ演出だな」と思うだけのことである。知らない者にとっても、あの矢印が下を向くことはないのだろう、と薄々感じているはずだ。もはや何の感情もわかない、春の風物詩の一つでしかないのである。
その手品の種を一つ明かせば、「延べ人数」という便利な統計法がある。一人が三つ受かれば三人として数える。そうして数を寄せ集めていけば、やがて現実の定員すら追い越していく。公立高校でさえ、結果をよく見せたいのか、ほとんどが延べ人数でしか結果を出したがらない。結果として、すべての高校のMARCH合格者数を合算すれば、天文学的な数字になる。それでも誰も困らない。数字は現実を説明するためのものではなく、現実を飾るためのものだからである。
そうした春のざわめきがひと段落すると、教室には新しい顔が並ぶ。本来であれば、春の陽気にのせられて、こちらも温かく柔らかく接するべきなのだろう。だが、私にはどうしてもそれがうまくできない。受験の残り香、いや後味とでも言うべきものが、まだ舌の上に残っているからである。あの渋みを知ってしまった以上、甘く軽やかな言葉を選ぶことが、どこか欺瞞に思えてしまうのだ。
「しんどかったけど、楽しかったです」
卒業生たちがそう言ってくれるたび、またコーヒーのことを思い出す。一杯目の甘い香りではない。二杯目、三杯目と重ね、苦みと渋みを重ねた末に、なお残る味わいのことである。あれに耐えぬいた者だけが、最後に「うまい」と言えるのかもしれない。
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